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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(8)

今年も冬が近づいている。このところ、筆者は特注のクリスマスケーキ作りに忙しい。もちろん、これは比喩であって、本当にクリスマスケーキを作っているわけではないのだが。

筆者は今、書類の山に埋もれ、歳末総決算となる書類を書いているところだ。

こうして文書を作ることは、どうやら筆者の生涯で、避けて通れない仕事であるらしい。おそらく、これが筆者の真の仕事なのだろう。しかし、今年はこれまでに輪をかけて大変な作業であった。ブログ記事を書くための精力も吸い取られ、文章を書く力がほとんど残らないほどだ。

しかし、今年はこれまでにない大きな収穫があったと言える。それは、これまでには、ただ筆者一人だけが、孤独の中で懸命に奮闘して、正義や真実を守るための文書を作成して来たのだが、今年は、その文書の作成を、他の人々が手助し、補ってくれたことである。

それによって、筆者はどれほど肩の荷が下りて楽になったか分からない。

筆者は今年が来るまで、真に聡明な人たちに出会って、彼らの手で、筆者のために、胸のすくような文章を書いてもらったことがなかった。もしもそういうことがあったとすれば、推薦状くらいだったであろうか。しかし、推薦状には、胸のすくような内容は一行も書かれておらず、面白い内容もない。

ところが、困難な事件に遭遇した時に、目に見えない「推薦状」を書いてくれる人たちが現れたのだ。彼らは、きっと自分たちがそんな重大な役目を果たしたとは、夢にも思っていないかも知れない。しかし、彼らは、ちょうど痒い所に手が届くように、筆者が言いたくても言えなかった言葉を代弁してくれたのだ。頼んだわけでもないのに、まさに心の中を見通したかのように、今、筆者が最も必要としていることを言い当ててくれたのだ。

こういう文章を読み聞かされるとき、生きていて良かったとでも表現するしかない、何か深い感慨が心の内側に込み上げて来る。自分によく似た人間を見つけ、理解者を得た、という感慨のようなものか。

筆者はこれまで言葉の世界に生きて来たため、常に言葉を通して、相手の人格や、心の内を確かめることに慣れている。多くの人は、外見を見て人を判断するのであろうが、筆者は、まるで目を閉じて、暗闇の中で、声だけを頼りに人を判断するように、人の発する言葉の内容を通して、その人の人柄、生き様を確かめる。

もしかすると、究極的には、初めから最後まで全く互いの姿を見ずとも、言葉さえあれば、かなり深いレベルまで、その人を理解することができるのではないかと思う。学術研究などでは、そのように時代を超えて、姿を見ることもできない人物を深くまで理解する力は助けとなる。
 
しかし、筆者の孤独は、そのような方法で、共通理解に達することのできる人がなかなかいないことであった。耳を澄ましても、賢明かつ品位ある言葉はほとんど聞くことができない。聞こえて来るのは、虐げられている人、苦しんでいる人がいても、これを踏みにじり、罵り、嘲る言葉ばかりで、彼らを救うために、必要なタイミングで、権威ある言葉が発せられるのを聞いたことがなかった。

ところが、そのような状況がどういうわけか、大きく変わって来たのである。こうして聞こえて来る解放の言葉は、筆者にとってはまるで音楽である。

筆者が自由と解放を求めて言葉を発すると、その言葉が、水面に広がる波紋のように、目に見えない形で世界に影響して行き、虚空から、こだまのように言葉が返って来る。

その言葉が、筆者の言葉と同じように、自由と解放を求める言葉であったときの感動は、表現できない。

言葉を介して、同じ考えを共有する者たちの間で、音楽が成立する。言葉と言葉が、まるでフーガのような追いかけっこをしながら、一つの調べになって行き、複数の人間が同時にそれに参加して、一つの音楽を奏で、一つのストーリーを作り上げて行く。黙示録の十四万四千人の歌は、ちょうどそんな感じではないだろうか、と思う。

