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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表し、絶えずさらに優った天の故郷を熱望する

彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)
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十字架の死と復活の原則―神の相続人―キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける―

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを明かししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1-2)


もしもこのブログを読んでいる人々の中に、力の強い人間の顔色を伺い、権力者の思惑を忖度して行動している人がいるなら、そんな生き方はやめて、一刻も早く、神の顔色を伺った方が良い。

筆者はよくサムソンの最期を思い出す。このブログでサムソンに触れたのは、今回が初めてではない。

信者は、地上の人間である限り、神の義と神の国を第一にして生きると言いながらも、それでも、心は常に地上のものによろめき、容易に逸脱を繰り返す危なっかしさを持っている。筆者も、そうした弱さを持つ人間の一人として、自分の心が真に重要なものから逸れかけていると気づく時、はっとサムソンのことを教訓として思い出すのだ。

もちろん、神の霊が内に住んでおられる信者が、デリラの誘惑に屈したりすることはない。むろん、信者がサムソンのような最期を遂げる必要もない。この地上にいる信者たちが誰しもサムソンのような最期を遂げていたのでは、御国の前進もないだろう。

とはいえ、サムソンの生涯は、そのものが私たちにとって大きな教訓である。

信者は目を覚まして、地上のものに心惹かれることに警戒し、何が真に重要なことであるか、常に見極めようとしなければ、霊的視力は容易に曇らされてしまい、天の宝を失ってしまうという教訓なのである。

そうして目を覚まさせられる瞬間、筆者はサムソンのことを思う。そして、考えるのだ。どうすれば、神の目に本当に喜ばれる奉仕を成し遂げることができるのか。そして、そうだ、まだやり残したことがあった、と思う。ペリシテ人の神殿を崩壊させる仕事が残っているではないか、と心に思うのだ。

このように、筆者が渾身の力を振り絞って「ペリシテ人の神殿」を崩壊させて来たことが、これまでに何度かある。その戦いは、周りから見れば、ありふれた出来事でしかなかったかも知れないが、そこには大きな心理的なドラマがあり、予行演習があった。

デリラの誘惑に引きずられたために、罠に陥れられ、神から与えられた賜物としての力と輝きを失ったサムソン。両手を鎖につながれ、両眼をえぐり出され、奴隷的苦役に従事させられ、ついにはペリシテ人の余興として辱められるために、見世物として宴席に引き出されたサムソンが、最期の力をふりしぼって、ペリシテ人の神殿の柱に手をかけた。

サムソン最期の神への奉仕だ。

彼は何もかも剥ぎ取られた人生最期の瞬間に、自分のすべてをかけて、地上のものへの未練を振り切り、神の権益に寄与した。その瞬間、ペリシテ人の奴隷になっていたサムソンに怪力が戻った。異教の神殿は音を立てて崩壊し、宴席に連なって酔いしれていたペリシテ人たちは、奴隷のサムソンにまさかそんな力があるとは思わず、完全に油断し切って慢心し、欲望にふけり、酔いしれていたので、逃げ出す暇もなく、壊れた神殿の下敷きになって死んだ。

サムソンの場合は、気づくのが、ちょっと遅すぎたのではないか、と筆者は思う。本当は、これほどまでにすべてを剥ぎ取られる前に、信者が神に立ち返ることは十分に可能だ。だが、同時に、パウロが「あなたがたは罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがない」と信者を叱咤したように、人間の心に潜む堕落の深さを、まだ十分に知らないがゆえに、甘く見てはいけない部分もある。

ある信者たちは、ダビデとバテシェバの物語を聞いて、ダビデの心の弱さを嘲笑する。何と愚かな人間だろう、自分であれば、そんな過ちは絶対に犯しはしないのに、と笑うのだ。だが、人間と人間の魂の間には、各自の感情や思惑をはるかに超えた、何かしらの絶大な本能的な力が働くことがある。魔がさすとでも言うのか、とてもではないが自力では太刀打ちうちできないような強力な誘惑が人生に起きて来ることも時にはあるのだ。

それが、人間の堕落した魂と肉体に働く悪魔的な力である。

そして、信者らは、この堕落した魂と肉体に働く力を、常にキリストと共なる十字架の死へともたらし、神の霊の働きによって体の働きを殺す。これは人の力で成し遂げられることではない。キリストが十字架で勝利されたからこそ、適用することのできる力なのである。
 
