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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

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善良な人はその嗣業を子孫に残すが、罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

外出先で車を走らせていると、ふとある教会を通り過ぎたが、その掲示板に「キリストと婚約」という説教題が書いてあった。 筆者はむろん、その教会に立ち寄るつもりも、礼拝説教を聞くつもりもないが、象徴的なタイトルだと心に留めた。

折しも、最近のオリーブ園には、オースチンスパークスの「キリストとの合一」の連載が始まったところである。

筆者は、ここ最近、ますますキリスト以外の何者にも頼ることなく、地上の人間との関わりに一切、心奪われることなく、ただ信仰だけによって生きるべきだとの確信を心に強めている。

上記の御言葉は、口語訳では、こうなっている、「 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。 」

「ただ一人男子キリスト・・・」、この聖書の表現は、何ら嘘でもなければ、誇張でもない。なぜなら、花嫁なる民(エクレシア)にとって、花婿なる男性は、キリストただお一人だけなのであるから。
 
パウロは、キリストがご自分の花嫁を愛されるのと同じように激しい愛情を持って、自分が養い育てて来た信徒らを見つめ、もしや万が一にも、彼らの心が、キリスト以外のものに奪われ、神を悲しませやしまいかと、気をもんでいたのである。

パウロがいた当時のコリントの教会には様々な問題が起き、信徒たちの信仰も、頼りないものであったかも知れないが、パウロは、そうした現状を見るのではなく、神がご覧になっている花嫁としての教会の姿を見つめ、キリストご自身を反映したその美しさ、その完全さに、心奪われるほどまでに熱心な愛情を注いでいたのである。

エクレシアの一員たる私たち信徒は、自分がそのような眼差しで神に見つめられていることに気づいているだろうか。

さて、この人間社会に生きていると、不思議な出会いが多々あり、他者から熱心な好感を表明されたりすることも、時にはある。人は誰でも他人から好意を示されることに、悪い気はしないものだが、パウロが信徒たちを見つめていたような、熱心な愛情をこめて見つめられれば、なおさらのこと、情にほだされそうにもなるだろう。

ところが、筆者はここ最近、どんなに人から好意を受けようとも、どれほど賞賛と支持を受けようとも、人間の互助組合としての、人間の連帯からは、一切、離脱して、人間的な慰めにすがらず、ただキリストのみを頼りとして、キリストのためにのみ、生きるべきだという確信が、心に増し加わっている。

これは、筆者が人間嫌いの偏屈で頑固な変わり者であるがゆえに言うのではない。パウロも、別な箇所では次のように述べている。

「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。<略>ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

兄弟たち。わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:16-31)

これは驚くべき言葉であり、パウロが実際に、キリストに結ばれた信者たちは、まことの伴侶なるキリストだけのために生きるのが理想であると考えていたこと(そしてパウロはそれを実践して生きたこと)をよく物語っている。

従って、冒頭に挙げた「キリストと婚約させた」という言葉は、パウロにとっては文字通りの意味を持っていたのであって、パウロ自身、キリストにのみ捧げられたエクレシアの一員として、生涯、キリストを満足させるためだけに生きたのである。
 
それだけでなく、パウロがここで、妻を持つことを、物を売ったり買ったり、喜んだり泣いたりするといった浮き世の些事と同列に論じていることに、注意したい。今日の世の中の多くの人々にとって、自分の望み通りの伴侶を得て、安定した家庭を築くことは、死活的な重要性を帯びた一大事であろうが、パウロは、そのようなことは、すべて永遠とは何の関係もない、移ろいゆくこの世の有様に過ぎず、取るに足らない地上的な事柄でしかないと、切り捨てているのである。

そして、人の目に自分がどう映るか、どうやって人を喜ばせるかといったことばかりに気を遣うのではなく、どうやって神を喜ばせるかに第一に心を砕いて生きるべきだと、信徒に語り続けるのである。

そこで今、筆者も、もしもこの世の人々が、私たち信じる者に、人間的な長所や魅力を見いだすとすれば、それはすべて、我々の生来の資質から来るものではなく、ただキリストご自身に贖われたエクレシアとしての栄光に満ちた輝きに由来するものだと考える。

神が筆者のために、キリストを贖いの犠牲としてお与え下さり、筆者が御子の命と性質にあずかっているからこそ、筆者にかけがえのない価値が生まれるのであって、もしも筆者が、ただ一人の男子キリストだけのために捧げられた聖なる花嫁(エクレシア)であるというステータスを自ら捨てるようなことがあれば、筆者の魅力、輝き、新鮮さといったすべての美点は、たちまちのうちに無いもののように消え去ってしまうことであろう。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

人間はみな神の宮として造られたのであって、宮は、神がその中に入ってこそ、初めて意味を持つ。ただ空っぽの、神不在の宮は、どんなに美しく造られていようとも、無価値である。

このようなわけで、筆者は、人々の優しさや好意、賞賛や賛同に触れるときには、注意しなければならないと思っている。神の目にではなく、人間の目に自分がどう見られるかを気にして生きるようになることは、キリスト者にとって重大な罠だからである。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)
 
筆者は大勢の人々が手に手を取って入って行く滅びに至る広い門を非常に忌むべきものとみなしており、これを拒み、ただキリストのつつましい花嫁として、人の目には評価されない十字架の道を歩んで行きたいのである。

つい今しがたも、これまで神の御前で単独者として、共に孤独な戦いを戦い抜きたいと願った人々の一部が、広い門へと逸れて行ってしまったのを見た。

彼らは、組織から離脱した人々であったが、再び、組織に所属することを選んだと筆者に告げて来たのである。

こういう事例を、筆者は今まで、数えきれないほど見て来た。腐敗した宗教団体からエクソダスし、人間の指導者につき従うことを拒み、神の御前の単独者として、聖なる花婿であるキリストだけを忠実に待ち望む花嫁として、孤独をも、恥をも耐えて、戦いを忍んで勇敢に生きようと決意した信者たちの、実に多くが、実際に孤独と迫害の中で、一人では立ちおおせなくなって、人間的な助けを求めて組織へと戻って行った。

筆者から見れば、そのようなことは、エジプトを脱出した人々が、再びエジプトに戻るのと同じ、信仰の後退であり、しかも、そういうことが起きる際、彼らが戻って行く先の組織は、決まって、彼らが先に所属していた組織よりも、もっと後進的で、命の息吹の感じられない、死んだ古い組織なのである。だから、そのような場所へ戻れば、彼らは前よりも悪い状態に陥りかねないと筆者はいつも危惧している。

そういう現象が起きるほど、信仰の試練を一人で立派に耐え抜くことは、大勢の人々にとって難しい。彼らにとって、リアリティと見えているのは、目に見えるこの世であって、見えない天ではない。

多くの人々は、神から疎外されることよりも、社会から疎外され、世から偏屈で頑固な変わり者だと非難されることを恐れる。彼らは、神との間で齟齬が生じることよりも、社会との間に軋轢が生まれることを恐れる。さらに、世に迎合しないことによって、生活の糧が失われることを何より恐れる。