それはまさに人を解放する福音の調べである。

それは、互いが必死になって自分の言いたいことばかりをしゃべって、互いに押しのけ合うような、攻撃的な言葉ではない。あるいは、自分の方が相手よりすぐれて賢明であることを思い知らせようという意図で発せられる、人を圧倒する言葉ではない。揚げ足取りでもなければ、注意や叱責や非難の言葉でもない。

それは、一つの歌なのである。筆者には考えつくこともできない、非常にすぐれて賢明な言葉が、筆者ではない他人の口から発せられる。ところが、その言葉は、まるで筆者の言葉の続きであるかのように、何の違和感もなく、筆者の言葉となじみ、一つになって行くのである。

こうして、同じ心を持つ人々が集まって、壮大な歌が作り上げられる。

そういう光景に出くわしたとき、筆者は、それまで必死に言葉を紡ぎながら、弱者を守るため、自分を守るために、神の国の権益を、信仰を守るために、文章を書いて来た仕事を、途中で投げ出したくなった。これほど優れた人たちが現れたなら、筆者のすることはもう残ってはいないと、緑の草原に仰向けに寝ころび、そのまま心地よく寝入ってしまいたい気持ちになった。

どう表現すれば良いのかも分からないが、この地上は、隅から隅まで悪人ばかりではなかったのだと、途方もない安堵の念が込み上げて来たのである。

もちろん、だからと言って、筆者は自分のなすべき作業を投げ出したりはしない。そしてもちろん、束の間、少しばかり助けてもらったと言って、誰かを過度に賞賛したり、人間に栄光を帰するつもりもない。

私たちの助け手は神であり、ここで筆者が言及している人々は、あれやこれやの特定の人間ではなく、神がその時、その時に送ってくれる必要な助け手に過ぎない。
 
さて、コメント投稿欄も閉鎖してかなりの月日が経つ。ブログを書いても反響はなくなり、あるのは悪意による中傷ばかりで、真剣な応答が見られなくなって久しい。

かつてあれほど真剣に神を求めて共に歩もうとしていた民は、生活の心配の中で散り散りになり、もはや言葉を交わすこともできない遠い領域にまで去って行った。

各種の抗議文やら、訴えやらは、愚かしい虚偽の中傷を撃退して、自分の権利を守るために、避けては通れない戦いであるから、真剣に書き記す必要があるが、それはあくまで自分の正当な権利を守るために書き記すものであって、それ以外に、何を目的とし、誰のために、何のために、文章を書き続けているのか、誰がそれを読んで理解し、賛同を示すのか、反響もなく、目的がほとんど分からないまでになっていた。

ところが、その作業の最中に、思いもかけないことが起き、筆者が途中まで歌って、疲れて歌いやめようとしていた歌の、続きを歌う人たちが現れたのである。その時、これまでこういう大変な作業を続けて来たことは、決して無駄ではなかったのだと心から感じた。

心理的な負担の大きい文書は、初めからイメージ通りに作れるものではない。芸術作品としての詩や小説を書くことと、論文を書くことは、全く異なる。さらに、論文を書くことと、訴状を書くことは全く異なる。同じ訴えを出すにしても、他人に起きた事件について書くことと、自分の遭遇した事件について書くことは全く種類が異なる。

人は自分にとって重大な意味を持つ出来事であればあるほど、その事件について、冷静に客観的に分析することができなくなる。文才のある人でも、おかしなくらいに、紙の上でしどろもどろに、ろれつが回らなくなる。

そのような大きな心理的負担の伴う作業をこなせるようになるまでには、何年間もの歳月が要るのだ。

その間に、いくつもの試作品を作り上げては、何度も書き直す。最後の最後になって、ようやく人前に出せるような、意味の通る文書が出来上がる。

だが、すでに書いた通り、最も大変なのは、人に認められる立派な形式の伴う文書を書き上げることではなく、心の整理をすることである。自分の遭遇した出来事を客観的に見つめ、自分に起きた事件が、自分のみならず、この社会全体にとって、どういう意味を持つのか、普遍的価値を見つけて、これを引っ張り出して来なければならない。そうして、起きた出来事に意味づけを行うことができた時に初めて、その文章が一人の人間の訴えを超える重みを持ち、万人に対する説得力を持つものとなる。