キリスト者は神の神殿であり、サムソンも旧約聖書に登場するすべての信仰の先人同様に、神の神殿の型である。ナジル人の風習として、サムソンが髪の毛に剃刀を当てないことは、サムソンが神の神殿としてこの世から聖別された地位を保つという意味を持っていた。頭の毛を切ることは、神殿とこの世を隔てている覆いを取り払い、神の神聖を自ら捨ててこの世と同化することと同義だったのである。

このような文脈で見ると、ナジル人のサムソンは神に対して霊的に女性である人類を代表していたと言えるかも知れない。パウロは言う、女性の長い髪は頭の覆いのためであり、その意味で髪は女性の栄光であると。人類という被造物は、創造主である神に対して霊的に女性の立場にある、この意味では、髪に覆いをかけることで聖別を保ったサムソンと人類とは重なるのかも知れない。
 
キリスト者の支配は、心の中から始まる。神と悪魔との戦いは、いわば、信者の心の中心の争奪戦でもある。信者が何を第一として生きるのか、神を第一として生きているのか、それとも、それ以外のものを第一として生きているのか、その激しい主導権争いが信者の心の中から始まるのだ。

信者が霊的な戦いに勝つためには、信者が自らの心の中で、ただ神だけを中心に据え、他の何者にも決して頼らない状態を作り出さなければならない。心の中からすべての「デリラ」を追い出し、「アカンの外套」を捨て去り、神以外のどんなものも心の中に中心として据えるものがない状態にしておかねばならない。
 
決してどんな地上の人間にも頼らず、神だけが栄光を受けられる状況を自ら作り出すのだ。

さらに、もしできるならば、エリヤがしたように、戦いをより一層、難しいものとするために、神の栄光が人の目によりはっきりと現れるために、祭壇に何度も水をかけ、火がつきにくいようにしておけば良い。
神がついておられなければ、勝利などあり得ない状況にしておくのだ。

それさえできれば、戦いの勝利は確定したも同然である。あとは柱に手をかけ、一歩を踏み出すだけだ。待ち望みの時は過ぎた。髪の毛は十分に伸びている。神がついておられるならば、誰が信者に敵することができようか。

さて、今回は長い記事は書かない。

はっきり告げておきたいのは、筆者の書いた多くの内容には、筆者でさえ書いた当時は理解していなかったような予言的な意味が込められていることが、後になってから分かることがよくあることだ。これは自慢話ではなく、キリスト者の歩みに、何一つ偶然はないことを示している。

筆者は、以前、剣を取る者は剣で滅びるように、裁判に訴える者は裁判で滅びると書いた。

神が怒られるのが遅く、その憤りは長く続かないと聖書にあるように、筆者もかなり気は長い方だ。むしろ、怒るべき時に怒らないのでチャンスを逃していると叱咤されてもおかしくない。
 
それでも、そんな筆者も、サムソンがその怪力によって何人もの敵を倒したように、自らの主張だけで、いくつもの「ペリシテ人の神殿」を倒した。予行演習としてはもう十分であろう。随分、時間がかかってしまったが、そろそろ本番が待っている。

筆者は一つ前の記事に、新居に来て後、しばらく家具を選ぶことに熱中していたと書いた。それは無価値なこの世的な興味関心であったかも知れないが、そのことからも、学んだ教訓はある。それは、完全なものを得るために、信者は決して妥協してはならないということである。

時に、ベターはベストの不倶戴天の敵となる。次善にも、それなりの長所があり、輝きがある。だが、次善が、最善であるかのように振る舞った時、次善はただちに悪となる。それは悪しき腐敗した虚偽として、取り除かれねばならないものになって行くのである。

ガラス玉もイミテーションとして楽しむうちは無害であろう。だが、ガラス玉が自分はダイヤモンドだと言い始めた時に、それは悪の権化、罪の化身となる。山登りをする人が、初めから自分は5合目までしか目指していなかったから、途中で山を下りたと言えば、嘘にはならない。だが、もともと山頂まで上るはずだった人が、4合目、5合目で疲れて立ち止まり、下山したにも関わらず、自分は登頂したと宣言すれば、それは大嘘である。

