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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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私を強くして下さる方に…

 「わたしはあなたの前に行って、
 もろもろの山を平らにし、
 青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り、
 あなたに、暗い所にある財宝と、
 ひそかな所に隠した宝物とを与えて、
 わたしは主、あなたの名を呼んだ
 イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。

 わたしもべヤコブのために、
 わたしの選んだイスラエルのために、
 わたしはあなたの名を呼んだ。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたに名を与えた。
 
 わたしは主である。
 わたしのほかに神はない、ひとりもない。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたを強くする。
 これは日の出る方から、また西の方から、
 人々がわたしのほかに神のないことを
 知るようになるためである。」(イザヤ45:2-6)


生きることは、これまで筆者が考えていたような事柄では全くない可能性がある。

世人は日々働き、家庭を設け、行きたいところに行き、食べたいものを食べ、買いたいものを買って、それで生きていると思っている。そうこうしているうちに、老いと死がやって来て、もっとやりたいと思っていたことが閉ざされる日が来る。

だが、どんなに多くのことを望んでも、人が一生のうちに成し遂げられることなどたかが知れている。すべての夢を実現したとしても、行き着くところは知れている。大志を抱くなどと言ってみても、どうせ人間のすることである。偉業と言っても、せいぜい月へ行く程度のことであろう。

だが、そのような常識的で限界だらけのちっぽけな計画の中に、到底、おさまりきらないような可能性が、信仰生活の中には隠されているように思われてならない。そして、もしこのスケールで生きることがなければ、信仰を持つ意味というものも、それほどはないのではないかという気がしてならない。

神はむろん、信者の生活を隅々にまで渡って守って下さるが、そうは言っても、ただ単に信者のちっぽけな生活の「お守り」のためだけに、神が存在しておられるわけではないからだ。

筆者はこれまで、通勤前に雨が止んだとか、買いたかった商品が手頃な値段で手に入ったとか、思っていた通りの仕事が備えられた、などといったことで喜んでいたが、本当は、信仰によって得られるものは、そんな程度のものではない、という気がしてならない。

それらの小さな事柄にも、むろん、神の憐れみと慈しみを見るのだが、それでも、信仰によって生きるとは、そもそもこういうことではない、という気がしてならない。

信仰生活とは、常に生きるか死ぬかのところで、水面上に束の間、顔を出したり、またその下に沈んだりしながら、かろうじて命を保っているから、神よ、感謝です、などというものではない、という気がしてならない。

むろん、弱さの中を通らされ、その中でも、神を信頼して見上げ、神の不思議な知恵によってすべての窮地を乗り越える秘訣を知らされた、という経験が有益なのは言うまでもない。筆者自身、そういう細い道を何度も通らされ、信仰を養われたし、これからも、そのような経験が、なくなることはないであろうと思う。

それにも関わらず、信仰というものが持つ可能性は、そんな程度のものではない、という気がしてならない。そんな程度のことはほんの序の口でしかないのだと。

たとえば、我々は死人がよみがえらされるところを一度でも見たことがあるだろうか? 歩けなかった病人が力強く立ち上がって神を賛美するところを見たことがあるか? 決して、奇跡だけを追い求めるためにこのように言うわけではないが、それでも、信者が「主よ、感謝します」と言っていることの内容の大部分は、あまりにもちっぽけで、あまりにも信仰を要しないことばかりではないのだろうか?

つまり、キリストの復活の命にある支配というものを、もっと大きなスケールで、もっと予想を超えて知りたいと思わずにいられないのである。

そして、それを知るためには、おそらく、信者は自分の思いそのものを押し広げる必要があると思う。常識の囲いを取り払い、神の御心にふさわしいほど、信者は自分の思いから、限界という隔てを取り払わなければならないのである。

筆者は、神が望んでおられるように強くなり、思いを広くし、この世の法則に力強く立ち向かって、生きていきたいと願わずにいられない。それはただ単に持久力や精神力や若さといった肉にあっての強さのことだけでなく、主と共なる霊的な統治の力強さなのである。霊的創造の豊かさ、力強さである。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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