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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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荒地から神の庭へと…

 「神の導きにおいては、その人がなしえないこと、時期に合わないこと、あるいはそれをなす力が与えられていないことは、なに一つ要求されない。
あなたを前進させるすべてのものが、きわめて明白な要求、あるいは機会という形をとって、つぎつぎに、しかも正しい順序で、あなたを訪れてくるのである。」
(ヒルティ著、『眠られぬ夜のために』、第一部より)

「僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。人にへ つらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。あなたがたが 知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。」(エペソ6:5-8)

 
「庭が多くの働きをするわけではない。
 花と実をつけるだけである。
 責任をもつのは私たちの庭師である神なのだ。
 神は私たちを祝福し、恵みで満たし、訓練してくださる。
 私たちが望むと望まないとにかかわらず、
 神は働かれる。
 私たちに必要なのは明け渡すことである。
 すると神は、私たちの人生を
 荒地から神の庭へとつくり上げて下さる。
 神はそのように願い、またそうおできになる。
 すばらしいことではないか。」
(コーリー・テン・ブーム)

これらの一連の記事を書いていた当時から現在に至るまで、残念ながら、筆者はまともな労働条件の仕事を一つたりとも見たことがない。

以前、このブログ記事を読んだ「兄弟姉妹」からは、「そんなに苦しんで生きなければならないはずがありません。そんなに過酷な労働条件じゃない仕事が絶対にあるはずです」と説得されたものだ。そして、実際に、「ましな条件」を探し求めたものである。

憲法さえも、「意に反する苦役」を課すことを禁じているように、神は信者に対して意にそぐわない仕事を強制なさることはない。

だから、筆者が一つの仕事に愛想を尽かして、次の仕事を探し始めると、不思議に、願っている方面で新たな選択肢が開けるのであった。

しかし、残念ながら、いくつ新しい選択をしてみても、分かって来るのは、この世の仕事はどれもこれも似たり寄ったりで、嘘と不正と搾取にまみれ、長くは続けられないし、そこに居場所はもうけられない、ということだけであった。

筆者は一つ一つの仕事を心を込めて誠実に成し遂げて来た。だが、その努力も、企業の悪を助長するだけであれば、裏目に出るばかりである。

当初は、「近頃は、正社員になる可能性が少ない」と筆者は嘆いていたが、今は、正社員になどなるべきではないのだと確信している。

正社員という仕組みは、教会とよく似ていて、それ自体が、フェイクなのである。

教会籍というものは、信者が継ぐ天の見えない国籍とは全く意味が違う似ても似つかない偽物に過ぎない。そのようなバッジを身につけたところで、それは世に対してものを言うだけであって、神に対しては何の意味も持たない。

神に対して何の意味も持たないものにこだわり続けていると、やがて悪魔的な結末に陥ることになる。

教会籍というものは、あたかも、地上における教会内での信者の居場所を保証してくれているように見えるだろうが、実際には、教会籍なるものを設けているような地上の団体は、行けば行くほど、より疎外されて行くだけというパラドックスに陥るのである。

救いとも、天の御国とも、実際には何の関係もない、むなしい教会籍という、自己安堵の(いや、奴隷の?)バッジを維持し続けるためだけに、どれほどその団体に信者は貢がなければならないだろうか? どれほど無償で奉仕しなければならないだろうか?

それは「貸与された救い」であると筆者は考えている。貸し出されている救いだから、いつまで経っても信者のものにならず、実質的に、献金や奉仕によって「賃料」を支払わないと、そのバッジは安泰ではないのである。

会社も同じである。
 
「正社員」という奴隷のプラカードを首からぶら下げるという「権利」を獲得・維持するためだけに、終わりなき奴隷的奉仕が延々と求められるのである。奴隷的奉仕、と言うのは、決して過言ではない。なぜなら、無賃で働いている管理職さえいる始末だからだ。
 
そして、そのように悲劇的に自己犠牲して貢ぎ、尽くし続けた挙句に、「あなたはこの団体にそぐう人間でありません」という三下り半が突きつけられて終わることになる。それが、奴隷のバッジを自ら求める人間の辿るお決まりの末路である。

それにも関わらず、人々は「奴隷のバッジ」というこの世の居場所を求めて殺到し、争い、蹴落とし合い、もがき、悩み、苦しむのである。

まるで植物人間になってベッドにくくりつけられ、チューブだらけになるために争っているようなものである。

何のために、永遠でもない無価値なものを得るために、そんな無駄な苦労をする必要があるのか。

もし、信者が庭なら、神が水をやり、育て、花を咲かせるまで世話をして下さるだろう。

信者がしなければならないのは、ただ信仰によって望み、望んだ方向へ向かって身を伸ばすことだけである。それ以上の「何か」は、信仰によるのではない、この世的な努力であるという気がしてならない。

もし「庭」が荒廃しているなら、何かがおかしいのである。

庭を土足で踏み荒らし、実のなる木があれば、勝手に取って食べ、あれが足りない、これが足りないと、上から目線で勝手な要求ばかりを繰り返している人間どもは、庭師ではなく、不法侵入者である可能性が極めて高い。そういう人間は、追い払ってしまわなければ、庭は荒廃する一方である。

まことの庭師だけを、招き入れるようにした方が良い。そうすれば、木は実り、花を咲かせるようになり、庭は美しい花々でいっぱいになるだろう。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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