問題は、キリスト者は常に神が満足される完全を目指さなければならないのに、そこにこそ、神と私たちの心を完全に満足させる天の栄光に満ちた相続財産があるのに、多くの人たちが、次善で満足した上、それがあたかも最善であり、完全であるかのように見せかけようとすることにある。

筆者はこれまで「カルト被害者救済活動」の何が間違っているかについて述べて来たが、この活動も、神の最善に悪質に立ち向かう「次善」である。神ではない人間による救済事業は、うわべだけは善良そうに見えるが、真理に立ち向かう悪質な虚偽だからである。

聖書の真理は、神ご自身にしか、人間を救済することはできず、苦しむ人々を「救済」する仕事は、ただ神だけのものであって、人間自身には人間の救済はできないというものだ。神の助けを受けることこそ、我ら人間にとって完全な道であり、最善の道である。我らの救い主として栄光を受けるべき方は、神ただお一人しかいない。

にも関わらず、この地上では、牧師や、教師や、カウンセラーや、助言者たちが、あたかも自分たちが人間を苦しみから救う力を持っているかのように、親切で善良そうな言葉を振りまき、耳元でささやく。まして、神の教会で起きたトラブルを、自分たちには解決できる力があると言う不遜な人たちまでいる。そして、彼らは、神の教会や信者の欠点や弱点をさかんに噂し合いながら、教会を貶め、悪しき教会から人々を助け出すと言っては、心弱く自信のない大勢の人たちを惑わして行く。

だが、これはしょせんAチームBチームの戦いでしかないのだ。神になり代わって指導者として信者に君臨する中間搾取者が、自ら他の中間搾取者を訴え、取り締まっているだけで、「あの先生」と「この先生」の間の戦いを行き巡っている限り、決して信者が自由になれる日は来ない。

このような偽りの「指導者たち」の唱える「救い」が完全に偽物であることは、彼らが筆者に対して行って来たすべての仕業からすでにはっきりと明らかである。彼らは、信者たちの弱さにつけこみ、問題につけこみ、それを解決してやるように見せかけながら、実際には、「偽物の救い」という、デリラの甘い誘いでがんじがらめにし、信者に本当の神の力を決して味わわせないように、信者の聖別を奪い取って、捕虜として連れて行くだけなのである。

彼らが望んでいるのは、ただ自らが神の代理となって、信者の心を支配し、神がお与えになった信者の自由を奪い、信者を道具として自分の利益のために搾取し、それにも関わらず、自分はあたかも人前に人助けをしている善人であるかのように振る舞い、神から栄光を奪い取って、自分自身が栄光を受けることだけなのである。彼らにとって、弱さのゆえに自分を頼って来た信者は、いわば、獲物である。

このような活動は、神の救いに真っ向から対立する悪質な虚偽である。だが、そのことは幾度となく述べて来たのでここでは繰り返さない。

キリスト者は、すべてにおいて、完全を目指さなければならず、それ以下のもので決して満足して立ち止まってはならない。たとえどんなに優しく親切そうな人間が現われ、困っている時に、助力を申し出て来たとしても、それが人間であって、神ご自身ではないという事実が持つ重大な意味を、信者は決して忘れるべきでないのだ。そして、次善を最善以上に高く掲げるという過ちを決して犯すべきではなく、神以外のものに栄光を帰してはいけない。次善の誘惑に屈しないために、そのような偽りの助けは最初から拒むのがよかろう。

繰り返すが、我らの救い主は天にも地にもただお一人であり、救済者は神しかいない。だが、キリスト者はその真理に従うために戦いを迫られる。あらゆる面で、神の完全を追求するために、あらゆる次善を拒否する戦いを最後まで立派に戦い抜かねばならない。

そこで、信者には、肉なる腕(人間)から来るすべての助けを、悪しき堕落した誘惑として拒否しなければならない時が来るのだ。だが、自分が救済者をきどりたい人たちは、「次善」呼ばわりされ、自分たちの助けの手は必要ないと言われると、プライドを傷つけられたと感じて怒り出す。その瞬間に、彼らの化けの皮がはがれる。

彼らは、苦しむ人々を救済すると口ではあんなに親切そうにうそぶいていたのに、いざ、自分たちの本質を見抜かれると、それを見抜いて去って行った人々に猛烈に石を投げ、殺意に至るほどの敵意を持って追いかけ、真実を訴えさせまいと、口を封じようとする。

