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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―主と同じかたちに姿を変えられて行く (2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。
 
これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。
 
最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。
 
信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。
 
信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。
 
さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。
 
筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。
 
筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。
 
今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。
 
かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。
 
もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。

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主にお会いできるうちに主を尋ねよ


  さあ、かわいている者は 
 みな水にきたれ。
 金のない者もきたれ。

 来て買い求めて食べよ。
 あなたがたは来て、金を出さずに、
 ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

 なぜ、あなたがたは、
 かてにもならぬもののために金を費やし、
 飽きることもできぬもののために労するのか。

 わたしによく聞き従え。
 そうすれば、良いものを食べることができ、
 最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

 耳を傾け、わたしにきて聞け。
 そうすれば、あなたがたは生きることができる。
 わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
 ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

 見よ、わたしは彼を立てて、
 もろもろの民への証人とし、
 また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
 
 見よ、あなたは知らない国民を招く、
 あなたを知らない国民は
 あなたのもとに走ってくる。
 
 これあなたの神、主、
 イスラエルの聖者のゆえであり、
 主があなたに光栄を与えられたからである。

 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、 
 主を尋ねよ。
 近くおられるうちに呼び求めよ。

 悪しき者はその道を捨て、
 正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
 そうすれば、主は彼にあわれみを施される。

 われわれの神に帰れ、
 主は豊かにゆるしを与えられる。

 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
 主は言われる。

 天が地よりも高いように、
 わが道は、あなたがたの道よりも高く、
 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
 地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
 種まくものに種を与え、
 食べる者にかてを与える。

 このように、わが口から出る言葉も、
 むなしくわたしに帰らない。
 わたしの喜ぶところのことをなし、
 わたしが命じ送った事を果たす。

 あなたがたは喜びをもって出てきて、
 安らかに導かれて行く。
 山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、
 野にある木はみな手を打つ。

 いとすぎは、いばらに代って生え、
 ミルトスの木は、おどろに代って生える。
 これは主の記念となり、
 また、とこしえのしるしとなって、
 絶えることはない。

(イザヤ第55章)

幸いなことよ、主に身を避ける者は


人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
主がその手をささえておられるからだ。

<…>
正しい者の口は知恵を語り、
その舌は公義を告げる。
心に神のみおしえがあり、
彼の歩みはよろけない。

悪者は正しい者を待ち伏せ、
彼を殺そうとする。
主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、
彼がさばかれるとき、彼を罪に定めない。

主を待ち望め。その道を守れ。
そうすれば、主はあなたを高く上げて、
地を受け継がせてくださる。
あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

私は悪者の横暴を見た。
彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。
だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。
私は彼を探し求めたが見つからなかった。

<…>
正しい者の救いは、主から来る。
苦難のときの彼らのとりでは主である。
主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。
主は、悪者どもから彼らを解き放ち、
彼らを救われる。
彼らが主に身を避けるからだ。

(詩篇第37編より)

私をとこしえに守られる方



私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。(詩篇121:1-8)

我が栄光の望みなる方

オリーブ園より引用、オースチンスパークス著、「牢獄、幻、備え」

「そしてヨセフの主人は彼を捕らえて、王の囚人をつなぐ牢獄に入れた。こうして彼は牢獄の中にいた」。(創世記39章20節)

「そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の牢獄から連れ出した。(中略)パロはヨセフに言った、『私は一つの夢を見た。(中 略)聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ』。ヨセフはパロに答えて言った、『いいえ、私ではありません。神がパロに解き明 かしを与えて下さるのです』。」
「そこでパロは家来たちに言った、『我々は神の霊を持つこのような人を、他に見いだしえようか?』」
「飢饉はエジプトの国に激しくなった」 (創世記41章14-16, 38, 48, 49, 56節)

「フェリクスはユダヤ人の歓心を買うために、パウロをつないだままにしておいた」(使徒24:27)
「私たちがローマに入った時、百人隊長は囚人たちを近衛隊長に引き渡した」
(使徒28:16、欄外)
「イエス・キリストの囚人」(エペソ4:1)

「私ヨハネは、神の言葉とイエスの証しとのゆえに、パトモスという島にいた」
「そして私は大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った、『あなたが見ていることを書き物にして、それを諸教会に送りなさい』」(黙示録1:9-11)


上に引用した節は、神の三人の僕たちの生涯と務めの要約です。彼らの経験が結んだ実は、神の民に対して完全 な方法で命となるためでした。しかし、神の主権的な選びの道はこの三人だけの特別なものではありません。聖書の時代とそれ以降、さらに多くの物語があるの です。聖書の時代の物語では、顕著な例としてエレミヤとダニエルを加えることができるでしょう。

