忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

十字架の死と復活の原則―神の相続人―キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける―

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを明かししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1-2)


もしもこのブログを読んでいる人々の中に、力の強い人間の顔色を伺い、権力者の思惑を忖度して行動している人がいるなら、そんな生き方はやめて、一刻も早く、神の顔色を伺った方が良い。

筆者はよくサムソンの最期を思い出す。このブログでサムソンに触れたのは、今回が初めてではない。

信者は、地上の人間である限り、神の義と神の国を第一にして生きると言いながらも、それでも、心は常に地上のものによろめき、容易に逸脱を繰り返す危なっかしさを持っている。筆者も、そうした弱さを持つ人間の一人として、自分の心が真に重要なものから逸れかけていると気づく時、はっとサムソンのことを教訓として思い出すのだ。

もちろん、神の霊が内に住んでおられる信者が、デリラの誘惑に屈したりすることはない。むろん、信者がサムソンのような最期を遂げる必要もない。この地上にいる信者たちが誰しもサムソンのような最期を遂げていたのでは、御国の前進もないだろう。

とはいえ、サムソンの生涯は、そのものが私たちにとって大きな教訓である。

信者は目を覚まして、地上のものに心惹かれることに警戒し、何が真に重要なことであるか、常に見極めようとしなければ、霊的視力は容易に曇らされてしまい、天の宝を失ってしまうという教訓なのである。

そうして目を覚まさせられる瞬間、筆者はサムソンのことを思う。そして、考えるのだ。どうすれば、神の目に本当に喜ばれる奉仕を成し遂げることができるのか。そして、そうだ、まだやり残したことがあった、と思う。ペリシテ人の神殿を崩壊させる仕事が残っているではないか、と心に思うのだ。

このように、筆者が渾身の力を振り絞って「ペリシテ人の神殿」を崩壊させて来たことが、これまでに何度かある。その戦いは、周りから見れば、ありふれた出来事でしかなかったかも知れないが、そこには大きな心理的なドラマがあり、予行演習があった。

デリラの誘惑に引きずられたために、罠に陥れられ、神から与えられた賜物としての力と輝きを失ったサムソン。両手を鎖につながれ、両眼をえぐり出され、奴隷的苦役に従事させられ、ついにはペリシテ人の余興として辱められるために、見世物として宴席に引き出されたサムソンが、最期の力をふりしぼって、ペリシテ人の神殿の柱に手をかけた。

サムソン最期の神への奉仕だ。

彼は何もかも剥ぎ取られた人生最期の瞬間に、自分のすべてをかけて、地上のものへの未練を振り切り、神の権益に寄与した。その瞬間、ペリシテ人の奴隷になっていたサムソンに怪力が戻った。異教の神殿は音を立てて崩壊し、宴席に連なって酔いしれていたペリシテ人たちは、奴隷のサムソンにまさかそんな力があるとは思わず、完全に油断し切って慢心し、欲望にふけり、酔いしれていたので、逃げ出す暇もなく、壊れた神殿の下敷きになって死んだ。

サムソンの場合は、気づくのが、ちょっと遅すぎたのではないか、と筆者は思う。本当は、これほどまでにすべてを剥ぎ取られる前に、信者が神に立ち返ることは十分に可能だ。だが、同時に、パウロが「あなたがたは罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがない」と信者を叱咤したように、人間の心に潜む堕落の深さを、まだ十分に知らないがゆえに、甘く見てはいけない部分もある。

ある信者たちは、ダビデとバテシェバの物語を聞いて、ダビデの心の弱さを嘲笑する。何と愚かな人間だろう、自分であれば、そんな過ちは絶対に犯しはしないのに、と笑うのだ。だが、人間と人間の魂の間には、各自の感情や思惑をはるかに超えた、何かしらの絶大な本能的な力が働くことがある。魔がさすとでも言うのか、とてもではないが自力では太刀打ちうちできないような強力な誘惑が人生に起きて来ることも時にはあるのだ。

それが、人間の堕落した魂と肉体に働く悪魔的な力である。

そして、信者らは、この堕落した魂と肉体に働く力を、常にキリストと共なる十字架の死へともたらし、神の霊の働きによって体の働きを殺す。これは人の力で成し遂げられることではない。キリストが十字架で勝利されたからこそ、適用することのできる力なのである。
 
キリスト者は神の神殿であり、サムソンも旧約聖書に登場するすべての信仰の先人同様に、神の神殿の型である。ナジル人の風習として、サムソンが髪の毛に剃刀を当てないことは、サムソンが神の神殿としてこの世から聖別された地位を保つという意味を持っていた。頭の毛を切ることは、神殿とこの世を隔てている覆いを取り払い、神の神聖を自ら捨ててこの世と同化することと同義だったのである。

このような文脈で見ると、ナジル人のサムソンは神に対して霊的に女性である人類を代表していたと言えるかも知れない。パウロは言う、女性の長い髪は頭の覆いのためであり、その意味で髪は女性の栄光であると。人類という被造物は、創造主である神に対して霊的に女性の立場にある、この意味では、髪に覆いをかけることで聖別を保ったサムソンと人類とは重なるのかも知れない。
 
キリスト者の支配は、心の中から始まる。神と悪魔との戦いは、いわば、信者の心の中心の争奪戦でもある。信者が何を第一として生きるのか、神を第一として生きているのか、それとも、それ以外のものを第一として生きているのか、その激しい主導権争いが信者の心の中から始まるのだ。