このような凶暴な人々の本質が、救済者ではないどころか、むしろ、人殺しであることは、今や誰の目にも明白である。

主イエスが言われた言葉を思い出そう。

「彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです。」と言うと、イエスは言われた。
アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、いま、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言うと、イエスは言われた、

「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。<…>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:39-44)
 
このところ、有名人の不倫騒動が世間を騒がしており、この世の法に照らし合わせても罪に相当するはずのない事柄が、あたかも重大な罪のように取りざたされ、そのために人々が互いに石を投げ、断罪し合っているが、それを見ても思う。世の裁きは何と神の裁きに比べて、憐れみも容赦もないことだろうかと。

いつもそうだが、人間による裁き(人間による救済と同じ)は、最初こそ、人の目に優しく、親切そうに、正義のように見える。ところが、人間による裁きは、最後には、どんな宗教でさえ考えつかなかったほどの、とてつもなく厳しい行き過ぎた制裁となり、ついには法にも常識にも基づかないデタラメな私刑へと落ち込んで行くのである。

こうして、悪魔(この世)が悪魔(この世)を厳しく裁き、取り締まるというのだから、思わず笑ってしまう。だが、人間による救済は、このように、必ず救済どころか、とてつもなく厳しい裁きにしかならないことが、途中で明らかになる。そのことが、「カルト被害者救済活動」の暴走の過程でも、完全に裏づけられていると言える。

私たちは神の憐れみに満ちた裁きにすがるのか、憐れみのない人間の裁きにすがるのか、常にどちらかの選択を迫られている。

「自分たちはアブラハムの子孫だ」と言いながら、主イエスに対する敵意に燃え、イエスを救い主として受け入れず、十字架にかけて殺した人々は、自らよりどころにしていた律法によって容赦なく裁かれることになった。
 
今日も同じである。神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)


悪魔はあたかも自分にこそクリスチャンを訴える権利と資格があるかのように振る舞うだろう。聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを訴える者」であるから、常にクリスチャンを自分から先に告発しようと躍起になっている。

だが、聖書の御言葉を参照するなら、どうだろう。むろん、神に義とされた者を再び罪に定めることのできる存在はおらず、悪魔の訴えはむなしく退けられるばかりか、兄弟(クリスチャン)を罵倒し、傷つける者こそ、特別に厳しい裁きを受けることが聖書にははっきりと示されているのだ。

そういう者たちは、最後の1コドランスまで支払って、和解しない限り、牢から出て来ることはできない。これは、この世の裁きのことだけを指しているのではなく、むろん、地獄の永遠の裁きのことをも指している。恐ろしいことである。神の贖いによって義とされたクリスチャンを罵倒し、罪に定めようとすることが、どんなに恐ろしい罪であり、永遠の厳しい裁きに価するかがよく示されていると言えよう。

世に勝つ者は誰か

「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネ12:15)
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:5)

ただ嬉しかった…。

一日のほとんどを勤務に奪われ、以前のように御言葉を自由に思いめぐらすこともできなくなり、兄弟姉妹に連絡することも、記事を思うように書くこともできなくなった。

グノーシスの研究に期待しているとの言葉を読者からいただいても、研究を進める時間がない。その上、兄弟姉妹からも引き離されてしまったかのようで心寂し かった。職が与えられた喜びも束の間、閉ざされた環境で、四六時中、業務用のスクリプトとにらめっこしながら、人生がむなしく終わっていってしまうのだろ うか…、という不安が心にやって来ることもあった。

だが、今日はそんな愚かしい寂しさが吹き飛ぶほどまでに、主が私たちの思いをはるかに超えたことをなしておられると確信することが出来た。神の国、キリス トのまことの命による統治についてのメッセージを聴いたのだ。これから先、命をかけて御国の福音を宣べ伝え、御国の法則性の中に生きることの必要性が兄弟 姉妹の間で語られたのだ。

このようなテーマについて聴ける日をどれほど待ち望んで来ただろう。世においても、キリスト教界においても、激しい試練に幾度も直面してきたまさに私たち のこの世代の中から、来るべき火のように激しい試練の日に、キリストにある勝利者として立ちおおせるために、覚悟の出来た証人たちが起こされることを、ど れほど待ち望んで来ただろう。その証人たちがすでに起こされていることを目の当たりにして、また、励まし合うことができて、ただ感無量であった。