しかし、そうなるまでに心の整理が必要であり、それには歳月を要する。

かつては司法の場に信仰に関する争いを持ち出すことに反対していた筆者が、司法の場に決着を委ねようとしているのは、皮肉な巡り合わせのようにも感じる。しかし、筆者は、宗教界の中では、決してこのような事件について正しく決着をつけ、これを裁ける人もいなかったであろうと思う。

それは非常に残念なことであり、また、恥ずべき有様なのだが、それにしても、ここには、御子はまず真っ先にユダヤ人の救いのために地上に来られたのに、選民たちの心には彼を受け入れる願いがなく、パウロがユダヤ人に伝道したのに、ユダヤ人に拒絶され、異邦人伝道に回ったと同じようなパラドックスがあるように思う。

筆者は、クリスチャンであるが、ある意味では、かなり長い年月、この世に足をつけて生きて来た人間であり、宗教界で純粋培養された信者ではない。その筆者が、若い頃から様々な文書を作り続けて来た人間であることも、決して偶然ではあるまいと考える。

司法の場での争いの形を取っているが、その本質は、異端反駁であると筆者は感じている。

さて、カルト被害者救済活動は、これまでキリスト教界の争いを、先手を打って、司法の場に持ち出すことで、クリスチャンを脅かして来た。多くの人々は、訴訟で訴えられること怖さに、この運動の支持者から恫喝されると、たちまち反対して声を上げることができなくなった。

しかし、筆者は今、その恫喝の手段を、敵から奪ったのである。

やたら裁判という言葉を振りかざしては、クリスチャンを脅し、罪に定めようとして来た勢力の手から、司法という手段そのものを取り返したのだ。

すると呆れることに、かつてはあれほど裁判、裁判と叫んで、牧師たちやクリスチャンを非難していた人たちが、自分ではまともな文書一枚、書けなかったことが判明した。

何ということであろうか。一体、教界の中には、なぜこのようなこけおどしのレベルの恫喝に、毅然と立ち向かえる人が、一人もいなかったのであろうか。

筆者は今、自分が行っていることを、ハマンを訴えた王妃エステルの所業になぞらえるが、果たして、教界にはこの出来事の重さを理解している人々がいるのだろうかと思う。

人里に熊が下りてくれば、捕獲せねばならない。そうでなければ、里に住む人々の生活が脅かされる。熊が可哀想だなどと言っている場合ではない。小熊くらいなら、まだ命は助けられるかも知れないが、野生の親熊を野放しにしておくわけにはいかない。動物愛護法も、人間のために作られたものであって、人間を犠牲にしてまで、野生動物を助けることを目的とはしていない。人里において、野生の熊と人との生活は併存し得ない。

同様に、クリスチャンは、暗闇の勢力に対しては毅然と立ち向かわなければならない。そして、これを勇敢に撃退して、自分たちの生活の安全を守らなくてはならない。ところが、今やどうだろうか。人里には野生の熊が溢れ、人々はやられ放題、それどころか、人里にいる人間が、普段から戦争し、憎み合い、殺し合っている有様なので、彼らは熊を見ても、これを排除するどころか、どうやって熊をうまく利用して、嫌いな人間を始末できるかなどと考えている有様である。

彼らは、内心、自分の憎む同胞をかみ殺してくれた熊には、勲章を授けたいほどなのだが、大っぴらにそうとは言えないので、動物愛護法などを持ち出して、脅かされ、傷つけられ、殺された熊のために涙を注ぎ、塚を作っている。それでいながら、熊にかみ殺され、傷つけられた人間のためには一滴の涙も流さない。

このようなものは、「人里」の生活ではないだろう。このようなものは、人間の暮らしではない。人間が獣のレベルにまで堕ちてしまったのだ。ここまで堕落した倫理道徳を、どうやって引き上げ、回復できるのか。こんな「人里」を、そもそも「熊の脅威」から守る必要が本当にあるのか。