<…>そこに記録されている人々が経験した苦しい道のりは、霊的に飢えている人のためのパンとなるためでしたし、今もそうです。この牢獄は必ずしも文字通りの鎖や投獄とは限りません。この牢獄は病床の場合もありますし、奉仕の地として神に定められた場所で経験する一人ぼっちの孤独である場合もあります。また、神の僕が経験する拒絶や追放である場合もあります。それは、力づくで追放する人たちの偏見、盲目さ、妬み、霊的狭量さのためです。その多くの場合について、それは「神の言葉とイエスの証しのため」であったと言えましたし、今もそうです。

このような「監禁」にはいくつかの特徴がありますが、それを書き記すことは有益でしょう。もちろん、全体的に言って、私たちは神の統治の確かさを確信する必要があります。 ただしこれは、そのような監禁が当事者のわがままで自分勝手な不従順な道のせいではなく、ヨナが陥った苦境の類でもない場合に限ります。この監禁は人の弱 さや過ちのせいだったかもしれませんが、それでも神はあらゆるものにまさって偉大な方であり、彼に対する真実な心が本当にあるなら、彼はすべてのことを御 旨にかなうものに転じることができるのです。「ご自身の御旨の御計画にしたがってすべてのことを行われる方」

困難で耐えられないように思われる状況のとき、その問題を引き起こした原因かもしれない間違いや過ちを反省する余地が往々にして大いにあるものです。 「もし」と惨めな気持ちで反省します。「もしパウロが皇帝に上訴さえしていなければ!」「もしヨセフがポティパルに主人の妻が実際に行ったことを話してさ えいれば!」。この類の反省は尽きることがありません。「かりにもう一度やりなおせたなら、別の行動で問題の大半を避けようとするだろう」と考えない人は ほとんどいません。

私たちは特別な罪のことを言っているのではなく、「過ち」について言っているのです。(筆者追 記:神に対して私たちが意図的に反逆した結果、もたらされる苦しみは、キリストのゆえの受難ではありませんし、それをまるで信仰ゆえの受難のように見せか け、手柄のように美化すべきではありません。たとえば、わがままで放縦な生活を送った結果、生活が荒廃し、人の信頼を失って、孤立したり、家庭に罪が入り 込んだ結果、家庭が崩壊したり、また、自暴自棄な思いや、過度な身体の酷使の結果、健康を損ない、病に陥ったとしても、それはキリストのゆえの受難ではあ りません。人が受難のように見せかけて誇っている「苦しみ」の中には、往々にして、ただ罪の結果でしかないものが混じりこんでいます。

しかし、真に神に従うために歩んでいるキリスト者も、不注意と愚かさゆえに、気づかない過ちを往々にして犯しています。いや、神に従うことを最優先するが ゆえに、キリスト者はあえて「空気を読もう」とはせず、世間の歓心を買おうとしないところに、一つの落とし穴があります。特別な苦難がやって来て、打撃に 打ち倒され、周囲の人々が私たちを名指しで非難しながら去って行く時、私たちは自分があまりにも「空気を読めなさすぎた」ことを思い出すかも知れません。 時代の悪しき空気がすぐそこまで迫って来ているのに、楽観的に警戒を怠っていたのではないか、もしくは、神の与えて下さる恵みを得意満面に誇りすぎたため に、人々の余計な妬みを買ったのではないか、もしくは、神に対して「魂の愚かさ」や「血肉の思いから」、「熱心でありすぎた」ゆえに失敗したのではない か、などと考えるかも知れません。逆境を通して神の与えられる沈黙の中で、自分の浅はかさ、子供っぽさ、不注意などを振り返り、自分は神のご計画に損害を 与えてしまったのではないかと不安にならない人はいません、否定的な事件が自分の身に起こっている時に、自分は完全で全く落ち度がなかったと考えることの できる人はいません!

しかしながら、主に忠実に歩もうとする僕に降りかかる受難はほとんど全て、特に初めの頃は、外的に、自業自得の苦しみとまさに紙一重のようにしか見えない のです。主のための受難であっても、最初からそうと分かるものはほとんどなく、むしろ、そんな出来事ほど、その人の「罪」のために起こっているようにしか 見えないのです。それは、サタンがその機をとらえて、見事なまでに本人に非難が集中するように仕向けるからです。

サタンが大祭司ヨシュアの隣に立って彼を訴えていた光景を覚えておられるでしょう。そのようにして、「兄弟たちを日夜訴える者」は、私たちの受難の時に、 そばにやって来て、盛んに私たちの「未熟さ」や「不器用さ」や「欠点」や「言葉の足りなさ」や「過去の罪」を吹聴し、私たちの尊厳をはぎとり、他の人々 も、私たちに敵意を抱いたり、あざけりの心を持つように仕向けるのです。ですから、その苦難の本当の原因をすぐに見分けられる人は周囲にほとんどおらず、 しばしば、最も身近な友や兄弟姉妹でさえ、原因を誤解し、その渦中に陥った当人でさえも、何が本当の原因であるのかを見分けるために、多くの時間を要する のです。もしかすると、原因は最後までわからないかも知れません。私たちにできることは、ただ神を信頼することだけです。)