私の身に起こったことを見ていただいても分かるように、私たち信仰者は今、御言葉をめぐって、激しい戦いの中に置かれている。聖徒たちは望むと望まざると に関わらず、キリストの主権を代表する者として、真理と虚偽との激しい霊的戦いの中に、すなわち、命なるキリストの統治する神の国と、闇の世の主権者の支 配するこの世との間での激しいせめぎあいの中に置かれている。

私たちはどちらの側に立つのか? むろん、私たちは御言葉に立ち、キリストの霊なる命の支配に立つ。どのように偽りによって圧迫されようとも、ただカルバリに立って、子羊の血とキリストの勝利を証する真理の言葉をともし火のように掲げ続ける。

恐らく世はこの先、ますます混乱を極めるであろう。雇用情勢も悪化しているし、金融危機の到来も危惧されている。目に見える世界には、人を不安に陥れる材料が満ち溢れている。私たちも状況によって追い詰められ、悩み、苦しむことがあるかも知れない。

だが、主は私たちに平安を約束して下さった。
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。

私たちの内におられる方は、この世に打ち勝った方である。この命なるお方に対して、世は何もすることができない。主イエスは言われた、「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。」(ヨハネ14:30) 「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。」(ヨハネ12:31) 

ハレルヤ! 御言葉は明らかにしている、御子を信じる者たちは、もはや、この世の暗闇の支配下に置かれる理由がないと。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)
 キリストの十字架を通して、私たちはこの世に対して死に、この世も私たちに対して死んだ。私たちは愛する御子の支配の下に、御国のキリストの統治の中にすでに引き入れられた。御国は私たちの只中に来ている。

サタンの足がかりとなる私たちの肉も、魂の命も、キリストと共に永遠にはりつけにされて絶えず死に渡されている。私たちは今、肉体の中で生きているこの命を、私を愛し、私のためにご自身を与えて下さった神の御子の信仰によって生きているのだ。

この先、御言葉を曲げ、十字架を否定し、真理の証の言葉を除き去ろうとするこの世の怒号がどれほど大きくなろうとも、私たちはただカルバリに立って、主の 勝利を宣言し続けたい。たとえ私たち自身の罪や、私たち自身の肉がどれほど私たちを脅かすことがあったとしても、私たちは自分の冠を投げ捨てて、我が内に おられる栄光の望みであるお方を信じ続ける。私たちは十字架を通して闇の世から、愛する御子の支配へと連れ出された。世からの脅かしに対して、これ以上敗 退しなければならない理由はない。

「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)

「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。」(ヨハネ16:21)

たとえ世がどれほどの暗闇に覆われようとも、どれほど不安材料が私たちの目の前に山積みされようとも、私たちがどれほど世から罪定めされ、圧迫されると も、主よ、私たちがただ血潮の中に立ち続けることができますように。十字架の死にとどまり続けることができますように。その時、世は私たちに全く手を触れ ることができないのです。その時、人知を超えた喜びと平安が私たちの心の内にとどまるのです。

そして、キリストがご自分の肉体を裂いて、私たちにお与え下さったまことの命の豊かさを、どうか私たちがこの地上にあって、十分に味わい知ることができま すように。私たちを通して、御国が地上になりますように。私たちを通して、人々がこの命なるお方に触れますように。目に見える状況がどうあろうとも、全て の全てであられる方が我が内にいて下さり、知恵となり、力となり、勝ち得て余りある命となって下さっていることを信じます…。

キリストは私たちのために呪いとなって…

主にある一人の姉妹へ

コスモスが海のように満開です。駅に降り立つや否や、懐かしい空気が身体を包みました。やはり関東とは全く雰囲気が異なりますね。ある姉妹が私に送って下 さったメールに写っていたのと同じ、淡いピンクの花びらをしたコスモスがどこまでも咲いていて、とても美しい。遅れに遅れた夏休みを取り戻すべく、しばら く親族と共にゆっくり時を過ごします。

家に入るなり、愛犬が吼えること、吼えること。私はこの仔犬とは初対面なのです。でも、最初は噛みつきそうだった仔を、1時間もしないうちになつかせることが出来ましたよ。今ではもうべたべたに甘えてくれます。