しかし、それでも、教会は、神がご自分の瞳のように愛される、神の聖なる花嫁なのである。ゴリアテが大暴れして、神を穢す言葉を吐いているときに、神はこの地上をあまねくご覧になって、そこに誰か一人でも、神の御名の永遠に揺るぎない権威であることを確信して、信仰によって、勇敢にゴリアテに立ち向かう人間がいないかを探し出される。そうして選び出されて来るダビデは、いつの時代にも、まだうら若い未熟者で、誰から見ても勇士と呼ばれるような偉大な存在ではない――。

今日、キリスト教界がどれほど弱体化したか、どれほど倫理を失ったか、どのような恐ろしい内紛に陥ったか、そんなことは、神がご自分の花嫁たる教会――エクレシアーーをご覧になられる際には、全く関係ない事柄なのである。

そういう腐敗堕落にばかり目を留めてはいけない。神はバアルに膝をかがめない勇者たちを、いつでもどこからでも選び出して来ることがおできになる。

私たちは、御名を掲げる主の民であるから、その中から、神の国の権益のために、主の民の権益を守るために、暗闇の勢力に対して、勇敢に立ち向かう新しい人となる必要がある。

敵が手にしている武器を奪還し、敵の名の記された旗を引き下ろさなければならないのだ。

筆者は本年になってから、その手法を少しずつ学んだ。そのおかげで、今や敵軍は、自分たちの名を冠した旗を恥ずべきもののように降ろし始め、遁走態勢に入っている。

私たちは、彼らが私たちの名を奪い、私たちの存在を奪って、歴史を彼らにとってのみ都合よく書き変え、私たちの存在を地上から消し去ろうとしたことに対し、全力で抵抗し、敵のやり方を逆にして、彼らに攻撃をしかけ、彼らの名を奪い取って消し去り、彼らの武器を奪い取って我がものとし、彼らの改ざんした歴史を、我々にとっての真の歴史(His-story)に戻すために、勇敢に戦ったのである。

私たちは常に、我々人間の目から見た歴史ではなく、神がこの地上をどうご覧になるかという歴史を、追求し続けている。

神が御子の命と引き換えにしてまで贖われたのは、野生の熊ではなかった。神は悪魔と暗闇の勢力を惜しまれたがゆえに、地上に御子を送られたのではない。神は人間を惜しまれ、人間を救うために、ご自分の独り子を十字架にかけられたのである。

今日、神がご自分の民と認識しておられ、瞳のように守っておられるのは、十字架に敵対し、贖いを否定し、神を穢す言葉を吐き続けている旧創造ではない。

私たちは、自分が、神が御子の命と引き換えにしてまで贖われた民であることを自覚し、キリストの血の代価が支払われた民であることを自覚し、その価値をもっと惜しまなければならない。そして、自分が何者であるかをきちんと自覚して、その尊厳を守らなければならない。

私たちは、くつわをかけて引き回さなければ言うことを聞かない愚かな家畜や、捕獲されるべき荒々しい野獣ではなく、上品で、つつましく、教養があって、礼儀正しく、何が正義であり、真実であるかをわきまえ、御心に忠実に従うことのできる花嫁であり、御霊に導かれる民なのである。

しかし、御霊に導かれる民としての品格が、今、主の民の中にどれほど残っているであろうか?