過去の罪の問題は、言うまでもなく――今ある光により――繰り返すべきではありません。(私 たちは自分の未熟さや、不完全さや、愚かさが、神のご計画に損害や遅延を与えるかも知れないことに、あまり悠長であってはなりません。「もし~だったら」 と後悔しうるようなことは、可能な限り防ぐべきです。しかし、だからといって、同時に、自分で自分を徹底的に吟味して、完ぺき主義に陥ることが解決ではな いことも忘れてはなりません。私たちは、自分の手に余る事柄が起こっているような時には特にそうですが、自分の全存在を神に委ね、自分に与えられた救い も、受難も、すべては神の恵みによって与えられたという信仰に戻って、改めて、神の恵みに安息する特権が与えられています。)今私たちが過ちだったと見なしている事柄の多くは、その当時有していた最良の光にしたがって行ったものだったのです。これは主権的恵みのために広大な領域を開くものであり、主権的恵みはその仕事に全く等しいのです。

神と神と共なる私たちの歩みの敵は、訴えをもって私たちを激しく批判し、神に対する私たちの信頼を損なおうとします。このように、ある広大な領域が存在し、そこでは御父の理解とあわれみに断固として委ねる必要があるのです

ということで、逆境のもっと慰めに満ちたいくつかの特徴について見ることができます。

1. 神は決して非常事態に見舞われることはありませんし、反対活動で被害を被ることもありません。この事実は上記の事例から明らかです。

(このことは人の行動が神のご計画に何の損害も与えないと言っているのではありません。神が福音を人の手に 委ねられた以上、人の働きは神のご計画の進展と密接な関係があります。しかし、私たちは信じるべきです、たとえサタンと人とが力を尽くして神に反逆したと しても、それによって、神のご計画そのものが打ち破られたり、中断されたりすることは決してないと。私たちは、人の愚かさがどれほどのものであっても、倦 むことも、たゆむこともなく、絶えず御手を働かせる神のご計画の確かさ、揺るぎなさを信頼して良いのです。この永遠のご計画に従って、私たちは天地の基が すえられる前から、愛を持って神に選び出されたのです。)

完全に魂を打ち砕くような経験に対するヨセフの有名な判断は、「あなたたちは悪を図りましたが、神は善を図られたのです」でした。こうして彼は「神は善を図られた」という完全に正当な理由を与えます。パウロとヨハネはこの判断に心から同意するでしょう。

(時として、人間の悪意や、ののしりや、裏切りが、私たちを心底、驚かせ、落胆させ、神のご計画に対する信 頼さえも疑わせるかも知れません。人の犯しうる悪事の深さを見て、嘆き、叫び、言葉を失わずにいられない時もあるでしょう。しかし、神は善であられ、サタ ンと人の悪行を用いてでも、私たちに善を図ることがおできになること、いや、神は私たちにただ最善しか図っておられないという事実を、私たちは信じるで しょうか? 私たちはどんな事柄の中からも、神の善意を掴み取ることができるのです!)

神は彼の僕たちを選んで召し、彼らの心を利己的でこの世的な野心から清められますが、これは彼の予知によります。神はまた、僕たちが神への献身の道で遭遇する出来事をも予知しておられます。ヨブほどひどく困惑させられる経験をした人はいませんが、そのヨブでさえ、「神は私が選ぶ道を知っておられる」と言うことができたのです。(神は私たちの限界をよくご存知であり、たとえ苦難の中で心ひしがれそうになっている時でも、私たちの曲がりそうになった道を根気強く修正することがおできになります。)

人の最大最悪の過ちやサタンの見かけ上の勝利――「堕落」――ですら、神はご自分の道を用意して備えておられなかったわけではありません。その必要が実際に生じる前から、神はその解決策を持っておられました――その解決策とは「世の基が置かれる前から屠られていた小羊」です。神の目的が彼の容認を正当化しました。恵みと栄光が苦しみを圧倒的に超越するでしょう神に予見できないことはありません。「神は万物の主です」(ハレルヤ!)