懸案の事項については、あまり心配なさらないで下さい。公の場ではただ反対の声しか聞かれないかも知れませんが、それは表層なのです。非常に多くの方たちから励ましのお便りをいただいていますし、主ご自身が今、この件に御手を置いておられることを感じます。

何よりも驚くのは、このような否定的に見える事件を通して、今までつながることのできなかった兄弟姉妹との結びつきを主が与えて下さったことです。それは 公の場にあるのとは全く別の、見えない地下水脈のような流れです。今、主がこの件を通して、私ばかりか、他の兄弟姉妹の上にも、まさに何かをなさっておら れる…、そのことを確かに感じています。ですから、私達は世からどのような評価を得ようとも、ただ十字架に立ち、主の解決を信じて静かに待つだけです。

さて、今日は真実な信仰を持って生きているクリスチャンが、人に呪われることはないということについて書きます。主を信じる者たちは、いかなることが起こ ろうとも、キリストの十字架を通して、もはや、一切の呪いから解放されているからです。律法による呪いは神からの呪いであり、私達が受けられる最大の呪い です。私達は自分の罪のために、律法の下で呪いに服し、死の刑罰に服するしかない存在となりました。しかし、キリストは私達のために身代わりとして呪いと なって、木にかかられ、全ての呪いを引き受けて下さったのです。

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。」(ガラテヤ3:13)

「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 」(ヨハネ3:18)

キリストが私達の罪のために身代わりとなって、全ての罪と呪いと死の刑罰を引き受けて下さったことを信じるならば、私達は裁かれませんし、呪われませんし、二度と死の刑罰に定められることはありません。それは信じる者に無代価で与えられる恵みです。

しかし、もしキリストの罪の贖いを信じないなら、私達は呪いの下にあり、裁きの下にあるのです。なぜなら生まれながらの人の中で誰一人として自分の力で律法を守り通して義とされる人はいないからです。

「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる』と書いてあるからである。」(ガラテヤ3:10)

私達は、木にかかって死んで下さったキリストを通して、すでにあらゆる呪いから救い出されていることを信じるでしょうか? 律法は依然としてあらゆる点で 私達の落ち度を叫び、私達を執拗に訴えるかも知れませんが、それに対し、私達は自分自身の何かによって応えず、キリストによって、子羊の血潮によって応え るでしょうか? 私達はただ子羊の購いの血潮によってのみ、全ての罪から救い出され、全ての訴えから救い出され、全ての呪いから救い出され、信仰によって 義とされるのです。

ですから、訴える者がやって来た時、私達が提示できるのは子羊の血潮だけです。自分自身の何かによって、人の前に、あるいは、神の御前に、最後までたちお おせる人は誰もいません。私達が神の御前に立つことができるのは、自分自身の正しさによってではなく、ただ私達を義とするために死んで下さった方の贖いに よるのであり、人類の罪のために永遠に流されている子羊の血潮によるのです。

「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:28)

私達は弱く脆い器に過ぎません。しかし、私達が神を選んだのではなく、神が私達を選ばれたのです。そこに私達の希望があります。そして、自 分により頼むのではなく、キリストにより頼み、キリストの十字架の御業によって立たされていればこそ、私達は大胆にこう言うことができるのです。

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」(ローマ8:33)

愛する姉妹、全ての問題に対し、主がどのような解決を与えて下さるのか、待ち望みます。おそらく、今回のことを通して、神は私たちの思いをはるかに越えたことをすでになしておられると思います。

私達は御子の贖いの御業によって自由とされたことを信じ、その自由をますます受け取って生きたいと願います。私は疲れを落とし、家族と共に我が家で平和な時を過ごしていますので、どうぞご心配なさらずに、そちらもお元気でお過ごし下さい。

あなたの姉妹ビオラより 


つづきはこちら

この世からのエクソダス(2)

主イエスが十字架でこの世に対して取られた勝利を信じるならば、この十字架の中にこそ、私たちは、この世と私たちとの間に今ある相克だけでなく、世的な教会と私たちとの間に今ある相克の問題の解決も全て含まれている、ということを見いだします。この事実に、信仰によって、はっきりと立っているならば、この 先、神の子供たちに迫り来るであろう暗闇の力がどれほど大きくなろうとも、私たちはそこから救い出されるでしょう。