信者が霊的な戦いに勝つためには、信者が自らの心の中で、ただ神だけを中心に据え、他の何者にも決して頼らない状態を作り出さなければならない。心の中からすべての「デリラ」を追い出し、「アカンの外套」を捨て去り、神以外のどんなものも心の中に中心として据えるものがない状態にしておかねばならない。
 
決してどんな地上の人間にも頼らず、神だけが栄光を受けられる状況を自ら作り出すのだ。

さらに、もしできるならば、エリヤがしたように、戦いをより一層、難しいものとするために、神の栄光が人の目によりはっきりと現れるために、祭壇に何度も水をかけ、火がつきにくいようにしておけば良い。
神がついておられなければ、勝利などあり得ない状況にしておくのだ。

それさえできれば、戦いの勝利は確定したも同然である。あとは柱に手をかけ、一歩を踏み出すだけだ。待ち望みの時は過ぎた。髪の毛は十分に伸びている。神がついておられるならば、誰が信者に敵することができようか。

さて、今回は長い記事は書かない。

はっきり告げておきたいのは、筆者の書いた多くの内容には、筆者でさえ書いた当時は理解していなかったような予言的な意味が込められていることが、後になってから分かることがよくあることだ。これは自慢話ではなく、キリスト者の歩みに、何一つ偶然はないことを示している。

筆者は、以前、剣を取る者は剣で滅びるように、裁判に訴える者は裁判で滅びると書いた。

神が怒られるのが遅く、その憤りは長く続かないと聖書にあるように、筆者もかなり気は長い方だ。むしろ、怒るべき時に怒らないのでチャンスを逃していると叱咤されてもおかしくない。
 
それでも、そんな筆者も、サムソンがその怪力によって何人もの敵を倒したように、自らの主張だけで、いくつもの「ペリシテ人の神殿」を倒した。予行演習としてはもう十分であろう。随分、時間がかかってしまったが、そろそろ本番が待っている。

筆者は一つ前の記事に、新居に来て後、しばらく家具を選ぶことに熱中していたと書いた。それは無価値なこの世的な興味関心であったかも知れないが、そのことからも、学んだ教訓はある。それは、完全なものを得るために、信者は決して妥協してはならないということである。

時に、ベターはベストの不倶戴天の敵となる。次善にも、それなりの長所があり、輝きがある。だが、次善が、最善であるかのように振る舞った時、次善はただちに悪となる。それは悪しき腐敗した虚偽として、取り除かれねばならないものになって行くのである。

ガラス玉もイミテーションとして楽しむうちは無害であろう。だが、ガラス玉が自分はダイヤモンドだと言い始めた時に、それは悪の権化、罪の化身となる。山登りをする人が、初めから自分は5合目までしか目指していなかったから、途中で山を下りたと言えば、嘘にはならない。だが、もともと山頂まで上るはずだった人が、4合目、5合目で疲れて立ち止まり、下山したにも関わらず、自分は登頂したと宣言すれば、それは大嘘である。

問題は、キリスト者は常に神が満足される完全を目指さなければならないのに、そこにこそ、神と私たちの心を完全に満足させる天の栄光に満ちた相続財産があるのに、多くの人たちが、次善で満足した上、それがあたかも最善であり、完全であるかのように見せかけようとすることにある。

筆者はこれまで「カルト被害者救済活動」の何が間違っているかについて述べて来たが、この活動も、神の最善に悪質に立ち向かう「次善」である。神ではない人間による救済事業は、うわべだけは善良そうに見えるが、真理に立ち向かう悪質な虚偽だからである。

聖書の真理は、神ご自身にしか、人間を救済することはできず、苦しむ人々を「救済」する仕事は、ただ神だけのものであって、人間自身には人間の救済はできないというものだ。神の助けを受けることこそ、我ら人間にとって完全な道であり、最善の道である。我らの救い主として栄光を受けるべき方は、神ただお一人しかいない。

にも関わらず、この地上では、牧師や、教師や、カウンセラーや、助言者たちが、あたかも自分たちが人間を苦しみから救う力を持っているかのように、親切で善良そうな言葉を振りまき、耳元でささやく。まして、神の教会で起きたトラブルを、自分たちには解決できる力があると言う不遜な人たちまでいる。そして、彼らは、神の教会や信者の欠点や弱点をさかんに噂し合いながら、教会を貶め、悪しき教会から人々を助け出すと言っては、心弱く自信のない大勢の人たちを惑わして行く。

だが、これはしょせんAチームBチームの戦いでしかないのだ。神になり代わって指導者として信者に君臨する中間搾取者が、自ら他の中間搾取者を訴え、取り締まっているだけで、「あの先生」と「この先生」の間の戦いを行き巡っている限り、決して信者が自由になれる日は来ない。

このような偽りの「指導者たち」の唱える「救い」が完全に偽物であることは、彼らが筆者に対して行って来たすべての仕業からすでにはっきりと明らかである。彼らは、信者たちの弱さにつけこみ、問題につけこみ、それを解決してやるように見せかけながら、実際には、「偽物の救い」という、デリラの甘い誘いでがんじがらめにし、信者に本当の神の力を決して味わわせないように、信者の聖別を奪い取って、捕虜として連れて行くだけなのである。