いずれにしても、荒くれ者たちは、人里から去って行かねばならない。そうして、荒れ果てた庭は、花々が咲き、人々が行き交い、小鳥たちが歌う楽しい園が回復されなければならない。

筆者自身も、危ういところまでは行ったが、少なくとも、自分の名を敵に奪われることなく、取り返すことはできた。たとえ賛同する者が誰もおらずとも、これは神の教会を、暗闇の勢力から奪還し、キリストの花嫁としての尊厳を回復するために、なくてはならない戦いなのであり、主の民が、命をかけて戦い通さなければならない信仰の歩みの一歩なのである。

筆者は2009年に「キリストの十字架以外に救いはない!」と題する記事を書き、カルト被害者救済活動のむなしいことを訴えたが、その後、もしもその筆者が、自分の掲げていた御名の記された旗をあっさり降ろしてしまえば、筆者の証しは、本物ではなかったことになろう。

それでは、筆者の救いも、本物ではなかったことになろう。

そうなれば、筆者の名は、インターネット上だけでなく、命の書からも抹消されることであろう。人前で神を拒む人間を、神も拒まれるのだから。

そこで、筆者は、神が今日も生きて力強く働かれ、ご自分の愛する民を力強く守って下さり、ご自分の愛する子供たちを、この世の終わりまで見捨てず、共にいて下さり、助け、支えて下さることを生きて証明せねばならない。

しかし、その戦いの中で、いわゆるクリスチャンを名乗る人々ではなくて、この世の信仰を持たない人々が果たした役割のことをもきっと忘れないだろう。

だが、信仰があるかないかに関係なく、私たちは、すべてのものがひざをかがめ、キリストに服従する時が来るまで、この地上に、御名の権威を記した旗を立てるために進軍している。すべての目に見えるものが、目に見えないキリストの御名に服するときまで、十字架を貫き通すことが、私たちの戦いなのである。

その中で、私たちは、ただ自分の生存を保ち、支えるというだけではなく、主の民の霊的状態を整え、貧しく、荒廃した今日の民の状態を、回復するという役割を与えられている。

それが今日の祭司としての役目である。熊の脅威が取り除かれれば、人里の復興という課題が待ち構えている。しかし、それとて、私たち一人一人が、キリストにある新しい人として、命の御霊の路線をどう生きるかにかかっている。

キリストの花嫁たる教会の回復は、私たちの内なる尊厳の回復と密接な関係がある。落胆することはない――試練が大きければ大きいほど、その中で与えられる慰め、栄光も大きいからだ。どのような試練があろうとも、最後まで御言葉に固く立って信仰を守り通した者には、命の栄冠が待ち受けている。御霊の内なる油塗りが、私たちの心の内側に、高貴な花嫁としての人格を形造ってくれるだろう。

試練が、一人一人の信者の内側に、キリストの人格を、痛みと共に彫り刻んで行く。しかし、まさにその彫刻がなされている最中には、私たちは痛みしか感じず、それが一体、何のためであるのか、どのような実を結ぶのか、理解もできないことであろう。しかし、すべてを忍び通した後には、思いもかけない栄光が待ち受けていることと思う。それは、私たちの内側に、主の花嫁にふさわしい高貴な人格が造られることである。

外面の回復ではなく、内面の回復という新たな局面に、私たちは差しかかっている。このことについてはまた追って書いていきたい。

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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(5)


 夕べに田園風景の中を散歩すると、コスモスが見事に風に揺れていた。日暮れが早くなったので、我が家の動物たちとの散歩時間も早めねばならない。もうしばらくの間である、こうして静かに散歩できるのも。あと少しすれば、寒い冬がやって来る。

上記の写真は、鎌倉に住むとある(信仰にある)兄弟が生前、筆者を植物園に案内してくれた時のものだ。この兄弟は、夫人に先立たれ、筆者が仕事や人生で色々な困難にぶつかり、信仰の交わりのために連絡を取ることを控えていた間に、いつの間にか天に召されていた。

それまでの間にも、その兄弟はいくつもの大病を患い、何度も生死の境をさまよいながら、夫人に看病され、支えられ、何とか命を取り留めていたが、その夫人の死後、一人で地上に残されても、まだ元気そうな顔を見せてくれていたのは、筆者のための神の憐れみであったのだろうかと思い巡らす。

もしも筆者が、あの頃、この兄弟をもっと必要として、しばしば連絡を取って、もっと多くの回数、交わりに呼び出していたならば、神はもう少しの間、この人を筆者の必要のために、地上に残しておいてくれたのだろうか?