すでに世から救い出されている者が、もう一度、世の襲来を食い止めるために、後ろを振り向いて、自分の力で世と対決する必要があるのでしょうか? ですか ら、言葉の争いや、力の行使により、世の影響力と取っ組み合って、世的な教会を是正することが、クリスチャンに求められている課題ではありません。もしも そのような考えを持つならば、生きている限り、世的な教会の欺瞞を糾弾する仕事が、私たちの職業になってしまうでしょう。そして私たちは、善悪の路線での 議論に熱中し、命なるお方との生きた接触を忘れてしまうでしょう。

世的な教会の欺瞞を非難するという作業は、まるで、大海からスプーンで水をすくってかき出そうとするのと同じように、ますます膨らんでいく欺瞞を食い止め る力にならないだけでなく、善悪の路線における議論は、常に先鋭化して、行き過ぎた罪定めと、多重分裂的な争いへと発展していきます。もしも私たちがその ような議論に落ち込むならば、私たちはいつか兄弟姉妹と自分を分け隔てし、自分だけが正しいと思い込むようになるでしょう。憐れみ深い神は、罪定めのため でなく、和解のために、また、死ではなく、新しい命のために、御子の十字架を備えて下さいました。

ですから、似て非なるものを非難する作業に注意を奪われて、まことの命なるお方に目を注ぐことを忘れないよう気をつけましょう。この世の万物を死に至らしめた御子の十字架を経由することのみが、絶え間なく私たちに闘いを挑んでくるこの世からのエクソダスの方法なのです。

ハレルヤ。私たちはそのエクソダスを経た者、すなわち、世から召し出された者です。バプテスマにより、御子の十字架を信じる信仰により、私たちは、すでに 世から救い出されて、御子の支配下へと移されました。ですから、もはや後ろを振り向く必要はありません。この世や、世的な教会におけるさまざまな対立や、 言葉による争いも、私たちに対して死んだのです。十字架によって、この世は私たちに対してはりつけにされ、私たちも、この世に対してはりつけにされまし た。ですから、私たちが十字架の死を真に経由しているなら、世的な教会におけるあらゆる争い事からも、すでに完全に救い出されていることを見いだすでしょう。

<2016年追記>

地上における諸々の利害の対立をめぐって生じる相克や争いを原因とするすべての地的な思い煩いから信者が全く距離を置くことは重要である。それはただ単に心の距離であるだけでなく、キリストと共なる十字架によって、信者がこの世に対して死んだことから来る霊的な隔たりである。

これは他人の痛み苦しみに対して無関心になることとは違う。地上で起きているすべての悪意ある現象に対して無関心になることも違う。ただ、そういったことに対して、霊的な死が適用されているがゆえに、「一切、責任を負わない」という姿勢を貫くことである。

暗闇の勢力は終わりが近いためか、年々、その陰謀工作に悪意と激しさを増しており、今や人々にひと時の休息も与えたくない様子である。ニュースを見ても、呆れ果てるような事件ばかりが起き、汚職がはびこり、国全体がまるで無法地帯と化したような印象を受ける。

我が国の自殺未遂者の数は、公式発表によると、年間53万人に達していると言われる。そうなるのも無理もないという実感を筆者は抱いている。日常生活においても、日本人の美徳が失われているのを見る。礼節、誠実さ、思いやりといったものは姿を消している。不法がはびこり、感性の鋭い人であれば、耐えきれないだろうと思うような劣悪な事象によく遭遇する。

このところ、筆者は、日常のあらゆる好ましくない問題が、特に、週末や連休を迎える前の日々に集中して起きていることに気づいた。それはやはり人々に片時も休息を与えまいという悪意のもとに引き起こされているものと考えられる。

暗闇の勢力は、月曜日から金曜日まで数多くの人々を馬車馬のように働かせて自由を奪い、疲弊させた上、土曜日、日曜日になっても、まだ生活の不安から抜け出せないように、がんじがらめに縛るために、ことさらに金曜日に悪しき事件を引き起こしたりしているものと見られる。

あるいは、筆者が、何かのことで思い煩っていたとしても、ふと思い煩うことの無益に気づいて、その地上の出来事への思いを振り切って、気分を変えようと、外出したりすると、早速、望ましくない連絡が入って来たりする。

このようなことも、信者に休息や自由を与えず、絶え間なく思い煩いの中に沈ませようとする暗闇の勢力からの妨害なのだと気づかされる。

そうしたことに気づいてから、筆者は、ことさらに、煩わしい事件について、一切、その悪印象を事後に引きずらないことに決めた。特に、休日をつまらない地上的な出来事に対する思い煩いで浪費したりしないよう、十分に気をつけている。

むろん、地上で何も起こらないがゆえに呑気でいるというわけではない。考えられもしないような、呆れ果てる出来事が、数多く、予想もできないタイミングで、起きて来るのである。

だが、筆者はそれがいかに存外のものであっても、軽く受け流し、人として自然な反応を返し、しかるべき最小限度の対処をするほかは、全く気に留めないことに決意した。

たとえそれが筆者自身とその生活を直撃するような威力を持つ可能性のある事件であっても、気にしないことに決めたのである。なぜなら、神が「思い煩うな」と命じておられるからである。

明日のことは思い煩うなと。明日自身が思い煩うであろうと。

だから、随分前から、筆者はそういう心配を投げ捨ててしまった。
 
たとえヨブのように、突如として数多くの方面から、あり得ないような災いの報告を聞かされたとしても、筆者は、思い煩わないことに決めたのである。

ヨブの態度はまことに潔かった。

「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな」

そして、それ以上、地上のものに全く執着しなかったのである。

筆者の場合、神は筆者に関わる多くのものを守って下さっているため、ヨブのような試練には達してはいないし、同じことは起きないであろう。だが、そうは言いつつも、筆者の歩みも、ちょっと大袈裟かも知れないが、だんだん、砲弾の炸裂する只中を歩くのにも、似て来ている。

ある日には、主の深い憐れみを見たかと思えば、次の日には、悪魔の激しい憎悪と歯ぎしりの音を聞くといった具合に、何も事件が起こらない日がないのだ。
 
だが、筆者は悪魔の歯ぎしりには耳を傾けないことに決めた。

悪魔は、このところ、人間が正常な理性では到底、耐えられないようなナンセンスな事件を連続して引き起こしては、人々を絶え間なく消耗し、悩ませるようになってきている。人々に思い煩いの果てに、死へ向かわせることが狙いなのである。だから、そういうものにもし信者が真面目に取り合っていれば、理性が持たなくなるだけだと早く気づかねばならない。

世が引き起こす歪んだ事件には注意を払わないことである。何よりも、そういったことに責任を負わないことだ。何のせいで起きたのかもなど問わないことである。地獄から来た事柄は、地獄の責任なのであるから、地獄へお帰りいただくのがふさわしい。

それよりも、神の憐れみ、神の慈しみ、神の愛に目を向けることだ。神の完全さがあなたの信仰を通じて、この世にどのような解放的な影響を及ぼし、あなたの願いを神がどれほどきめ細やかに知って下さり、満たして下さろうとしているか、そこにのみ目を向け、期待することである。
 
悪意ある事件は、世には毎日、起き続けている。だが、それが自分に関わろうと関わるまいと、可能な限り、そこへ思いを向けないことである。
 
それよりも、神の憐れみをまっすぐに見つめ続けることだ。たとえ悪魔が目の前から光となるものをすべて取り去ったとしても、神の愛、神の憐れみ、神の最善だけをひたすら見つめ続けることだ。

そうしていれば、本当に恵みが雨のように降って来るのを見ることができる。どんなに不安に囲まれているように思われてもだ。

だから、信者は自分自身の存在そのものを、完全に、神の御手に委ねてしまうのが早ければ早いほど良い。たとえ自分自身を振り返って数々の失敗や落ち度があったとしても、それさえもすべて丸ごと神に委ねてしまい、神に全幅の信頼を置くことである。

そうするのが早ければ早いほど、信者には消耗が少ない。
 
信者が責任を負っていることがもしあるとすれば、それは悪魔の引き起こす事件の後始末に対してではない。信仰によって天を地に引き下ろすこと、神の御旨を成就することだけなのである。

だから、思いを天に向け、心を軽くし、天の高度を生きることである。すべての思い煩いを捨て、悩みや苦しみを神に打ち明けて荷を下ろし、すべてを主に委ねて、心を軽くすることである。そうして、自分の霊を飛翔させ、天的な高度を生きること。信者が自分の霊と心とを、自由が利く軽やかな状態に保っておくこと、これは信者の信仰生活における霊的統治にとって重要なことである。
 

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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