彼らが望んでいるのは、ただ自らが神の代理となって、信者の心を支配し、神がお与えになった信者の自由を奪い、信者を道具として自分の利益のために搾取し、それにも関わらず、自分はあたかも人前に人助けをしている善人であるかのように振る舞い、神から栄光を奪い取って、自分自身が栄光を受けることだけなのである。彼らにとって、弱さのゆえに自分を頼って来た信者は、いわば、獲物である。

このような活動は、神の救いに真っ向から対立する悪質な虚偽である。だが、そのことは幾度となく述べて来たのでここでは繰り返さない。

キリスト者は、すべてにおいて、完全を目指さなければならず、それ以下のもので決して満足して立ち止まってはならない。たとえどんなに優しく親切そうな人間が現われ、困っている時に、助力を申し出て来たとしても、それが人間であって、神ご自身ではないという事実が持つ重大な意味を、信者は決して忘れるべきでないのだ。そして、次善を最善以上に高く掲げるという過ちを決して犯すべきではなく、神以外のものに栄光を帰してはいけない。次善の誘惑に屈しないために、そのような偽りの助けは最初から拒むのがよかろう。

繰り返すが、我らの救い主は天にも地にもただお一人であり、救済者は神しかいない。だが、キリスト者はその真理に従うために戦いを迫られる。あらゆる面で、神の完全を追求するために、あらゆる次善を拒否する戦いを最後まで立派に戦い抜かねばならない。

そこで、信者には、肉なる腕(人間)から来るすべての助けを、悪しき堕落した誘惑として拒否しなければならない時が来るのだ。だが、自分が救済者をきどりたい人たちは、「次善」呼ばわりされ、自分たちの助けの手は必要ないと言われると、プライドを傷つけられたと感じて怒り出す。その瞬間に、彼らの化けの皮がはがれる。

彼らは、苦しむ人々を救済すると口ではあんなに親切そうにうそぶいていたのに、いざ、自分たちの本質を見抜かれると、それを見抜いて去って行った人々に猛烈に石を投げ、殺意に至るほどの敵意を持って追いかけ、真実を訴えさせまいと、口を封じようとする。

このような凶暴な人々の本質が、救済者ではないどころか、むしろ、人殺しであることは、今や誰の目にも明白である。

主イエスが言われた言葉を思い出そう。

「彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです。」と言うと、イエスは言われた。
アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、いま、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言うと、イエスは言われた、

「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。<…>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:39-44)
 
このところ、有名人の不倫騒動が世間を騒がしており、この世の法に照らし合わせても罪に相当するはずのない事柄が、あたかも重大な罪のように取りざたされ、そのために人々が互いに石を投げ、断罪し合っているが、それを見ても思う。世の裁きは何と神の裁きに比べて、憐れみも容赦もないことだろうかと。

いつもそうだが、人間による裁き(人間による救済と同じ)は、最初こそ、人の目に優しく、親切そうに、正義のように見える。ところが、人間による裁きは、最後には、どんな宗教でさえ考えつかなかったほどの、とてつもなく厳しい行き過ぎた制裁となり、ついには法にも常識にも基づかないデタラメな私刑へと落ち込んで行くのである。

こうして、悪魔(この世)が悪魔(この世)を厳しく裁き、取り締まるというのだから、思わず笑ってしまう。だが、人間による救済は、このように、必ず救済どころか、とてつもなく厳しい裁きにしかならないことが、途中で明らかになる。そのことが、「カルト被害者救済活動」の暴走の過程でも、完全に裏づけられていると言える。

私たちは神の憐れみに満ちた裁きにすがるのか、憐れみのない人間の裁きにすがるのか、常にどちらかの選択を迫られている。

「自分たちはアブラハムの子孫だ」と言いながら、主イエスに対する敵意に燃え、イエスを救い主として受け入れず、十字架にかけて殺した人々は、自らよりどころにしていた律法によって容赦なく裁かれることになった。
 
今日も同じである。神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)


悪魔はあたかも自分にこそクリスチャンを訴える権利と資格があるかのように振る舞うだろう。聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを訴える者」であるから、常にクリスチャンを自分から先に告発しようと躍起になっている。

だが、聖書の御言葉を参照するなら、どうだろう。むろん、神に義とされた者を再び罪に定めることのできる存在はおらず、悪魔の訴えはむなしく退けられるばかりか、兄弟(クリスチャン)を罵倒し、傷つける者こそ、特別に厳しい裁きを受けることが聖書にははっきりと示されているのだ。

そういう者たちは、最後の1コドランスまで支払って、和解しない限り、牢から出て来ることはできない。これは、この世の裁きのことだけを指しているのではなく、むろん、地獄の永遠の裁きのことをも指している。恐ろしいことである。神の贖いによって義とされたクリスチャンを罵倒し、罪に定めようとすることが、どんなに恐ろしい罪であり、永遠の厳しい裁きに価するかがよく示されていると言えよう。

PR

世に勝つ者は誰か

「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネ12:15)
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:5)

ただ嬉しかった…。

一日のほとんどを勤務に奪われ、以前のように御言葉を自由に思いめぐらすこともできなくなり、兄弟姉妹に連絡することも、記事を思うように書くこともできなくなった。

グノーシスの研究に期待しているとの言葉を読者からいただいても、研究を進める時間がない。その上、兄弟姉妹からも引き離されてしまったかのようで心寂し かった。職が与えられた喜びも束の間、閉ざされた環境で、四六時中、業務用のスクリプトとにらめっこしながら、人生がむなしく終わっていってしまうのだろ うか…、という不安が心にやって来ることもあった。