何しろ、そう考えても不思議でないほど、この夫婦はどちらもが地上に未練というものがなかった。ただ人のために役立つこと以外には、自分自身のためには、この地上で何一つ要求するものも、し残したこともないというすがすがしい人生を送る人たちだったのである。ある意味で、非常に恵まれた環境を生き、多くの人々が地上で執着するような事物には、全く関心がなかった。

だから、彼らは、身近に彼らを必要とする人がいなくなると同時に、ただちに天に召されて行ったのだという気がしてならない。多分、筆者が彼らにとって、地上に残るための最後の必要だったのではないかと思わずにいられない。

さて、我が家の小鳥のヒナたちは、朝から晩まで騒がしい。まるで赤ん坊の世話のように手が抜けないが、何羽もの小鳥が、けたたましく鳴きながら、大きな口を開けて飛びついて来るのを見るのは、何とも言えない喜びであり、愛らしさである。
 
鳥には春と秋に産卵期があるが、鳥のヒナを育てるならば、春でなく秋がお勧めだ。なぜなら、日本の夏は、素人には気温の調節が難しいからだ。特に、猛暑の終わりから秋にかけての気温の変化は、人体にとっても大きな負担だが、小鳥のヒナにとっては致命的な負担となりうる。

小鳥が体調を崩すにはほんの半日あれば十分で、特に成鳥になるまでの一年間は油断がならない。個体差もあるので、他の鳥にとって何でもない変化が、ある鳥にとってだけ大打撃となったりもするのだ。

とはいえ、小鳥がまだ活発に反応を返している間は、多少、具合が悪そうに見えても、処置はまだ十分に間に合うと期待して良い。成鳥でも、ヒナ同様の保温と、強制給餌とで、回復させることができる。我が家には強制給餌用のカテーテルはないが、鳥にまだ食べる力が残っているうちは、挿し餌と同じ要領で対応できる。固形物ではなく、流動食を与えること。とにかく絶食の状態が続かないようすることである。

これまで筆者には、子供の頃から、鳥に関してはさまざまな思い出があり、悲しい別れやつらい失敗談も数多くあった。特に、子供の頃に最初に見た光景は、人間の無知のゆえに、せっかくかえったヒナも育たなかったという悲しい結果であった。

そういうこともあって、多くの愛鳥家たちは、繁殖をこそ重視して、珍しい鳥のヒナをかえすための研究に日夜、心血を注いでいるが、筆者はそのような研究に没頭する気になれず、まだ卵からヒナを返し、無事に全羽を育て切る自信がないため、巣箱を入れる気にはなっていない。

来年には文鳥よりももっと高価な鳥たちの間で、新たに愛らしく美しいペアが生まれるだろう。新たな学習のチャンスで、美しい色の羽を持つ貴重なヒナたちを育てようと思えば育てられる。そろそろ、巣箱を入れることも、考えてみようか。文鳥あたりから始めるのが良いだろうか。そう思いめぐらしながらも、まだ決断がつかないでいる。

* * *

最近、霊的な戦いにおいて、一つの大きな山場を超えたことがよく分かる。多くの人たちが、まるで正気を取り返したように、最初から至極まっとうなものであった筆者の意見に、大きく頷いてくれるようになった。

一体、この国はもう滅びるしかないのだろうかと幾度も考えたが、崖っぷちのようなところで、何とか正気を取り返し、踏みとどまっている現状だと思う。これから、ここまで退却させられたすべてを押し戻さなければならない。
 
筆者は人からの理解や賛同を求めているわけではないが、主が送ってくれる援軍はとても心強い。その一言一言に勇気づけられ、心の尊厳を回復し、心を奮い立たせることができる。

だが、気は抜けない。最後の決戦までの大詰めの準備作業が残っているからだ。神は筆者にこの準備のために必要な期間をわざわざもうけて下さった。誰も知らないが、予定が先送りされて猶予が与えられているのは、理由のないことではない。