2. 問題になっている僕が「牢獄」という暗く冷たい孤独な試練を経過している間、彼はその意味がまったくわかりません。せいぜい彼にわかるのは、主は神である ということです。見たところ、彼は断ち切られ、閉じ込められているかのようです。忘れ去られ、人々の裏切り、不忠実さ、残忍さ、移り気のせいで苦しんでい るかのようです――兄弟たちからさえも苦しめられているかのようです。また、人と悪魔の邪悪な軍勢のひどい悪意に苦しめられているかのようです。

ヨセフの場合にそうだったように、重苦しい気持ちが魂をむしばむ可能性があります。苦々しい精神、失望、抑圧、絶望に対する戦いは熾烈かもしれませんヨセフは自分の正当性の証拠である来るべき十四年間、彼の苦しみの成果について何も知りませんでした。幻滅は冷酷な敵でした。なぜなら、悪霊どもは栄誉を受けるという彼の初めの夢をあざけるために、当時の経験を口実として利用したからです。

パウロとヨハネは、自分たちの牢獄から発したものを二千年間にわたって人々が読んで大きな益を受け、そしてそれを獲得するとは、決して想像していなかったでしょう。彼らは後世ずっと続いて永遠にまで及ぶ霊的歴史を形成したのですが、そのことを何も知らなかったのです。

(キリストのゆえの苦難は人々に地上的な栄光をもたらさないかも知れません。しかし、ここに、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)と いう御言葉の意味を見ます。栄光ある御言葉が、私たちのうちで、時を待たずにただちに実際となり、私たちが絶えず順境だけに置かれて、目に見えるものに満 たされているなら、どうして私たちが信仰とは何であるかを学び、私たちのうちに真の望みが宿る余地があるでしょうか? パウロははっきりと言っています、「…目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」(ローマ8:24-25)

ここに患難の中で特別に忍耐と希望とがはぐくまれる必要を見ます。ここに患難を受ける時の私たちの喜びがあります。「な ぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜな ら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:3-5) 苦 難と試練の中をくぐらされる時、私たちの信仰は試され、目に見えるものを頼ろうとする期待は打ち砕かれて、そぎ落とされていくでしょう。しかし、それと同 時に、もはや、朽ちるものによって阻まれたり、害されることのない、真の希望が内側にはぐくまれるのです。御言葉は、私たちの真の希望が決して、失望に終 わらないことを告げています。私たちの真の希望とは、自分自身の何かではなく、地上の何かでもなく、世の罪を取り除く贖いの子羊なるキリストです! そし て、来たるべき時が来れば、私たちはその希望が失望に終わることがないのを実際に見て知るでしょう! そして花婿と共に、その希望が到来した喜びを存分に 楽しむでしょう!)

3. これらの拘禁と明白な制限における主要な要素は、その成果が訪れるのはしばし先のことであったということです。パロの夢とヨセフの解き明かしは、まだ実現していないしばらく先の事と関係しており、完全に信仰によって備えなければならないものでした。神は将来起きることをご存じであり、神ご自身が将来の状況のために準備して備えて下さるのです。逆境の深い暗闇の中、神は何かを行っておられ、「多くの人々を救って生かす」何かを確保しておられるのかもしれません。私たちの今の時代、現在の供給源の貧しさと浅薄さゆえに、「天の幻に従順」であるには大きな代価を払う必要があったこれらの時代の、さらに強く、さらに強力で、さらに心を満足させる務めへの回帰とその再生がなされています

(私は感じずにいられませんが、今この時代にあって、使徒時代がそうであったように、絶えず主の死をこの身 に帯び、朽ちる目に見える世の現象や秩序を圧倒的に超える、キリストの霊なるよみがえりの命によって生き、たとえ燃える炉の中をくぐらされても、害を受け ず、どんなに追いつめられても、「義人は信仰によって生きる」!という事実に立ち続ける人々の一群を、主は選び出し、回復しておられると信じます。パウロ は言いました、

「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事 にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危 機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわ している。

わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生き ており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないよ うであるが、すべての物を持っている。」(Ⅱコリント6:2-10)


<…>すべての人が――生きている間に――その正しさを立証されるわけではありませんが、「逆境の時、神は将来のために準備して備えてくださる」というこの原則は有効です。

それゆえ、イスラエルは兄弟たちの裏切りにも関わらず、その後、数世紀保たれました。これはヨセフが牢獄へ行き、そこで彼の神を立証したからです。

それゆえ、私たちはパウロの手紙の中に彼の牢獄の無限の宝を持ちます。それゆえ、私たちはヨハネのパトモスにおける幻と書き物というかけがえのない富を持 ちます。この書き物に関して、彼らに出来たのは書くことだけでした。そしてこの書き物は――彼らは何も知りませんでしたが――後世の多くの世代にわたって 聖徒たちの食物となったのです。

牢獄。人々の不親切や逆境の到来――のように見えるもの――によって魂が排除されて閉じ込められる時、ただ神だけがその魂の熱い心の動きをすべてご存じです

幻。しかし、そのような時は、「天が開かれ」て霊的に大いに富む時となりえます

備え。そして、その実は霊的飢饉の時、多くの人々に対して命となるかもしれないのです

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Ⅱコリント4:18)


 

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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