だが、今日はそんな愚かしい寂しさが吹き飛ぶほどまでに、主が私たちの思いをはるかに超えたことをなしておられると確信することが出来た。神の国、キリス トのまことの命による統治についてのメッセージを聴いたのだ。これから先、命をかけて御国の福音を宣べ伝え、御国の法則性の中に生きることの必要性が兄弟 姉妹の間で語られたのだ。

このようなテーマについて聴ける日をどれほど待ち望んで来ただろう。世においても、キリスト教界においても、激しい試練に幾度も直面してきたまさに私たち のこの世代の中から、来るべき火のように激しい試練の日に、キリストにある勝利者として立ちおおせるために、覚悟の出来た証人たちが起こされることを、ど れほど待ち望んで来ただろう。その証人たちがすでに起こされていることを目の当たりにして、また、励まし合うことができて、ただ感無量であった。

私の身に起こったことを見ていただいても分かるように、私たち信仰者は今、御言葉をめぐって、激しい戦いの中に置かれている。聖徒たちは望むと望まざると に関わらず、キリストの主権を代表する者として、真理と虚偽との激しい霊的戦いの中に、すなわち、命なるキリストの統治する神の国と、闇の世の主権者の支 配するこの世との間での激しいせめぎあいの中に置かれている。

私たちはどちらの側に立つのか? むろん、私たちは御言葉に立ち、キリストの霊なる命の支配に立つ。どのように偽りによって圧迫されようとも、ただカルバリに立って、子羊の血とキリストの勝利を証する真理の言葉をともし火のように掲げ続ける。

恐らく世はこの先、ますます混乱を極めるであろう。雇用情勢も悪化しているし、金融危機の到来も危惧されている。目に見える世界には、人を不安に陥れる材料が満ち溢れている。私たちも状況によって追い詰められ、悩み、苦しむことがあるかも知れない。

だが、主は私たちに平安を約束して下さった。
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。

私たちの内におられる方は、この世に打ち勝った方である。この命なるお方に対して、世は何もすることができない。主イエスは言われた、「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。」(ヨハネ14:30) 「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。」(ヨハネ12:31) 

ハレルヤ! 御言葉は明らかにしている、御子を信じる者たちは、もはや、この世の暗闇の支配下に置かれる理由がないと。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)
 キリストの十字架を通して、私たちはこの世に対して死に、この世も私たちに対して死んだ。私たちは愛する御子の支配の下に、御国のキリストの統治の中にすでに引き入れられた。御国は私たちの只中に来ている。

サタンの足がかりとなる私たちの肉も、魂の命も、キリストと共に永遠にはりつけにされて絶えず死に渡されている。私たちは今、肉体の中で生きているこの命を、私を愛し、私のためにご自身を与えて下さった神の御子の信仰によって生きているのだ。

この先、御言葉を曲げ、十字架を否定し、真理の証の言葉を除き去ろうとするこの世の怒号がどれほど大きくなろうとも、私たちはただカルバリに立って、主の 勝利を宣言し続けたい。たとえ私たち自身の罪や、私たち自身の肉がどれほど私たちを脅かすことがあったとしても、私たちは自分の冠を投げ捨てて、我が内に おられる栄光の望みであるお方を信じ続ける。私たちは十字架を通して闇の世から、愛する御子の支配へと連れ出された。世からの脅かしに対して、これ以上敗 退しなければならない理由はない。

「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)

「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。」(ヨハネ16:21)

たとえ世がどれほどの暗闇に覆われようとも、どれほど不安材料が私たちの目の前に山積みされようとも、私たちがどれほど世から罪定めされ、圧迫されると も、主よ、私たちがただ血潮の中に立ち続けることができますように。十字架の死にとどまり続けることができますように。その時、世は私たちに全く手を触れ ることができないのです。その時、人知を超えた喜びと平安が私たちの心の内にとどまるのです。

そして、キリストがご自分の肉体を裂いて、私たちにお与え下さったまことの命の豊かさを、どうか私たちがこの地上にあって、十分に味わい知ることができま すように。私たちを通して、御国が地上になりますように。私たちを通して、人々がこの命なるお方に触れますように。目に見える状況がどうあろうとも、全て の全てであられる方が我が内にいて下さり、知恵となり、力となり、勝ち得て余りある命となって下さっていることを信じます…。

キリストは私たちのために呪いとなって…

主にある一人の姉妹へ

コスモスが海のように満開です。駅に降り立つや否や、懐かしい空気が身体を包みました。やはり関東とは全く雰囲気が異なりますね。ある姉妹が私に送って下 さったメールに写っていたのと同じ、淡いピンクの花びらをしたコスモスがどこまでも咲いていて、とても美しい。遅れに遅れた夏休みを取り戻すべく、しばら く親族と共にゆっくり時を過ごします。

家に入るなり、愛犬が吼えること、吼えること。私はこの仔犬とは初対面なのです。でも、最初は噛みつきそうだった仔を、1時間もしないうちになつかせることが出来ましたよ。今ではもうべたべたに甘えてくれます。

懸案の事項については、あまり心配なさらないで下さい。公の場ではただ反対の声しか聞かれないかも知れませんが、それは表層なのです。非常に多くの方たちから励ましのお便りをいただいていますし、主ご自身が今、この件に御手を置いておられることを感じます。