主のために、教会を守るために、公然と訴えを出せる立場にいながら、生計を維持するために、その作業を先送りしている人たちがいる。だが、筆者は彼らに言いたい、生計を維持することが、私たちの第一優先課題ではないのだと、真に天の御国の権益に寄与する仕事をすれば、すべてのものは添えて与えられると。生計を維持するためにも、まずは御国の権益のために働くことだと。

実際に、御国の権益拡大のために種を蒔くことが、私たちの地上における生存を豊かに保つための最大の秘訣なのである。この原則は、私たちが地上に生きている限り、決して変わらない。だから、勇気を奮って、この原則を試してみることをお勧めする。真に神に喜ばれる仕事を第一とするならば、生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、筆者が鳥を好きなのは、地に足をつけない(根差さない)生き物だからである。

天高く、空高く、わしの翼のように、翼をかって、復活の命の統治の中を生きていきたいと願う。そう考えながら、ふとイザヤ書の第40章の節を思い出して、御言葉を調べると、何とタイムリーな内容ではないか。

この一章は今、まるで詩のように筆者の心に響いて来る。そうだ、主の回復の時を告げる幸いなニュースが、今、筆者の耳元にも聞こえて来ている。まだ何事も起こらないうちから、麗しい音楽のように、その調べが耳元に届くのである。

まるで訴えを出した人が、正義の判決文が読み上げられる瞬間を待ち望むように、筆者は、主の深淵な取り計らいに、その解放を告げ、自由をもたらす宣言に耳を澄ます。まことに草のようにはかない筆者の存在を、神は御心に留めて下さり、筆者の受けた他愛もない苦難のために、大いなる慰めを与えて下さったのだ。

そこで、筆者は羊のように神の懐に抱かれ、その腕の中で安らぐ。神は乳飲み子のような羊さえ、傷つけることなく優しく導かれる。万物の創造主であるからこそ、私たちすべての被造物の弱さと、そのしかるべき取扱いを心得ておられ、一つの命も絶やすことなく、私たちの呼び声に耳を傾け、適宜、助けの手を差し伸べて下さることができるのである。

自由を告げる福音が、今、私たちの耳に届いている。今日が恵みの日、救いの日である。解放の宣言に耳を澄まし、これを受け入れる人は幸いである。私たちを囚われ人の立場から自由にして下さった、大いなる主の御名の前に畏れかしこみなさい。主の御名を誉めたたえなさい、エルサレムよ、あなたの苦難はすでに終わったのである。
 
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。


こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。

主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。 見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。

それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。

あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。

彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。

聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。

目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。

ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

このイザヤ書の御言葉に、主よ、本当にその通りです、と、筆者は心から言うことができる。

我が主よ、あなたは私が弱った時に力を与え、私に勢いのない時に、強さを増し加えられました。私が若くても弱り、疲れ、倒れ果てそうになった時、あなたが私を支えて下さり、新たなる力を与え、わしのように天高く舞い上がる力を与えて下さったのです。

だからこそ、誰が私を見捨て、裏切ろうとも、どれほど援軍が少なくなろうとも、どれほど数多くの誤解が生まれようと、そんなことには一切、関係なく、私は頭を上げて、あなたのお与え下さった義と聖と贖いに立って、あなたと共に大胆に前進し続けることができたのです。そして、あなたは地上のどこからでも新たなる援軍を、私のために呼び起こして下さることができました。そのことを私はこの目ではっきりと見たのです。

そこで、私はあなたの民でない人々に助けを乞うことは金輪際しますまい。主の民が、異邦の民に助けを求めるのでなく、異邦の民が、主の民に仕えるのです。私の助けは、ただあなたお一人からやって来るのです。
 
我が主よ、あなたがおられるからこそ、今、私は自由であることができるのです。あなたの知恵に満ちた深淵なお取り計らいに、私は心から感謝せずにはおれません。あなたのはかり知れない知恵とご計画は、私の理解を超えているとはいえ、私は自分の訴えがあなたに顧みられていないとはもう申さないことでしょう。私の道があなたに隠れているとも申し上げません。