昔の信仰の先人たちは、地上的な保障が何もないところで、ただ信仰だけによって、天からの富によって支えられて生きる方法を知っていたが、今日は、聖職者と呼ばれる人々の中にも、荒野にあっても、信仰によって生きる秘訣を心得ている人は、ほとんど見当たらない。

孤独や、窮乏や、迫害や、行きづまりが見えて来たとき、ほとんどの人たちは、それを信仰によって乗り越えられると思わず、回れ右して退却して行くしかないと考える。

今、真の意味で、神の国の働き人であり続けられる人々が、西を向いても、東を向いても、ほとんど見当たらないのである。

だが、荒野が嫌だからと、エジプトに戻れば、奴隷としての日々が待っているだけだ。それでも、彼らの目には、荒野で死に耐えるよりは、エジプトで再び奴隷となって生き延びる方が安全だと映る。人間の互助組合の助けを借りれば、せめて暮らしは保障されて、厳しい寒さや熱さを和らげることができると思うのであろう。だが、それは誤りである。

あるジャーナリストが、安倍政権が続いた先に待ち受けているものは、ベネズエラのような運命だと訴えているが、実際に、日本全土が、ここ数年で、恐ろしいほどの貧しさの中に落ち込んでおり、この先、それが和らぐ見込みは今のところ見いだせない。

宗教団体などの人間の作った互助組合も、貧しさの煽りを受けており、従って、一人では信仰の試練を忍び通せないと考える人たちが、身を寄せ合って寒さをしのごうとしても、そこで延命できるのは、せいぜい、一日か、二日程度である。無いものは無いのであって、分かち合えばさらに減るだけである。

何度も書いて来た通り、我々が無事にそして有り余る命の豊かさの中で生き残るためのただ一つの有効な手段は、どんな団体に所属するかという点にはなく、神の国とその義を第一として生きることにこそある。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)


この法則のおかげで、筆者は今もこうして神の義に立って証を続けることが可能となっている。だが、筆者は、これから先、ただ神の御前に義とされるだけでなく、栄光にたどり着かねばならないと考えている。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

栄光を受けるとは、信仰の試練を立派に耐え忍び、勝利をおさめ、ただ「合格」基準に達するだけでなく、「よくやった」として褒賞にあずかることを意味する。
 
今、筆者は、エジプトで宰相となったヨセフが、来るべき大きな飢饉を予見して、それに備えて何年も前から、穀物の備蓄を命じたように、来るべき霊的飢饉に備えて、天に宝を貯蓄しておくことが必要だと考えている。それは目に見える飢饉が現実に迫っているだけでなく、霊的なひどい飢饉がすでに到来しつつあるためである。
 
イエスは言われた、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、貴方の心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)

しかし、一体、天に富を蓄えるとは、何を具体的に意味するのだろうか。
 
ここで、主イエスが、弟子たちに向かって、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある。」と言われたことを思い出したい。

「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)

主イエスは、神の御心を行い、そのわざを成し遂げることが、ご自分の食物だと言われた。これは、神の国と神の義を追い求めれば、すべてのものが添えて与えられるという御言葉とほとんど変わらない意味を持つ。

神の御心を行うとは、神を愛し、その御言葉に従って、神が贖われた兄弟姉妹を愛し、貧しい者を虐げず、他人の物を奪わず、人を欺かず、とらわれ人を自由にし、悲しむ人を慰め、正義を行い、真実を尊び、神が真実で憐れみ深い方であるように、慈しみ深く生き、悪や虐げや暴虐から遠ざかること等を意味する。

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。 」(ミカ6:8)

神の御心を行い、神の慈しみに生きるならば、必ず、その人の生涯は、主ご自身が守って下さり、神がその人のすべての必要を満たして下さる。そのことは、ダビデも以下のように書いている通りである。

「主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。
 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない 
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。
 主は正義を愛される。
 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。」(詩編37:23-29)

では、荒野で倒れた人々には、何が足りなかったのだろうか。彼らには、食物の少ない荒野にあっても、そこには、神の御言葉という、自分を生かす、目に見えない朽ちない食物があることが、発見できなかったのである。

彼らには、目に見える食物が目の前にないとき、目に見えない食物から、どうやって目に見える食物を取り出すのか、その秘訣が分からなかったのである。

そうなったのは、彼らには、信仰がなかったために、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)という事実が見えていなかったためである。

すなわち、我々信仰者は、見えない神の御言葉を通して、目に見えるものを実体として呼び起こし、引き出すことができるのであり、すべてのものはそのようにして神の御言葉によって出来たのであるが、その法則が、彼らには分からなかったのである。
 
宗教組織によりすがれば、安全な信仰生活を送れると考えることが、どうして間違っているのかという根拠もここにある。組織や団体は「目に見えるもの」である。しかし、信仰により、私たちが神の国を受け継ぐ者であることを保証し、まことの命の糧を与えてくれるのは、これらの「目に見えるもの」ではなく、目には見えない、内に住んで下さる聖霊である。

私たちがこの内なる御霊を通して、キリストご自身から全てを引き出す秘訣を学ぶことを捨てて、ただ厳しい試練を一人で耐え抜く自信がないために、あるいは、手っ取り早く安全な生活の保障を得たいがために、自分が生きている根拠を、「目に見えないもの(神の御言葉)」ではなく、「目に見えるもの(団体)」に取り替えると、私たちにすべてを供給してくれるまことの命の働きがやみ、やがて命の源が失われてしまうのである。

では、我々は一体、どうやって、逆境を切り抜け、信仰によって、御言葉による創造を行い、無いところから、有るものを呼び出し、朽ちない宝を生み出していくのか?
 
今、我々を取り巻く目に見える世界は、徐々に貧困化している。憎むべき悪魔は、今日もほえたける獅子のように、弱く貧しい無知な人々を、獲物のように食い尽くそうと、あたりを徘徊し、見つければ、虐げ、騙し、脅し、ゆすり、たかり、財産を巻き上げ、路頭に迷わせ、骨までしゃぶりつくそうと狙っている。

悪魔と暗闇の勢力は、人々を飢餓状態に陥れ、互いに憎み合わせ、殺し合わせ、あわよくば共食いにさえ陥らせたいと、グロテスクな計画に心躍らせているのかも知れない。

しかし、我々信じる者たちは、信仰によって、まるで熟練した腕前を持つ狩人のように、吠えたける獅子に御言葉を矢のように打ち込み、これを捕獲して、分捕りものとして縛り上げ、檻に入れて持ち帰り、凱旋の行進の中で、さらしものにした後で、蔵に食料として備蓄しておくことができる。

武装を解除してしまえば、それはもはや獣ではなく、おとなしい動物であり、食べ物にもなろうし、家畜にもなろうし、獣が従えていた捕虜たちも、当然ながら、分捕り物となるであろう。

このような話を聞いて、きっとこれは非常に悪い冗談か、皮肉を言っているに違いない、と思う人もあるかも知れないが、そういう人には、エステル記の終わりを読んで欲しい。

ハマンは王の家臣に過ぎなかったが、自分が王の代理人であるかのように慢心し、モルデカイが自分を拝まないことに腹を立て、ユダヤ人を皆殺しにしようとはかった。その謀略が王妃エステルによって暴かれ、ハマンがモルデカイを吊るそうとして庭に作った処刑台は、かえってハマンを吊るす処刑台となり、ハマンが所有していた豪邸は、王妃エステルに与えられた。ハマンがはめていた王の指輪は、モルデカイに与えられ、モルデカイはハマンのものであった家の管理を任されただけでなく、かつてハマンが占めていた地位を受け継ぎ、さらにそれを超えて、家臣というよりも、一人の王のようにさえなったのである。

さらに、ユダヤ人には、ユダヤ人を殺す目的で武装した人々を、逆に殺して財産を奪い取ることが許可された。エステル記8~9章にはこうある、

「その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。 」

「モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。」

「モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。」


むろん、これは旧約聖書中の出来事であって、これを現代のキリスト教徒に文字通りに当てはめるわけにはいかない。

しかしながら、これは霊的絵図であって、今日、キリスト者に任されている使命が、御言葉を武器として用いて、暗闇の勢力が占領していた領域を、キリスト者に明け渡させることにあることを、はっきり示している。それが成就すると、暗闇の勢力の首領が恥をこうむって退却するだけでなく、明け渡しに伴い、財産の移譲が行われる。「もろもろの支配と権威」が武装解除されて、主の民の凱旋の行進の中に捕虜として連行され、さらしものとされる際に、それらの支配と権威が不当に占領して来たすべての富も、光の子らに明け渡されるのである。

そのことが、「善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。」という箴言13:22の御言葉にも表れている。

次のコロサイの書に記されている御言葉の中には、何を根拠に彼らが武装を解除されるかが示されている。むろん、根拠となるのは、信じる者の罪を一切、無効にするキリストの十字架である。私たち信じる者が一切の罪を赦され、義とされる代わりに、私たちを捕虜とし奴隷として拘束していた暗闇の勢力が罪に定められ、恥をこうむるのである。
 
「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

このように、神の御心を行って生きるとは、御言葉を現実の目に見える世界に適用し、そこに貫き通して、神に敵対する勢力との間で起きる、激しい争奪戦に打ち勝って、暗闇の勢力が不当に占領していた目に見えない領土を奪還することを意味する。

それはただ単に困っている人々を助け、貧しい人々に施し、とらわれ人を自由にするといった、人間に対する善良な行いや、慈善事業を意味するのではない。

神の御心を行って生きることは、御言葉を用いて、神に逆らい、人間を虐げ、苦しみの中に閉じ込めている暗闇の勢力の支配を打ち破り、彼らが不当に占領していた領域と、所有物を吐き出させて、これを愛する御子キリストの、光の子らの支配下に移譲する戦いを意味する。

これが、永遠に至る収穫を得て天に富を蓄えること、また、目に見えない神の御言葉を行使して、そこから地上的な利益を引き出すことの具体的な意味である。しかし、この戦いが持つはかりしれない重要な意義、および、その戦いの方法を実際に知っている人は、信者の中にも、ほとんどいないであろうと思う。<続く>

わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるからである。

「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:5,9)

新年から取り組んでいた課題は無事に果たされ、提出が終わった。今また新たな書面作りの作業に取り組んでいる。ブログを書いている時間がないのはそのせいであるが、この上なく充実した時間である。この書面作りこそ、筆者の真の仕事だという気がしてならない。

しかし、これまでを振り返ってみると、毎年2月は筆者にとって一年の中でも最も困難で憂鬱な時期であった。越冬のための力が、1月後半頃からじわじわと尽きて来て、2月に入る頃には、もうすすっかり活動エネルギーがなくなってしまっている。

そこで、2月から3月の頭に差しかかる頃が、一年の中で最も困難な時期となる。この頃になると、身も心も冬眠状態に入り、毎年、3月にたどり着く頃には、まるで発芽を待っている種のごとく、春を待つのがやっとという状態になる。

だが、今年は冬に重要な仕事が山積しており、ここからが正念場である。寒さになどやられているわけには行かない。

そういうわけで、今年は2月を元気に無事に乗り越えることを、昨年末からの課題にしていた。が、あいにく、精神論だけでは乗り越えられない。1月末になる頃には、早くも大きな壁にぶつかった。寒さの中で、分厚い書類を作り続けていたために、体にしわよせが来て、ここ何年間も発症してなかった持病が現れて来たのである。

とはいえ、持病と言っても、筆者には特に病気があるわけでもなく、ただ寒さが身に堪えると、体に負担がかかるだけだ。だが、これが本格的に発症すると、二週間ほどは寝たきりになりかねず、そんなわけには絶対に行かない。

ここはもう物理法則を打ち破る復活の命の力による上からのエネルギーによって強められるしかないと、筆者は祈った。筆者自身の人間的な限界では、とてもではないが、これほど大きな課題を、このような困難な時期に果たすことはできない。

そこで筆者は、もう何年間も、経験していないような上からの力を、主に乞うたのである。はっきりと声に出して主に助けを求めた。

キリストの復活の命の中を生きるとき、人は自分の生来の命の力ではとても成し遂げられないような大作業を軽々とこなすことが出来るようになる。山のように恐ろしい課題が目の前に山積しているときでも、未だかつて取り組んだことのない困難な事業に取りかかろうとしているときにも、しかも、誰一人その負担を理解する者もなく、共に負う者もないような時でも、圧倒的な平安が心を包み、勝利の歌が心の中で聞こえるのである。

それはまるで恵みの御座のそば近くで、命の川からじかに水を汲んで飲んでいるような具合である。

親猫が子猫の背中をくわえ、ひょいと上に持ち上げるように、あるいは、大きな鷲が、自分のヒナを足でがっしりと掴んで、高く天まで舞い上がるように、まるで自分のものではない大きな力で、何もかもを下へ下へと引き下げようとするこの世の重力に逆らって、上へ上へと高く持ち上げられるような具合なのだ。

この世の全ての重荷、自分自身の重さが、感じられなくなり、自力ですべてを成し遂げようとしていた時の苦しみに比べ、すべてのことが、軽やかに、鮮やかに、そして、喜びと平安の中で成し遂げられるようになる。

とはいえ、それは人の霊の内、心の内で起きることがらであって、外見的には何の変化も見られない。気温が変わるわけでもなければ、自分の周囲の環境が見違えるように変化するわけでもない。目の前に広がっている光景は相も変わらず、凡庸に見え、そして自分自身の生来の弱さも変わらず、物理的な世界は何も変わらない。

変わっているのは、その人の内側だけなのである。ところが、その内側から、この世の目に見える世界を覆すような圧倒的な力が外にあふれ出して来る。凡庸で何一つ心を揺さぶることなく、むしろ、厳しい限界を突きつけるだけの現実の只中に、すべてが完全であり、美しく、調和の取れて、制限されることのない、もう一つの「現実」が、上からかぶせられるがごとくに、二重に重なるのである。

その結果、この滅びゆく世界を眺めていてさえ、そこにまぶしく、輝くような真新しい喜びに満ちた「現実」が、満ち溢れていることが見えて来るのである。

これは本当に不思議なことである。滅びゆくこの世の秩序体系の上に、永遠に滅びることのないもう一つの天的な法則性が「上から着せられる」のである。
 
たとえは悪いかも知れないが、それは事故を起こして放射能漏れを起こす原子力発電所に、これ以上、世界に害をまき散らさないようにと、石棺をかぶせる作業にも似ているかも知れない。石棺は必ず劣化して、いつしか修復が必要になるが、天的な秩序は、この世のすべてを覆い、劣化することなく、決してこの世の物理法則によって触れられることがない。

しかも、石棺は、何らその下に覆われているものを修復することができず、生かす力もなく、ただ滅びゆく物質の醜さ、恐ろしさ、有害性を束の間、覆い隠すだけであるが、キリストの復活の命に基づく天的秩序は、その中に覆われ、くるまれた滅びゆくものに、朽ちない新たなエネルギーを供給し、全く新たに完全に生かすことができる。滅びゆくものの醜さや害悪を覆い隠し、これを殺し、汚れのない新しい命により生かし、完成されて調和の取れた美へと変えて行くのである。

筆者は、キリストの復活の命を通して、そのような新たな力が、自分自身だけでなく、筆者を通して、周りの環境にまで及んでいることが分かった。二つの現実が筆者の前に見える。一つは、今まで通りの不完全な朽ちゆく世界の秩序であり、その上に、それと非常によく似ているが、贖われて完成された、喜びに満ちたもう一つの秩序が重なっている。まことに、被造物が贖われるときを待ち望んで呻いているというのは、こういうことかも知れない。
 
私たちは贖われた世界をまだ肉眼で見ていないにも関わらず、その秩序が「すでに到来している」ことを霊の内で知っている。

このように、キリストによって新たに生かされた人は、その内側に、はかりしれない神の永遠の命を持っており、そこから、この世のすべての物理法則の限界、人間自身の有限なる命の限界を打ち破って、この世の被造物の限界を軽やかに乗り越えながら、すべてを新たに生かし、生み出す力が、外へ流れ出て来る。

これは無から有を生み出すことのできるエネルギーである。だが、この新しい命のエネルギーは、決してその命を持っている人を超人にすることはないし、そのエネルギーによって周囲を圧倒することもない。

これはとても自然でさりげない隠された命で、主を喜ぶことと一つにつながっている。この命は、十字架上ですべてを成し遂げて下さったキリストへの賛美と一つにつながっている。パウロとシラスが投獄されていた時に、獄屋を震わせたあの力は、主がカルバリで取られた勝利の命に基づいている。

しかし、その力は、決して見る者を圧倒し、なぎ倒すような非人間的なエネルギーではない。その力は、私たちの弱く脆い天然の命や、限界ある自己存在を圧倒したり、脅かすことがなく、これと優しく同居し、これを包むことができる。

この新たな命は、御霊の油となって、私たちのひび割れて劣化して隙間だらけとなった自己存在の只中から、芳しい香油のように、外へ外へと溢れ流れ出て来るのである。

筆者はこの命のエネルギーを何にたとえるべきか分からないが、その力が行使されるには、私たちの心からの神への賛美が必要であることを知っている。この力が内側からあふれ出て来るためには、私たちの心が、神と争いがなく、透明で、真っすぐである必要がある。そのような心の状態をキープする時、まさに主は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注いで下さるという、あの詩編の御言葉が成就するのである。

また、その油は、私たちの心からの神への愛と賛美に基づいている。それはすべての逆らうものを包み込んで行くような愛である。洪水のような愛と言っても良いだろうか。洪水は常に恐ろしいものであるが、愛が洪水のように流れるならば、それは人間にとって決して恐ろしいものとはならないはずである。

私たちがキリストの復活の命の中を生き生きと歩むとき、目に見えない洪水が起きる。世の中は相も変わらず、私たちの限界も相も変わらないが、その限界の只中から、新しい生き生きとした命のエネルギーが、目に見えない洪水のように外に流れ、溢れ出し、すべてのものを新たに生かし、私たちの魂は喜びに満ちる。

私たちの心は、まるで雲間が晴れて、遮るものがなくなった青空のように、神との間に妨げがなく、「すべては終わった」という勝利に立つことができる。

その時、すべてのこの世の喧騒は、はるか足の下にある。問題はなくなっていない。未だ目の前に山積している。それにも関わらず、すべては終わった、勝利は取られた、という確信が心の中に揺るぎなくあり、私たちは大胆に勝利の歌を歌うことができるようになる。

これまで筆者は、様々な個人的問題に直面した際に、一つ一つ、信仰によって勝利をおさめる術を学んだ。だんだんその戦いのスケールが大きくなっているのを感じる。現在、筆者が直面する課題は、もはや筆者個人の利益を回復するためだけにあるものではなくなり、個人を超えたもっと大きなスケールで、この世に対する衝撃力をもたらすための戦いへと変わりつつあるのだ。

これまでに筆者は、自分個人のために、たくさん戦って来た。だが、その戦いが一定量に達したとき、これまで積み上げて来た経験を、もはや自分個人のためにではなく、筆者の知らない大勢の人々のために、社会のために、あるいは教会のために、あるいは神を知らない人々のために、筆者とは縁もゆかりもないように見える人々のために、用いなければならないと考えるようになった。

とはいえ、このことは決して筆者が何かしらの社会事業に乗り出すことを意味しない。新たに慈善団体を立ち上げたり、社会改革の旗を掲げて、組織を作ったり、人を集めることも意味しない。そのようなことではなく、筆者の生き様そのもの、存在そのものが、もはや個人のレベルを離れて、筆者が見たこともなく、知ってもいない大勢の人たちに、そして筆者の知らない未来にまで影響を及ぼすために、捧げられたと分かるのである。

もちろん、筆者は神に仕えて生きることを第一としているため、社会のために身を捧げるなどと言うつもりはないが、それにしても、神への愛の中に、すべての被造物への愛が内包されている。神を第一として生きることは、神が造られた被造物を愛することと決して矛盾しない。そこで、この道を行くならば、どこかの時点で、人は必ず、自分自身のために生きることを離れ、自分の存在を、神に捧げるのみならず、人々のためにも喜んで捧げられるようになるだろう。
 
繰り返すが、そのことは、決してその信者が、この世に迎合し、人間の欲望の奴隷として生きることを意味しない。人々に仕えると言っても、それはあくまで十字架の死を通してである。あくまでこの世に対してはりつけにされて死んでいる者の立場からである。

だから、筆者は多分、自分のしていることが、この世の誰にどのように利益をもたらすのか、きっと最後までわからずじまいであろうと思う。筆者が成し遂げたことが、筆者が生きているうちに、筆者自身の栄光となって帰って来ることは、まずないであろうと思う。それで全く構わないし、それで良いのだ。
 
この世の評価などとは全く関係なく、筆者には、神との間で争いがなく、愛を持って、互いに頷き合うことのできる関係があることの方が、はるかに重要である。神に受け入れられているという喜びに満ちた確信、そして、筆者自身も、自分を贖って下さった神に従いたいという願いを持って、互いに承認し合う関係があることが、何より重要である。

神との間に何一つ隔てとなるものがなく、筆者のために必要なことをすべて神がキリストの十字架の上ですでに成し遂げて下さっという、この喜びに満ちた勝利の確信を、常に心に保ち続けることこそ、信仰生活を最後まで勇敢に力強く歩み通すための最たる秘訣である。

私たちは、この限界ある世に、信仰によって、神の完全を引き下ろすために生きている。神の国は、私たちの存在を通して、すでにこの世に来ている。神はご自分が完全であられるように、ご自分の子供たちにも、完全であって欲しいと願っておられる。そのことを、私たちは改めて思い出す必要がある。

そこで、私たちは大胆に御名によって権威を行使して、神が我々のために用意して下さった完全を地に引き下ろすべきである。その時、すべての痛んだ箇所、ひび割れた箇所、すべての隙間、弱さに、御霊の油が染み透り、ひび割れを覆い尽くして流れるであろう。

神の完全が地に現されるために必要なすべてを、主は予め天に備えて下さっている。主の御名は誉むべきかな。 
 
「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの者は加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:28‐34)

あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。


天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべての者よりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた者です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ1:13-23)

今朝のオリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (9)」は、キリストと共に十字架で人の自己が死に渡されることがどれほどエクレシアにとって重要な事柄であるかを語るものであるため、以下に掲載しておく。

なお、一つ前の記事にキリストのからだとしてのエクレシアの働きについても、必要な聖書箇所を補っておいた。

これまで筆者は繰り返し、エクレシア(教会)に参加するためには、それぞれの信者の自己が戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないことを書いた。以下の論説も、ちょうど同じテーマを扱っており、キリストと共に自己を十字架に死に渡すことなく、キリスト者の交わりに参加しようとする者が、どれほど神の福音の証しを損ない、交わりを害してしまうかについて言及している。

主と共に真に十字架に赴くことがない人々は、いわば、ただクリスチャンに偽装しただけのような存在であり、交わりをかく乱するだけでなく、真に主と共に十字架に自分を同形化しているクリスチャンにも多大な悪影響を及ぼす。

それは筆者が繰り返し書いて来た、神の最善を退けて、人間の思いを優先する次善であり、しかも、自分たちが次善であることが暴かれないよう「最善」を攻撃する「次善」であり、神の教会から真に衝撃力の伴う御言葉の証を取り去ろうとする。

ところが、嘆かわしいことに、今日、教会と呼ばれている団体の8~9割はこうした人々で占められているのではないかと思われる。それほどに、今日の教会は真に霊的衝撃力の伴う神の証しを失って、弱体化しかけている。

その状態が回復されるためには、やはり真に主と共に十字架を通る人々が新たに起こされる必要があり、キリストと共なる十字架とは何であるのかが、人々の目に公然と証される必要があろう。

今更、説明の必要もないとは思うが、信仰によって前進する過程で、私たちは、自己の安寧、自己の都合、自己の名誉・・・といった生まれながらの自己の必要性を、自分の手から離して、神に明け渡すことが、どうしても必要になる。その戦いは、個人個人によって性質が異なるものであり、何をどこまで主のために手放すのかは、人に要求されてすることではなく、各自が神との間で相談して自主的に決めることである。

今日、暗闇の勢力が行っている欺きはこういうことである、「主と共に十字架で死ぬですって?十字架で自己を手放すですって?何を言っているんですか。そんなのカルトですよ。あなたは日常生活も放棄して、自分の願いを自分で滅ぼして、自分で自分を否定して、自分の楽しみや喜びを放棄して、一体、何をしようとしているんですか。クリスチャンがそんなみすぼらしく、みっともない貧しく孤独な生活を送る必要はありません。日曜日に教会に通い、牧師の説教を聞いて、献金をしていれば十分ではありませんか!後の時間は、自分の幸福のために使えばいいんですよ。」

だが、神は私たちの全存在を求めておられ、私たちが全身全霊で神を愛し抜き、従い抜くことを願っておられる。それが代償なしに達成されるはずもない事柄であることは明白である。神が先にその愛する独り子を地上に送り、私たちのために犠牲とし、命を捨てて下さったのに、私たちの方は、自己の安寧を微塵も手放さず、ただひたすら自分のことだけを考えて、一つの痛み苦しみも味わうことなく、神に従えるというのだろうか。そんなことを考える方がどうかしているだろう。

しかし、もちろん、神は初めから私たちの理解も及ばないような著しい代価を求められることは決してない。神は私たちの弱さを知っておられ、あくまで私たちの同意に基づいて、ご自分のみわざをなさる。クリスチャンの従順は徐々に完成に向かうものであり、神の子としての訓練を受けることで、キリストの御丈まで成長するのである。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:5-9)

主と共なる十字架を知らない人々は、神に従う上で、自分自身にも払わなければならない代価があるということを知らず、肉を十字架において死に渡すことを知らないし、これに抵抗する。オースチンスパークスは書いている、

「新生の問題は、私たちが理解している以上に遥かに大きな問題です。この問題は神の教会の証し全体に影響を及ぼします。悪魔がしてきたのは、真に上から生まれていない人々を入り込ませることによって、イエス・キリストの主権についての証しを損なうことです。主の民は力を奪われています。これが主イエス・キリストの絶対的卓越性についての証しを滅ぼす敵の方法でした。それは三重の天然的関係であり、これを滅ぼせと主は言われました。

 これを言うのは難しいように思われるのですが、たんなる口先だけの者はすべて屠られなければならないという感覚があります。これはもちろん文字通りの意味ではありません。彼らは十字架に行って屠られ、キリストと共に新しい命の中によみがえらされなければならない、という意味です。

あなたは十字架によってとても強く打たれなければなりません。さもないと、証しは損なわれることになります。
ローマ人への手紙は救われていない者ではなく信者たちに対して書かれました。ローマ人への手紙の意義はこれに尽きます。もし八章と共に登場する御霊の中にある主権の生活を知ろうとするなら、それを知ることができるのは六章の死の生活を知る時だけです。キリストと共に死ぬこと、これが中に入る道です。


 十字架のメッセージは、口先だけの者たちを中身のある者たちから、見せかけを実際からふるい分けるのに必要です。そして、これは今日、多くの人にとってとても厳粛で深刻な問題です。肉は十字架に付けられることに憤り、死ぬことに憤ります。善良ではあるけれども口先だけのクリスチャンの群衆と共にあなたは長い道のりを行くことができますが、それはキリストとの一体化が実際的な問題になるまでのことです。その時、戦いが生じます。悪の軍勢はまったくの不信者たちの中に宿っているのと同じように、口先だけの者たちの中にも宿っています。これは敵の巧妙な活動の一つです。敵は露骨な無信仰によってはそれをすることができませんでしたが、「私はあなたたちと同じです」と公言する人々を入り込ませます。しかし、彼らは死んだことが決してなく、キリストと共に十字架に付けられることがどういうことか知りませんし、あるいは、自分たちの生活の中で彼の十字架の経験を実際的な方法で経験したことがありません。」
 
十字架の死と復活の働きは、神が御言葉を人に啓示されて初めて理解されるものであって、人が人に対して教えられるものではない。主と共に屠られるためには、人はしばしば大きな苦難を通らなくてはならない。苦難の中で自分を低めること、自分の主義主張を脇に置き、自分の願望を投げ捨てて、ただ神を信頼して御言葉に従う道を選ぶこと、それだけが、主と共なる死に自分を同形化する道である。

そして、クリスチャンが主と共なる十字架に自分を同形化することに失敗するとき、ある団体がまるごと暗闇の勢力に渡されるという悲劇的な結末がしばしば起きる。

上記の論説に書いてある通り、一つの団体の中に、似て非なる二つの異なる勢力が混在している。そこには、ハガルとイシマエル(肉によって生まれた者)と、ハンナとイサク(御霊によって生まれた者)という、全く異なる勢力に属する人々がいる。

御霊によって生まれた者は、常に「人にはできなくとも、神にはできる」と信じ、大胆に御言葉の証しを掲げ、神のみわざを待ち望んでいる。しかし、肉によって生まれた者は、口先で御言葉を唱えることはしても、そこに信仰がないので、神のみわざを信じて待ち続けることをしない。そして、試練に見舞われれば、すぐに退却し、「人には限界ばかりで、できることは何もない。人をこのように惨めな存在に造られた神は理不尽である」と不満を表明する。

肉とは、言い換えれば、死へ向かう滅びゆく人間が、自己の力で何とかしてその死の決定に逆らおうとする悲痛な努力の総体であり、堕落した人間の命の限界そのもののことである。

人は自分の生まれながらの生命を維持するために、絶え間なく外界からエネルギー源を摂取しなければならず、そこに各種の欲望が生まれる。しかし、これらの欲は、満たしても、満たしても、決して飽かされることがなく、その満足はすぐに消えて行き、またしても渇望が起こるだけであって、人間は生きる限りその欲望の奴隷状態から抜け出せず、自己を満たそうとするすべての努力が、死によってしか報いられないという恐るべき悪意ある逆説の中に置かれている。

肉とは、このように絶え間ない欠乏状態に置かれ、絶えず自己の生存を死によって脅かされ、死を避けるために、自分を救う力のない己の欲に踊らされ、自分の欠乏の惨めで屈辱的な奴隷状態から抜け出せない生まれながらの人間の腐敗・堕落した有限なる命の働きである。

しかし、御霊によって生まれた者は、この滅びゆく肉に対して、主と共なる十字架で死んでいるので、以上のような罪の奴隷状態から自分が解放されており、神の朽ちることのない永遠の命によって自分が新たに生かされ、神の命によってすべての必要が上から供給されることを知っている。

キリスト者が地上で生きるためのすべての必要性は、衣食住を含め、すべて自分で自分の生存を保とうとする自己の努力によってではなく、信仰によって、キリストの復活の命を経由して上から与えられる。従って、キリスト者は地上を生きる上で、自分を救う力のない己の欲によって自分を満たさなければならないという恐るべきパラドックスから解放されているのである。

しかし、肉によって生まれた者は、御霊によって生まれた者と自分が同じ存在であるかのように見せかけながら、御霊によって生まれた者に巧みに話しかけ、神に対する不満を吹き込もうとする。そして、決定的な瞬間に、「人であるあなたにはできない。神は理不尽だ。あなたは無駄なことを信じているのであって、あなたの希望はかなわない。」とささやき、信仰をくじこうとする。

肉の思いは、つまるところ、自己の力で自己を満たそうとしても、それができない人間が、神に対して不服を表明し、憤る思いである。その思いを、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者に吹き込み、御霊によって生きる者の思いを穢すことで、神に対する信頼を失わせ、大胆な証を損なおうとする。

このようにして、一つの団体の中に、同じクリスチャンのように見える二つの勢力が併存し、やがてこの二つの勢力が、激しく敵対し、争うようになる。霊御によって生まれた者を、肉によって生まれた者が、堕落させ、迫害し、追い出そうとするが、御霊によって生まれた者は、その激しい迫害を乗り越えて、御言葉の証を保たねばならない。そのためには、十字架の装甲の中から決して外に出ない姿勢が必要となる。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)
 
だが、信者たちはしばしば失敗して、十字架の装甲から外に出て、証を失ってしまう。被害者意識や、神に対する不満の思いを心に注ぎ込まれ、思いを穢されてしまう。そして、一心に信頼して神だけを見つめることをやめて、神はすべての苦難から私たちを救い出して下さるという確信を失い、自己の限界を見つめるようになり、自分を不憫がるようになり、ただ自分の弱さに同情してくれる人々だけを周りに集め、その弱さの中に閉じこもって、前進することをやめて立ち止まり、そこに人の生まれながらの自己を守るための一大共同体を作り上げてしまう。
 
すると、御言葉の証は失われ、信仰による神の働きはやみ、御霊によって生まれた者は、ちょうど髪をそられたサムソンのように、勇士としての力を失って、捕虜とされ、外に追いやられ、苦役に従事させられることになる。

私たちは、悪魔の虚偽の訴えに対しては毅然と立ち向かい、御言葉の証を守らなければならない。公正、真実、正義に立って、御言葉の真理を高く掲げることをやめてはならない。しかし、同時に、その戦いは、決して私たちの生まれながらの自己を守るためではなく、それを超えたところにある神の御国の権益のためでなくてはならず、そうして私たちの掲げる目的が、真に自己のためでなくなるためには、私たち自身が、絶えず十字架の死をくぐる必要がある。自己憐憫や被害者意識を心に抱え、神の権益のために自己の利益を手放すことを惜しみ、自分の限界を取り払うことができないものと考えて、これを哀れんでいると、主と共に十字架の死を通過することができなくなってしまい、信仰の前進がやむのである。
 
そうして聖徒らが十字架を回避して、生まれながらの自己を保つようになると、彼らの証は力を失い、彼らは聖徒としての特長を失うことになる。そして、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を追い出して、団体の頂点に立ち、一つの団体がまるごと敵の手に渡されてしまう。もしくは、彼らは出て行っても、暗闇の勢力の支配下で、また新たな腐敗した別な団体を作るだけである。

筆者はこうした現象を幾度も目撃するうちに、ようやくこれがクリスチャンと暗闇の勢力との間で繰り広げられている霊的な支配権の争奪戦であることを理解し、一体、これに対してどのように打つ手があるのかを考えるようになった。

もちろん、主と共なる十字架の装甲から一歩も出ないで、自己を十字架に死に渡すことこそ、勝利の秘訣であるが、勝利というからには、死で終わるのではなく、そこに復活が現され、瞠目すべき神のみわざが現され、明白な勝利を勝ち取らなければならない。それだけでなく、ただ真理を知らないだけで、故意に御言葉に逆らっているわけではない人々を、敵の欺きから取り返すことが必要である。

そこで筆者はようやく、祈りの防衛の盾をはりめぐらし、激しい戦いの中でも、そこに踏みとどまって、決して支配権を自ら放棄することなく、霊的領土を明け渡すことなく、なおかつ、そこに残っている人々を、自分たちの陣営にかくまい、保護するまで、あきらめずに戦いを続行することを学び始めた。

その団体に残っている人々のほとんどは、しばしば、何が起きているのかを全く理解しておらず、戦いがあることさえも分からないでいる人々である。彼らはちょうど戦争が勃発しているのに、そのことを知らされないまま、自分たちの土地に残された非武装の住民のようなものである。敵が襲撃して来れば、彼らに命はないことを私たちは予め知っている。そして、私たちは武装しているが、彼らは自分を守る術を知らない。

そこで、もしもこのような状況で、私たちが自分の命を惜しんで、真っ先に彼らを捨てて安全なところに退却するならば、彼らはみな敵陣に捕虜として引いて行かれることになり、そこでさまざまなひどい目に遭わされて、神は理不尽だという思いに生涯、とらわれ、憎しみと憤りと不満の中に生きることになりかねない。何よりも、彼らは自分たちを危険の中に捨てて行ったクリスチャンを憎み、許さないことであろう。

そのようなことが起きないために、私たちは最後まで戦って、真理を知らない人々を敵の襲来から保護し、むしろ、敵の勢力の方こそを、キリストの勝利の凱旋の行進の中に捕虜として引いて行かねばならない。

そのように激しい戦いを、神の武具で武装してすべてをキリストの支配下に置くまで決してあきらめないで戦うことを決意した人々が、勝利を得るまで忍耐強く信仰によって続行したときに、初めて、一つの団体が、罪の束縛の中から解放され、肉の支配下にある者ではなく、霊の支配下にある者の指揮権の下に置かれるということが起きるのである。

ここで重要なのは、冒頭の御言葉が、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」と述べていることである。戦いには初めから決着が着いており、御子はすでにカルバリで勝利を取られた。問題は、地上にいる主の民がそれを最後まで信じられるかどうかである。

女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない。

このところのオリーブ園の連載は、クリスチャンにとって相当に厳しい教訓を示したものである。オースチンスパークスはすべてを比喩で語っているが、筆者にはこのことが非常によく分かる。

たとえば、最新の記事を見てみよう、なぜ、主の民には、「主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗した」ということが度々起きるのか。

クリスチャンはキリストの復活の命の満ち満ちた豊かさに入れられるよう定められている。それがクリスチャンの使命である。にも関わらず、なぜ主の民の多くには、神の御心ではない弱々しさ、時ならぬ死、主のためではない困難や、貧しさ、苦しみが満ち溢れているのか。

それは結局、主の民が神以下のもので妥協する(神が望んでおられる水準以下のもので妥協する)ことを繰り返したためである。肉的なもの、地的なものと妥協した結果、神の命ではない、朽ちゆく堕落した命の束縛が主の民にもたらされたのである。

別の言葉で言えば、それはどこかの時点で主の民が、十字架の死と復活の地点にとどまることに失敗し、自分の肉を優先し、自己の利益を得ようと、十字架の装甲の中から外に出てしまったことによる。

筆者自身の経験と確信に立って言えば、それはほとんどの場合、人情を優先すること、そして自分の地上の生活を守ろうとする態度から来る。

キリスト者の人間関係はすべて十字架の死に渡されていなければならないが、そこへ信者が肉的な思い、地的な思いを混ぜ込み、肉親の情愛、年功序列、親しい友人間での優遇や配慮などを公然と持ち込み、それをあたかも信仰によるクリスチャンの交わりであるかのように置き換えて行くと、交わりそのものが腐敗するということが起きる。

また、教会が脅かされ、クリスチャンが義のために立ち上がって戦わなければならない時に、自分の生活の心配を優先させて、立ち上がることを怠る。すると、悪が公認されたも同然に解禁され、教会は自由を取り上げられて、迫害され、証の言葉は取り去られ、主の民はますます貧困になり、苦しめられるようになって行く。

私たちがもし神でない何者かに承認を与えるならば、その者が私たちに対して神のように振る舞い始めるであろう。宗教指導者に権威を与えるならば、その者があなたに対して神のように振る舞うであろうし、この世の仕事を最優先にするならば、その仕事や上司や会社の規則があなたの心を支配するであろう。暴君のように凶暴な人間の脅しの言葉に屈するならば、あなたはその者の意向に従ってしか生きられなくなる。肉的な情愛を交わりの中に持ち込むならば、その肉的関係が許した範囲でしか前に進めなくなる。

クリスチャンが最優先の目的として目を注いだその対象が、その信者にとっての「神」となるのであり、もし私たちがキリストから一瞬でも目を離すならば、あなたの目を逸らさせた何かがあなたの心を支配するようになり、やがて神でないものを神としたことの厳しい報いがあなたの人生に訪れることになる。

多くの信者らが、そのように地的な思いで心を占領された結果、神の教会の中には、いばらや雑草が公然とはびこるようになり、それに対して私たちは非常に厳しい態度を取って、ちょうどレビ人が同胞を剣にかけて殺した時のように、聖絶のものを断ち切り、自分の魂の愛の対象となるものを十字架の死に渡さねばならない瞬間が訪れる。

だが、そのようにして是正が間に合うこともあまり多くはない。多くの団体は、主が望んでおられるのとは違った方向へ一旦、歩き始めると、その後、当初、目指していたものからはますます遠ざかるばかりで、その歩みを止めることも、是正することもできない。

そうなると、その腐敗に気づいた個人が、自らの意志で、神の命の息吹をほぼ完全に失った団体を出て、御言葉に従って、信じる方向へ向かうこと(エクソダス)しか選択肢はなくなる。その方向づけとなるのは、やはり、信者が聖書の御言葉への信仰に深く立ち戻り、どこまでも目に見えないただお一人の神を優先し、地的なすべての利益を後回しにしても、ただ神の御心を満足させることだけを第一に追い求めて生きる強く熱心な心の願い求めしかない。

回復されなければならないのは、信者が自分の生まれながらの命のすべてと引き換えにしてでも、神を知りたいと願う純粋で熱心な信仰の希求であり、代価を払って神の国とその義を第一優先して生きる姿勢である。

そのための道は、多くの場合、一人で歩かねばならない。あなたはちょうど人目を避けてスカルの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女のように、人の目からは隠されている細く狭い道を一人で辿ることになろう。それでも、道から迷い出てしまったと気づいたならば、一人で細い道を歩き続けてでも、目的へ戻るべきである。

大勢の人々と連れ立って広い門を通って行ってはいけない。今日、あまりにも多くの信者らは、代価を払うことを厭い、地的な思いで心を占領され、公然と別の道へ逸れてしまい、神の御心に反するものに対して、かつては公然と異議を唱えていた人々でさえ、沈黙へ入りつつあるが、その真似をしてはいけない。なぜなら、その結果として、彼らには思いがけない貧しさと孤独と災いや悲しみが降りかかることになるからである。

クリスチャン生活における豊かさは、私たちがどれだけのものを主のために投資したかによって保証される。そのためにこそ、我々には神の武具が与えられており、これを行使して、敵を駆逐し、新たな領土を獲得することが要求されている。

その法則を知っているのに沈黙し続けている今日の信者らの状態を、筆者は非常に御心に反するものと思って憂慮しており、その沈黙の後に、彼らに訪れる時代がどんなに不自由で暗黒のものとなるのかに思いを馳せずにいられない。

私たちは、小羊の血潮と証の言葉によって、敵の虚偽の圧迫を打ち破る力が与えられているわけだから、神の武具を公然と使用して敵を打ち破り、圧迫を跳ね返し、新たな領土を獲得することをやめてはいけないのである。

だが、代価を払ってその戦いを貫徹する人々があまりにも少ないこと、そして、その道が、人の目には安全に見えても、その実、無用な貧しさと苦しみと死に至る道であることを人々が自覚していないことを憂慮する。一旦、証の言葉を宣べるのをやめて、沈黙に入ると、再び沈黙を破ることがいかに難しくなるかが分かるであろう。

そこで、よくよく心に留めていただきたい、もしあなたが霊的な敵を追い出さないならば、あなたは敵を追い出せなくなるのだと。敵を追い出さないことは、敵と協力しているのと同じなのだと。あなたに課せられた使命は、あなたの信仰が十分に強くなって、あなたが敵としている者たちを力強く追い出す権限を持っていることを十分に自覚し、その権限を実際に行使することである。ところが、それを行使せず、神の御心に反するものと妥協するならば、あなたは御国の後継者としての資格を失いかねない。

なぜなら、私たちが敵としている者は、正統な資格がないのに、神の御国の後継者を詐称して、正統な後継者を追い出そうとしている者たちだからである。彼らの目的は、あなたに御国を継がせないこと、その後継者たる資格を行使させないこと、あなたを神の命の豊かさに入らせないことである。

そのような者を、固く信仰に立って追い出す権限が、クリスチャンに与えられていることを私たちは自覚すべきであって、パウロの言葉を思い出さなければならない。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)

御国の後継者を詐称している者たちについては、彼らの本質を見抜き、彼らが犯している悪事を公然と主張し、これを明るみに出さなければならない。そうすれば、おそらく、それ以上に何もせずとも、これらの者は恥をこうむり、クリスチャンから手を引いて逃げ去るであろう。私たちの戦いは血肉のものではないので、私たちの武器も、この世のものではないからである。

(毒麦を引き抜く仕事は私たちの仕事ではなく、それは神がなさる仕事である。しかし、毒麦は毒麦たる本質をきちんと露わにするため、これを見抜いて指摘することは十分に可能かつ非常に有益な仕事である。主の民が無用な攻撃を受けている時に、それを見て見ぬふりをすることは、敵の悪事に加担するのと同じである。)

重要なのは、どれほど敵が優勢で勝ち誇っているように見えたとしても、キリストの十字架の勝利に立って、その事実を信仰によって地に引き下ろすまで、決して諦めることなく敵の圧迫に立ち向かうことである。
  
そのようにして敵の虚偽の圧迫に立ち向かわねばならない時に、御言葉を高く掲げて立ち向かうことをせず、人情を優先して妥協するならば、神の教会がますます弱体化することとなり、場合によっては、あなた自身が彼らによって追い出され、御国の後継者たる資格を失うことになるであろう。あなたは神と富とに兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい教訓を思わなければならない。

しかし、主の方を向くならば、すべての覆いは取り除かれて、失われた視力、力も回復される。私たちはどちらへ顔を向けるのか、常に思い起こして、毎日、心を奮い立たせて、勝ち取るべき成果を求めて前進を続けねばならない。前進しないことそれ自体が、後退を意味するのである。
   
オースチンスパークス著、「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (2)
 
最初に述べたように、これは主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗したことによります。どこかにためらい、留保、議論、疑問があったのです。どこかで差し控えていたのです。どこかの時点で結果に伴う代価を計算して、抵抗が少ない道を取ってしまったのです。どこかで何らかのささやかな個人的利益を考慮してしまったのです。どこかで完全に滅ぼすことを主が要求されているものを容赦してしまったのです。

主が指さして「これを放棄しなければなりません」と言われたのに、それを放棄しなかったのです。主は一歩踏み出すことを要求されたのに、踏み出さなかったのです。完全に十字架に渡されるべき肉を少しばかり容赦してしまったのです。

そしてこのようなことが起きる時は常に、このように保留し、容赦し、個人的な考慮をするときは常に、失敗が続きます……これが起きる時は常に、ただちに妥協することになります。敵が有利になります。そして神の民の力は弱まって、自分たちが悪の力を解放してしまったことに気づきます。この悪の力は徐々にゆっくりと働いて優勢になり、遂には彼らは自分たちに対する神の御旨よりも劣るものの中に自分たちがいることに気づきます。


 神が意図されたのは豊かさ、絶対的状態、最終的状態、至高性、主権でした。しかし、これらの様々な理由のどれか一つか二つ以上により、彼らは御霊が導かれるように神と共に進み続けることに失敗しました。そしてこの失敗により、彼らは行き詰まっただけでなく、何らかの明確な悪に対して扉を開けてしまいました。そしてその悪が中に入って来て、彼ら自身が主の御名の中で占領すべきだった土地を占領してしまいました。

ですから、彼らはこの標準に達することなく、束縛の中に陥って、最終的に敵を追い出さなかったので最終的に敵を追い出せなくなったことに気づきました。それはこのように作用します。すなわち、それをしないなら、それができなくなるのです。主と共に進み続けないなら常にこうなります。ああ、これらの霊的事実をこのように力強く示すことにより、どうか主がこれを私たちの心にはっきりと分からせて下さいますように……

主と共に進み続けることに関して疑問を持つこと、主が「進め」と言っているのに一瞬でも立ち止まること、私たちのなすべきことを主が私たちに教えて下さっているのに、それ以外の考えが侵入して私たちに影響を及ぼすのを許すことは、極めて危険なことであることを、主が私たちに徹底的に分からせて下さいますように。

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