何よりも驚くのは、このような否定的に見える事件を通して、今までつながることのできなかった兄弟姉妹との結びつきを主が与えて下さったことです。それは 公の場にあるのとは全く別の、見えない地下水脈のような流れです。今、主がこの件を通して、私ばかりか、他の兄弟姉妹の上にも、まさに何かをなさっておら れる…、そのことを確かに感じています。ですから、私達は世からどのような評価を得ようとも、ただ十字架に立ち、主の解決を信じて静かに待つだけです。

さて、今日は真実な信仰を持って生きているクリスチャンが、人に呪われることはないということについて書きます。主を信じる者たちは、いかなることが起こ ろうとも、キリストの十字架を通して、もはや、一切の呪いから解放されているからです。律法による呪いは神からの呪いであり、私達が受けられる最大の呪い です。私達は自分の罪のために、律法の下で呪いに服し、死の刑罰に服するしかない存在となりました。しかし、キリストは私達のために身代わりとして呪いと なって、木にかかられ、全ての呪いを引き受けて下さったのです。

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。」(ガラテヤ3:13)

「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 」(ヨハネ3:18)

キリストが私達の罪のために身代わりとなって、全ての罪と呪いと死の刑罰を引き受けて下さったことを信じるならば、私達は裁かれませんし、呪われませんし、二度と死の刑罰に定められることはありません。それは信じる者に無代価で与えられる恵みです。

しかし、もしキリストの罪の贖いを信じないなら、私達は呪いの下にあり、裁きの下にあるのです。なぜなら生まれながらの人の中で誰一人として自分の力で律法を守り通して義とされる人はいないからです。

「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる』と書いてあるからである。」(ガラテヤ3:10)

私達は、木にかかって死んで下さったキリストを通して、すでにあらゆる呪いから救い出されていることを信じるでしょうか? 律法は依然としてあらゆる点で 私達の落ち度を叫び、私達を執拗に訴えるかも知れませんが、それに対し、私達は自分自身の何かによって応えず、キリストによって、子羊の血潮によって応え るでしょうか? 私達はただ子羊の購いの血潮によってのみ、全ての罪から救い出され、全ての訴えから救い出され、全ての呪いから救い出され、信仰によって 義とされるのです。

ですから、訴える者がやって来た時、私達が提示できるのは子羊の血潮だけです。自分自身の何かによって、人の前に、あるいは、神の御前に、最後までたちお おせる人は誰もいません。私達が神の御前に立つことができるのは、自分自身の正しさによってではなく、ただ私達を義とするために死んで下さった方の贖いに よるのであり、人類の罪のために永遠に流されている子羊の血潮によるのです。

「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:28)

私達は弱く脆い器に過ぎません。しかし、私達が神を選んだのではなく、神が私達を選ばれたのです。そこに私達の希望があります。そして、自 分により頼むのではなく、キリストにより頼み、キリストの十字架の御業によって立たされていればこそ、私達は大胆にこう言うことができるのです。

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」(ローマ8:33)

愛する姉妹、全ての問題に対し、主がどのような解決を与えて下さるのか、待ち望みます。おそらく、今回のことを通して、神は私たちの思いをはるかに越えたことをすでになしておられると思います。

私達は御子の贖いの御業によって自由とされたことを信じ、その自由をますます受け取って生きたいと願います。私は疲れを落とし、家族と共に我が家で平和な時を過ごしていますので、どうぞご心配なさらずに、そちらもお元気でお過ごし下さい。

あなたの姉妹ビオラより 


つづきはこちら

この世からのエクソダス(2)

主イエスが十字架でこの世に対して取られた勝利を信じるならば、この十字架の中にこそ、私たちは、この世と私たちとの間に今ある相克だけでなく、世的な教会と私たちとの間に今ある相克の問題の解決も全て含まれている、ということを見いだします。この事実に、信仰によって、はっきりと立っているならば、この 先、神の子供たちに迫り来るであろう暗闇の力がどれほど大きくなろうとも、私たちはそこから救い出されるでしょう。

すでに世から救い出されている者が、もう一度、世の襲来を食い止めるために、後ろを振り向いて、自分の力で世と対決する必要があるのでしょうか? ですか ら、言葉の争いや、力の行使により、世の影響力と取っ組み合って、世的な教会を是正することが、クリスチャンに求められている課題ではありません。もしも そのような考えを持つならば、生きている限り、世的な教会の欺瞞を糾弾する仕事が、私たちの職業になってしまうでしょう。そして私たちは、善悪の路線での 議論に熱中し、命なるお方との生きた接触を忘れてしまうでしょう。

世的な教会の欺瞞を非難するという作業は、まるで、大海からスプーンで水をすくってかき出そうとするのと同じように、ますます膨らんでいく欺瞞を食い止め る力にならないだけでなく、善悪の路線における議論は、常に先鋭化して、行き過ぎた罪定めと、多重分裂的な争いへと発展していきます。もしも私たちがその ような議論に落ち込むならば、私たちはいつか兄弟姉妹と自分を分け隔てし、自分だけが正しいと思い込むようになるでしょう。憐れみ深い神は、罪定めのため でなく、和解のために、また、死ではなく、新しい命のために、御子の十字架を備えて下さいました。