どれほど私の道が不確かに見える時であっても、主よ、あなたが私の同伴者である限り、あなたは必ず、目的地まで正しく私を導いて下さることがおできになると、私は確信しています。私のこの言葉は、信仰による宣言としてこの先も私の人生に残り続けるでしょう。あなたが私の決意を心に留めて下さり、私を最後まで御言葉の内に保って下さいますように。

我が主よ、私は頭を垂れて言います、あなたこそ、私たちの期待に応えて下さることのできる方、あなたこそが、私たちにとっての真の解決であり、助け手であり、希望なのです。あなたは私たちの期待を決して裏切られることのない方です。私たちを失望に終わらせない方です。どうか、あなたにふさわしい大いなるヴィジョンを、この枯れた骨のような、死んだような民にお与え下さい。

そして、私たちが、もう一度、生きた者として立ち上がり、あなたの大いなる御名に、栄光を帰する存在となりますように。あなたの御名にのみ、栄光が帰されますように。地上のもろもろの事物、すべての生きとし生けるものたちが、こぞってあなたの御名を讃え、あなたに服し、あなたに感謝を捧げますように。

栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く (2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。
 
これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。
 
最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。
 
信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。
 
信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。
 
さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。
 
筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。
 
筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。
 
今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。
 
かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。
 
もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。

主にお会いできるうちに主を尋ねよ


  さあ、かわいている者は 
 みな水にきたれ。
 金のない者もきたれ。

 来て買い求めて食べよ。
 あなたがたは来て、金を出さずに、
 ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

 なぜ、あなたがたは、
 かてにもならぬもののために金を費やし、
 飽きることもできぬもののために労するのか。

 わたしによく聞き従え。
 そうすれば、良いものを食べることができ、
 最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

 耳を傾け、わたしにきて聞け。
 そうすれば、あなたがたは生きることができる。
 わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
 ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

 見よ、わたしは彼を立てて、
 もろもろの民への証人とし、
 また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
 
 見よ、あなたは知らない国民を招く、
 あなたを知らない国民は
 あなたのもとに走ってくる。
 
 これあなたの神、主、
 イスラエルの聖者のゆえであり、
 主があなたに光栄を与えられたからである。

 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、 
 主を尋ねよ。
 近くおられるうちに呼び求めよ。

 悪しき者はその道を捨て、
 正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
 そうすれば、主は彼にあわれみを施される。

 われわれの神に帰れ、
 主は豊かにゆるしを与えられる。

 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
 主は言われる。

 天が地よりも高いように、
 わが道は、あなたがたの道よりも高く、
 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
 地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
 種まくものに種を与え、
 食べる者にかてを与える。

 このように、わが口から出る言葉も、
 むなしくわたしに帰らない。
 わたしの喜ぶところのことをなし、
 わたしが命じ送った事を果たす。

 あなたがたは喜びをもって出てきて、
 安らかに導かれて行く。
 山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、
 野にある木はみな手を打つ。

 いとすぎは、いばらに代って生え、
 ミルトスの木は、おどろに代って生える。
 これは主の記念となり、
 また、とこしえのしるしとなって、
 絶えることはない。

(イザヤ第55章)

幸いなことよ、主に身を避ける者は


人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
主がその手をささえておられるからだ。

<…>
正しい者の口は知恵を語り、
その舌は公義を告げる。
心に神のみおしえがあり、
彼の歩みはよろけない。

悪者は正しい者を待ち伏せ、
彼を殺そうとする。
主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、
彼がさばかれるとき、彼を罪に定めない。

主を待ち望め。その道を守れ。
そうすれば、主はあなたを高く上げて、
地を受け継がせてくださる。
あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

私は悪者の横暴を見た。
彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。
だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。
私は彼を探し求めたが見つからなかった。

<…>
正しい者の救いは、主から来る。
苦難のときの彼らのとりでは主である。
主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。
主は、悪者どもから彼らを解き放ち、
彼らを救われる。
彼らが主に身を避けるからだ。

(詩篇第37編より)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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