ですから、似て非なるものを非難する作業に注意を奪われて、まことの命なるお方に目を注ぐことを忘れないよう気をつけましょう。この世の万物を死に至らしめた御子の十字架を経由することのみが、絶え間なく私たちに闘いを挑んでくるこの世からのエクソダスの方法なのです。

ハレルヤ。私たちはそのエクソダスを経た者、すなわち、世から召し出された者です。バプテスマにより、御子の十字架を信じる信仰により、私たちは、すでに 世から救い出されて、御子の支配下へと移されました。ですから、もはや後ろを振り向く必要はありません。この世や、世的な教会におけるさまざまな対立や、 言葉による争いも、私たちに対して死んだのです。十字架によって、この世は私たちに対してはりつけにされ、私たちも、この世に対してはりつけにされまし た。ですから、私たちが十字架の死を真に経由しているなら、世的な教会におけるあらゆる争い事からも、すでに完全に救い出されていることを見いだすでしょう。

<2016年追記>

地上における諸々の利害の対立をめぐって生じる相克や争いを原因とするすべての地的な思い煩いから信者が全く距離を置くことは重要である。それはただ単に心の距離であるだけでなく、キリストと共なる十字架によって、信者がこの世に対して死んだことから来る霊的な隔たりである。

これは他人の痛み苦しみに対して無関心になることとは違う。地上で起きているすべての悪意ある現象に対して無関心になることも違う。ただ、そういったことに対して、霊的な死が適用されているがゆえに、「一切、責任を負わない」という姿勢を貫くことである。

暗闇の勢力は終わりが近いためか、年々、その陰謀工作に悪意と激しさを増しており、今や人々にひと時の休息も与えたくない様子である。ニュースを見ても、呆れ果てるような事件ばかりが起き、汚職がはびこり、国全体がまるで無法地帯と化したような印象を受ける。

我が国の自殺未遂者の数は、公式発表によると、年間53万人に達していると言われる。そうなるのも無理もないという実感を筆者は抱いている。日常生活においても、日本人の美徳が失われているのを見る。礼節、誠実さ、思いやりといったものは姿を消している。不法がはびこり、感性の鋭い人であれば、耐えきれないだろうと思うような劣悪な事象によく遭遇する。

このところ、筆者は、日常のあらゆる好ましくない問題が、特に、週末や連休を迎える前の日々に集中して起きていることに気づいた。それはやはり人々に片時も休息を与えまいという悪意のもとに引き起こされているものと考えられる。

暗闇の勢力は、月曜日から金曜日まで数多くの人々を馬車馬のように働かせて自由を奪い、疲弊させた上、土曜日、日曜日になっても、まだ生活の不安から抜け出せないように、がんじがらめに縛るために、ことさらに金曜日に悪しき事件を引き起こしたりしているものと見られる。

あるいは、筆者が、何かのことで思い煩っていたとしても、ふと思い煩うことの無益に気づいて、その地上の出来事への思いを振り切って、気分を変えようと、外出したりすると、早速、望ましくない連絡が入って来たりする。

このようなことも、信者に休息や自由を与えず、絶え間なく思い煩いの中に沈ませようとする暗闇の勢力からの妨害なのだと気づかされる。

そうしたことに気づいてから、筆者は、ことさらに、煩わしい事件について、一切、その悪印象を事後に引きずらないことに決めた。特に、休日をつまらない地上的な出来事に対する思い煩いで浪費したりしないよう、十分に気をつけている。

むろん、地上で何も起こらないがゆえに呑気でいるというわけではない。考えられもしないような、呆れ果てる出来事が、数多く、予想もできないタイミングで、起きて来るのである。

だが、筆者はそれがいかに存外のものであっても、軽く受け流し、人として自然な反応を返し、しかるべき最小限度の対処をするほかは、全く気に留めないことに決意した。

たとえそれが筆者自身とその生活を直撃するような威力を持つ可能性のある事件であっても、気にしないことに決めたのである。なぜなら、神が「思い煩うな」と命じておられるからである。

明日のことは思い煩うなと。明日自身が思い煩うであろうと。

だから、随分前から、筆者はそういう心配を投げ捨ててしまった。
 
たとえヨブのように、突如として数多くの方面から、あり得ないような災いの報告を聞かされたとしても、筆者は、思い煩わないことに決めたのである。

ヨブの態度はまことに潔かった。

「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな」

そして、それ以上、地上のものに全く執着しなかったのである。

筆者の場合、神は筆者に関わる多くのものを守って下さっているため、ヨブのような試練には達してはいないし、同じことは起きないであろう。だが、そうは言いつつも、筆者の歩みも、ちょっと大袈裟かも知れないが、だんだん、砲弾の炸裂する只中を歩くのにも、似て来ている。

ある日には、主の深い憐れみを見たかと思えば、次の日には、悪魔の激しい憎悪と歯ぎしりの音を聞くといった具合に、何も事件が起こらない日がないのだ。
 
だが、筆者は悪魔の歯ぎしりには耳を傾けないことに決めた。

悪魔は、このところ、人間が正常な理性では到底、耐えられないようなナンセンスな事件を連続して引き起こしては、人々を絶え間なく消耗し、悩ませるようになってきている。人々に思い煩いの果てに、死へ向かわせることが狙いなのである。だから、そういうものにもし信者が真面目に取り合っていれば、理性が持たなくなるだけだと早く気づかねばならない。

世が引き起こす歪んだ事件には注意を払わないことである。何よりも、そういったことに責任を負わないことだ。何のせいで起きたのかもなど問わないことである。地獄から来た事柄は、地獄の責任なのであるから、地獄へお帰りいただくのがふさわしい。

それよりも、神の憐れみ、神の慈しみ、神の愛に目を向けることだ。神の完全さがあなたの信仰を通じて、この世にどのような解放的な影響を及ぼし、あなたの願いを神がどれほどきめ細やかに知って下さり、満たして下さろうとしているか、そこにのみ目を向け、期待することである。
 
悪意ある事件は、世には毎日、起き続けている。だが、それが自分に関わろうと関わるまいと、可能な限り、そこへ思いを向けないことである。
 
それよりも、神の憐れみをまっすぐに見つめ続けることだ。たとえ悪魔が目の前から光となるものをすべて取り去ったとしても、神の愛、神の憐れみ、神の最善だけをひたすら見つめ続けることだ。

そうしていれば、本当に恵みが雨のように降って来るのを見ることができる。どんなに不安に囲まれているように思われてもだ。

だから、信者は自分自身の存在そのものを、完全に、神の御手に委ねてしまうのが早ければ早いほど良い。たとえ自分自身を振り返って数々の失敗や落ち度があったとしても、それさえもすべて丸ごと神に委ねてしまい、神に全幅の信頼を置くことである。

そうするのが早ければ早いほど、信者には消耗が少ない。
 
信者が責任を負っていることがもしあるとすれば、それは悪魔の引き起こす事件の後始末に対してではない。信仰によって天を地に引き下ろすこと、神の御旨を成就することだけなのである。

だから、思いを天に向け、心を軽くし、天の高度を生きることである。すべての思い煩いを捨て、悩みや苦しみを神に打ち明けて荷を下ろし、すべてを主に委ねて、心を軽くすることである。そうして、自分の霊を飛翔させ、天的な高度を生きること。信者が自分の霊と心とを、自由が利く軽やかな状態に保っておくこと、これは信者の信仰生活における霊的統治にとって重要なことである。
 

この世からのエクソダス(1)

「こういうわけで、わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られたのです」(ローマ6:4)

「全て神から生まれたものは、世に勝つ。…世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)

この世の体系はそもそもサタンの支配下にあるが、この終わりの時代に、世に臨む悪と偽りの力は、ますます深まっていくものと思う。

一つ前の記事で、教会(エクレシア)とは、神の御心においてすでに完成している霊的な実体であって、これから人間(信者)が努力によって築き上げるものではない、ということを書いた。

しかしながら、今も、この地上においては、信者たちが自分の好みに任せてばらばらに作り上げた団体や組織が「教会」という名で呼ばれているし、信者たちは一生懸命に、それらの組織や団体を拡大させることで、「教会」を成長させようと努力している。

だが、残念ながら、それは本当のエクレシアの実体とは全く関係のない地上的な事柄に過ぎないのである。
 
だから、このような地上的な「教会」の模造品はいずれ、この世の体系に完全に巻き込まれて堕落し、この世の他の宗教を含めて、みな反キリストの支配へと集約されていくだろうことを、筆者は予想しているし、また聖書もそのように警告しているものと考えている。

むろん、そこに含まれるのは、地上的なてんでんばらばらの組織や団体としての「教会」だけではない。国家や、企業や、その他のありとあらゆる、人間が己が身を守るために作り出した地上の組織がそこには含まれており、いわば、地上のあらゆる組織や団体全体が、悪鬼化して行くという現象の途上に、我々は身を置いているものと筆者は考えている。

そんなことになるのは、そういった一連の組織や団体が、もともと神の霊によって生まれて来たものではなく、地上にいる人間がより集まり合って自分たちの罪を隠し、互いの弱さをかばいあい、守り合うために生まれた「イチヂクの葉同盟」のようなものに過ぎないからである。
 
また別の場所でも詳しく書きたいと思っているのだが、そういった組織のすべては「母子家庭」の様相を帯びている。

たとえば、PTAなるものを考えてみよう。大抵、会長は男性である。この世の企業においても、信者たちが「教会」と呼んでいる集まりにおいても、牧師や、リーダーはたいがい、男性である。だが、こうしたリーダーは一種の「お飾り的」な存在であって、人前でのスピーチや、訓戒など、注目される栄光ある仕事を独占してはいるが、実際には現場からは遠く離れており、現場においては何の役割もはたしていないも同然である。その団体の一番重く、つらい仕事はみな女性たちが担っている。

つまり、そこには現然たる男尊女卑のような差別があって、リーダーの下にあって、虐げられている女性たちは本当の意味で幸福ではない。それはこの地上的な組織としての教会も同じことである。そのようなところから始まって、その団体には、様々な序列と差別の仕組みが造り出され、子供たちが軽んじられていたり、役員が幅を利かせていたりする。

リーダーが栄えある仕事を独占するだけで、実際にはリーダーとしての役割を果たしておらず、果たすことも求められていないお飾り的存在なので、リーダーは配下にいる人間を養い、育てることができず、そのために、その組織は、常に栄養不良の状態にあり、ある意味、リーダーは不在(もしくは「父不在」)と言っても良い、寄る辺なく頼りない状態にある。これが企業ならば、常に社長が出張にばかり出かけて、社を不在にしているようなものだ。その無責任で弱々しいリーダーの下に、彼の果たし得ないすべての仕事を代行するための女性たち・子供たちの集まりがあって、当然ながら、そこで、リーダーからは置き去りにされて、地味で報いの少ない仕事を引き受けている「女子供」のような弱い人たちは、心が満たされるはずもない。だから、争いも発生する。そして、リーダーがお飾りであるという認識が強まれば強まるほど、リーダーは敬われなくなって行き、もはやリーダーが指令を下しても、現場はそれを無視するまでになり、秩序が秩序として機能しなくなる。

こうしたことは、地上の組織がほぼすべて「リーダーが不在」であるか、「リーダーがリーダーとしての役割を果たせない」一種の「母子家庭」の様相を帯びているために生じて来る現象だと筆者は考える。そこには大黒柱となるべき「父」がいないので、どんなにそこで女性と子供たちが力を発揮しても、本当の安心感は決して生まれて来ないのである。また、大黒柱が精神的に不在であるからこそ、リーダーの指令への違反や、現場の暴走といった反逆的な現象も発生するのである。

そんなことになるのは全く無理もない。なぜなら、真の「父」は天におられるただお一人の神の他にはなく、まことのリーダーはキリストしかいないからであって、地上の組織は、みな天的な組織の移ろいゆく影のようなものに過ぎないからだ。だから、キリストではない、地上の目に見える人間のリーダーを据えてこれにつき従う組織は、結局は全部、「母子家庭」にならざるを得ないのである。それが筆者の持論である。

すでに述べた通り、そういったことは、別に教会という名で呼ばれている地上の組織だけでなく、国家であれ、企業であれ、どんな団体であれ、同じように起きている。どんなにそこでリーダー格の人々が権威を帯びて、勝ち誇っているように見えたとしても、結局のところ、それは名目に過ぎず、実際には女性たちがその団体をけん引しており、その組織はその男尊女卑的な制度だけから見ても、事実上、「父不在」の「母子家庭」なのだと理解できる。そのような制度の下で幸福になれる人はいない。

さて、本題に戻ると、そんな中で、クリスチャンは何をすべきなのか。

エクレシアの実際により深く入り込むことである。

幸いなことに、我々は母子家庭には生まれておらず、父によって置き去りにされた子供たちでもなく、リーダー不在の組織に生きているわけでもない。なぜなら、我々には天におられるまことの父がおり、この保護者は、最も寄る辺ない者に最も深い愛を注いで下さる方であり、我々はキリストによって上から生まれた者であって、キリストこそ、信者にとってのまことの伴侶であり、世の終わりまで、決して信者を捨てないと言っておられるからだ。

信者の使命とは、声を大にして、キリスト教界がますますこの世と妥協しつつある危険を叫び、それを押しとどめようと努力することではない。おそらく、どんなに叫んでみたところで、誰も地上の組織や団体がより一層、深く悪に身を委ねて行くその動きを変えることはできないであろうと筆者は思う。

地上から生まれたものは、しょせん、滅びゆく地上の成分からできており、信仰なくして、これを劇的に変えるなどということは誰にもできない相談だからだ。そして、信仰は極めて個人的な内面の過程であって、外的な感化によって変えうる領域ではない。

世的な教会の罪を非難するための各種のキャンペーンや、世から遠ざかるためのあれやこれやの術策が、人の内面を変え、人間を真理に導きいれることはない。

キャンペーンによってこの世を堕落から救うことなどできはしない。信者が反キリストや暗闇の勢力と同じ土俵に立って勝負しようとしても、それは無意味な所業である。

だから、この世が、この先ますますひどくなっていくことは、誰にも止められない相談なのである。筆者はそう思う。

だとすれば、そんなことにこだわっているよりも、信者はこの世の混乱した有様から目をそらし、自分自身の内面における「キリストの成分の増し加わり」についてよくよく考えてみる方がはるかに有益である。

信者の人生においてものを言うのは、信者自身とキリストとの真の結合の度合いが強まることだけである。つまり、信者の内面で、キリストがより信者自身と結びついて、はっきりと力強く働かれるようになることだけである。

信者は、この世の力によってこの世に立ち向かうのではなく、この世とは全く性質の異なる別種の力によって、この世に勝利するのである。

信者はこの世の偽りの影響力からは、すでに十字架によって隔絶し、死を経てよみがえられたキリストの命の支配する領域の中で生きている。そのことを明確に思い出し、神の命の力をこの世に向かって行使する秘訣を見いださなければならない。その時だけ、信者の存在が、この世に対して大きくものを言うようになるのである。

だから、この世の混乱した有様がどれほどひどく見えたとしても、それは恐れるに足りない。信者は、自分の内におられる方が、世のすべての権威にまさる権威であることを思い起こし、その方の権威を実際にこの地上で行使して行く必要がある。

この世の有様は変えようがない。だが、この世とは全く違った立ち位置から、全く異なる性質の権威と力を行使するのである。その時に、思いもかけなかった形で、この世の様々な現象が、御名の権威に服するということを信者は見るようになるだろう。
 
日々、小さな一歩からかも知れないが、もし本当に、信者が神から生まれた者ならば、彼は自分がキリストと共に世に勝つ者であることを実際に見るはずである。

「全て神から生まれたものは、世に勝つ。…世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)

カレンダー

03 2018/04 05
S M T W T F S
3 5 6
8 9 11 12 13
15 16 17 18 19 20
22 25 27 28
29 30

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)


ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー