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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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主の慈しみに生きる人を主は見分けて呼び求める声を聞いてくださる

「呼び求めるわたしに答えてください
わたしの正しさを認めてくださる神よ。
苦難から解き放ってください
憐れんで、祈りを聞いてください。

人の子らよ
いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか
むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ

主の慈しみに生きる人を主は見分けて
呼び求める声を聞いてくださると知れ。
おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り
そして沈黙に入れ。〔セラ
ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。」

(詩篇4:1-6)
 
2010年に末尾に記したような記事を書いてから、すでに6年も経ったというのに、その間、この世の経済は全く進歩がないどころか、より問題が悪化•深刻化している。
 
どんな分野の仕事をしているかに関わらず、地上の団体に雇われ、地上の経済に養われて生きること自体が、もう限界に来ていると感じる。

筆者はこれまでどんな時も、神によって養っていただいて今日まで来たが、それでも、キリスト者が天の経済に移行すべき時がいよいよやって来たことをはっきりと霊のうちに感じる。
 
あらゆる企業、組織、団体の「悪鬼化」が進み、この地上の経済は、いよいよ、反キリストの経済圏に統合されようとしているのである。この悪しき堕落した体系の中に残り、その支配に身を委ねれば、希望ある未来を掴むことは誰にもできないであろう。

だから、悪魔に打ち勝ったキリストのまことの命の支配によって、この世を超越した統治の中に生きるべきなのだと思わずにいられない。

さて、筆者は、少し前から、天に直接、雇用されるために、地上の経済の支配に別れを告げ、その支配から外に出ることを決めた。それを公に述べたわけではないが、主が働いて、そのような状況を常に造られるのである。

ちょうど教会をエクソダスしたときに似ている。 悪鬼化した組織にはまだそれなりの責任が残っており、彼らは負債を償わなくてはならないが、いずれにしても、筆者はもうそこからエクソダスせねばならず、つまり、筆者が地上での経済に頼り、地上の経済に支配されることによって、そこから糧を得て、己が労働によって満たされて生きる道は、もう終わりに達したのである。

このことは、筆者の「公生涯」の始まりを意味する。

主イエスが地上でどのようにご自分の必要を満たされたのか、多くのことは分かっていない。だが、確かに言えることは、その備えは天にあった、ということである。筆者も、主イエスや弟子たちと同じように、彼らの生き様にならって、天の父なる神に直接、養っていただく生き方に移行すべき時がとうに来ているのである。

すでに述べた通り、それは教会からのエクソダスにとてもよく似た移行なのである。

筆者は「日曜礼拝のために毎週、教会に通う」ことには大いなる疑問を持っている。多くの信者たちは、それが信徒の務めだと確信しているが、実際には、その日曜礼拝遵守義務なるものは、人間が造り出したしきたりに過ぎず、信仰とは全く関係のない、教会のビジネスのための仕組みであって、聖書の指し示す真理のベクトルとは真逆であると確信している。

主イエスが言われた通り、真の礼拝は、「この山でも、エルサレムでもなく」、信者の霊において、霊と真理によって御父に捧げられる礼拝であるから、礼拝を捧げるために、信者はあちらの集会、こちらの集会を巡って移動する必要はないのである。それなのに、なぜ毎週、同じ教会に通い続けなければならないのであろうか。
 
それをそのままこの世に当てはまると、月曜日から金曜日まで、会社に「出勤して奉公する」という暮らしぶりも、日曜礼拝に通うのと同じくらい、愚かしく、無益で、奇怪なことに違いない、と筆者は思わずにいられない。

ところで、前々から、筆者は満員電車での通勤が大嫌いだった。満員電車に乗っていると、毎瞬のように、どこかの路線で絶え間なく起きるトラブルに遭遇しながら、いずれ首都圏には何か空恐ろしいことが起きるに違いないという不穏な予感がいつもしてならなかった。

何しろ、3.11を経験している。帰宅難民になることの意味も理解しているし、災害時に車内に閉じ込められる危険も分かる。

筆者は、これまで多くの場合、雨からも、台風からも、すべての自然災害から、主によって守られて来た。だが、それでも、もしももう一度、3.11のように悲惨な事故が起きたとき、公共交通機関がストップし、危険な現場に足止めにされた乗客たちは、どこへ向かって逃げるのであろうか、という疑問が起きないことはない。そのようなリスクに自分自身を晒したくない、という思いが常にあった。

筆者は、移動だけでなく、日常のあらゆる場面で、極力、自分の行動と選択の自由を確保しておかねばならないと感じるのである。だから、常日頃から、公共交通機関の利用をできるだけ避けて、可能な限り、自由の効く手段で移動するようにしている。

だが、そうは言っても、最近は、筆者は満員電車の通勤も乗り越え、朝早く起きて、弁当を作って出勤することにも慣れた。 筆者としてはかなり上出来であった。以前にはとても追いつかないように思い、嫌っていたすべての作業をも余裕でクリアし、サラリーマンとして生きる条件を完全に満たしたのである。

だが、そうなってみると、おかしなことに、もはや働く目的がどこにも残っていないことに気づいたのである。

一体、会社に残って何を目指すのか? そこには、何の輝かしい目標も、全く存在しなかった。自分でクリアしたいと考えていたハードルを飛び越えるのには、時間はかからず、そして、気づくと、もう飛び越えるべきハードルが一つも残っていなかったのである。
 
より難しい仕事にチャレンジして、出世を目指す?
 
職場で、上司が言った。
会社に利益が出ない時は、自分は無賃労働していると。

筆者はそれを聞いて耳を疑った。 
幹部が無賃労働している?
そんな会社で、出世を目指すことに何か意味があるのか?
むしろ、昇進すればするほど、ますます希望がなくなって行くだけではないか?
 
さらに、上司は言った。
出張が多く、毎日、家に帰っても、夫や子供たちとまみえる時間がほとんどないと。
しょせん、人生はそんなものだと、半ば諦め口調であった。

筆者は、少し前に、この上司に向かって語ったのである、「人は自己の労働や努力によって自分を支えて生きているわけではない。人が生きているのは神の憐れみである。神様は、蒔くことも刈ることもしない空の鳥や、野の花を養って下さっているのだから」と。

それは、その上司がクリスチャンだと名乗ったので、信仰による生き方をどの程度、知っているのだろうかと尋ねてみたかったのである。だが、その話は通じなかった。

上司は、自己の努力や、労働に頼って生きること以外に、生きる方法があるとは全く思っていなかった。正当な報いさえ支払われないむなしい労働のために、家族を犠牲にし、自分の人生を犠牲にし、会社のエゴを身代わりに背負って、自他を傷つける側に回っていても、何も疑問に思わないのである。

無賃労働のために、どれほど多くの貴重なものが犠牲にされて、自分自身も、自分より弱い者も、ともに踏みしだかれていても、うわべだけの栄誉に心を支配されているため、自分がどれほど割に合わない生き方を強いられているのか、全く理解できないのである。

だから、それを聞いて筆者は、ただ「ご愁傷さま」と、心の中で思うだけであった。筆者はそういう人生を決して送りたくない、これでは全く模範にもならない、と、言葉にはしなかったが、早々に心の中で結論づけずにいられなかった。

筆者には、今手の届くところにいる家族は、ペットくらいなので、子供の面倒をみたり、話を聞いてやったりする必要はないが、それでも、この大切な「家族」を、朝から晩まで置き去りにしながら、粉骨砕身して家の外で働くことには疑問を覚えずにいられない。ただペットが可哀想というだけではない。そんな生活は、一体、誰にとって益になるのであろうか。きっと自分自身をも害するだけであろう。まして、家庭がある人がそのようなことをしていれば、必ず、家庭にそのツケが回ることになる。

だが、おかしなことに、筆者よりも家族がたくさんいて、自分の生んだ子供たちがいて、世話をしてやるべき大勢の人たちが存在しており、本来、彼らと共に幸せな人生を送っていてしかるべき人が、無賃労働のために家にも帰れず、子供たちの話も満足に聞いてやれず、生きた人間の世話もできないというのだから、皮肉な話である。ましてペットなど飼えるはずもないのだと、筆者に向かって愚痴がてら、本音を漏らすのである。

「よく考えてごらんなさいな、そんな人生、何かがおかしくないですか?」

そんな疑問が、のどまで出かかる。

「どうしてあなたはその不自由すぎる人生に疑問を持たないんですか? どうしてあなたにすべての負担を任せきりにして、自分は悠々自適に会社を離れている社長に疑問を持たないんですか? あなたが子供に向き合えないでいるうちに、何か決定的な破局が家庭に生まれるとは考えないのでしょうか? 子供は成人すれば、家を離れるでしょう。今の繰り返せないかけがえのない時を、報いもない労働を通して会社に捧げ尽くすべきだと本気で思いますか? 何よりも、神様は子供たちのために、ペットの一匹さえも飼ってやれないような、そんな貧しい人生しか、あなたに与えて下さらない方だと本気で思いますか?」

…だが、そんなことは、言ってもしょせん無駄であると分かっているので、心の中に言葉を黙って飲み込む。

かつて同じような人たちを見た。やはり、教会の信徒たちである。毎日曜、昼を過ぎても、教会に残り、筆者から見ると、まるで意味のない各種の会議に延々と明け暮れていた。

組織の中に居場所があって、地位があり、それによってかりそめの満足を得て、自己安堵している信者たちには、そのような奉仕が、神にとっても人にとっても、全く無意味であり、むしろ有害だということが分からないのである。

それどころか、彼らは、可哀想なのは、そのように人生の貴重な時間をむなしい奉仕のために奪われている自分たちではなく、教会という組織の中に、地位もなければ、居場所もない、救いを知らない世人の方だと考えるのである。

教会のために多額の献金を捧げ、家庭も置き去りに、無償奉仕に明け暮れているような信者たちが、「自分は救われているのに、世人は救いも知らず、教会に来ることもなく、休日をいいことに自分勝手な時間を過ごして罪に明け暮れているのだから、彼らは全く可哀想だ」と、世の中の人々を上から見下ろして哀れむのである。そして、そのような考えが全く的外れで高慢であり、信仰の産物でもないことに、自分では気づかないのである。
 
企業にいる社員たちもこれと同じである。「自分はこの会社にいて地位も安泰だし、未来の夢もあるが、そうでない人たち、この会社を去った人たちは…」という眼差しで、常に会社を去る人や、もしくは自分ほど高い地位にいない人たちを、上から見下ろして哀れむのである。
 
そのような高慢かつ的外れな自惚れと優越感にすがって自己安堵することでしか、自らの働きのむなしさを隠せない点は、世人も信者もほとんど変わらないのである。要するに、組織における自分自身の「地位」によって、自分の幸福度をはかり、他者を見下すことしかできないのである。

かつて筆者を取り巻いていた多くの「兄弟姉妹」にも、実にそういう種類の人たちが多かった。

彼らは後から自分たちのサークルに入って来た人間に、実に丁寧に世話を焼こうとしたものである。当初、筆者は、年配の信者たちから、色々な事柄について、指南を受けたり、「同情」や「憐れみ」の目線を向けられ、折に触れて、祈りや、助けの手を差し伸べられる時、それが非常に忌むべき巧妙な「ディスカウント」であるなどとは少しも思わず、彼らの関心や支援を喜んで受け入れていたものである。

自分に同情してくれたり、関心を払ってくれる信者たちがいることが嬉しく、それを優しさや愛情の表れだと思っていたこともあった。

だが、今はそれは決して「親切」などではないことがはっきりと分かるのだ。それは非常に忌まわしい優越感からくる他者へのディスカウントに過ぎず、同情を装っただけの自分よりも弱い者に対する一種の「マウンティング」と言っても差し支えなく、しかも、組織に属さず、序列に組み込まれず、神だけに頼って自由に生きようとする正しい人間に対する恐れの裏返しとしての蔑みの感情なのだと。

つまり、彼らはどうしても人間関係の序列の中で、自分の優位を誇りたいのである。それを抜きにして、自分の「安泰」を確認することができないのである。

そうなるのは、おそらく、彼らが自分たちの築いた富や、地位が、嘘と搾取と不正によって築かれたものであり、それが罪であることを無意識のうちに知っているので、自己弁護せずにいられないのであろう。

たとえば筆者のように、彼らより若輩者でありながら、彼らのようにこの世の序列をよすがとして生きない人間を見ると、彼らは無言のうちに、何らかの恐れや、戸惑いを抱くようなのである。

彼らは直観的に、筆者が彼らとは「異質な」人間であることを理解する。そして、そのままではいけないと恐れを感じる。その恐れは、筆者が完全にこの世の序列を離れており、その外に立って、そこから自由であり、自分が他者より「優位」に立っていることを誇ったりしないことから来る効果なのであろうと思う。

現実の筆者の風貌は、まだまだ幼げで頼りなげな若者に過ぎないように見えるものと思うが、それでも、筆者の内には、彼らを上回る権威があって、彼らの支配に屈する必要がなく、彼らのように、序列を争う必要がないのである。

なぜなら、筆者が頼る唯一の権威は、御名の権威であって、他者に対する優位性ではないからである。
 
筆者がその絶対的な権威にのみ頼って立っていることが、彼らに恐れを抱かせ、非常な脅威とさえ映るようなのである。

筆者は自分に経験があろうとなかろうと、知識があろうとなかろうと、若かろうとそうでなかろうと、キリストのゆえに、この世のいかなるバッジの威力も及ばないほど強力なバッジを内に持っており、御名のゆえに、この世の序列と支配の完全に外に立って、権威を持って、この世に向かって命じる側に立ち、奴隷ではなく、自由人として振る舞うことができることを確信している。
 
御名の権威は、この地上の一切の権威を超えるのである。

だが、世人から見れば、そのようなことは決してあってはならない「反逆」である。そのような例外が発生すると、彼らのよすがとしている序列が崩れてしまう。

だから、筆者が何も言わない先から、暗闇の勢力とそれに操られる人々は、何とかして筆者を彼らと同じ序列の中に組み込もうと、懸命に働きかけて来るのである。

すなわち、筆者の色々な「弱み」を探り出して、助けてやったり、同情してやるように見せかけて、筆者を彼らの「弟子」として、拘束して行こうとするのである。
 
そんな時、年長者らは一生懸命になって、自分たちが筆者よりも年上で、人生経験が豊かで、色々なことについて、筆者にアドバイスし、助けてあげられる立場にいるのだという風に振る舞いたがる。そのようにして、自分の優位を強調し、筆者に対して先輩風を吹かすことで、自己のプライドを保とうと虚勢を張るのである。

だが、筆者は、以前とは違って、今やそのような「人生の大先輩」である人たちの「支援」や「同情」や「助言」といったものに、全く何の価値も見いだせず、それをありがたいと思うこともなくなり、ただ黙って通り過ぎるようになった。
 
彼らがそのようにして、常に上に立ちたがるのは、優しさや同情から出たことではなく、自負心から出たものなのである。もっと言えば、優越感であり、支配欲から出たことなのである。

彼らがそのように振る舞いたがるのは、キリストにある自由を全く知らないからである。

だから、そのような人たちに勝ち誇るための隙を与えるべきではないのだ。
 
だから、筆者は以上のような人々から、「可哀想」がられたり、同情されたり、助言を申し出られたりすると、心の中で静かにこう思う、「私にはあなたに哀れまれる理由がありません。神が共にいて下さるからです。あなたこそ、自分を振り返ってご覧なさいな。私よりもはるかに可哀想ではありませんか?」

そして、それは負け惜しみではなく、事実なのである。

たとえば、たくさんの家族があって、家を所有しており、仕事で高い地位を得て、あたかも筆者よりも何倍も恵まれて、キャリアを積み、幸せな生活を送っているように見える人たちがいる。ところが、二言目には、その彼らが、自分たちは非常につらく不自由で貧しい人生しか送っていないことを、筆者の前で告白するのである。三言目を語り出す頃には、彼らはもう誇っていた宝をほとんど失ってしまっている。

筆者にはそのような生き方の末路が見えているので、それを少しも羨ましいとは思えないのである。

そもそも、キリスト者の前で、不信者が地上の富を誇るというのは、非常に罪深い行為である。信仰の無い者が、信仰に生きる者を蔑み、神の子供たちの地上的な貧しさを蔑んだり、勝ち誇るような行為に対しては、相応の報いが降りかからないことはない。

それはまさにエクレシアを蔑むバビロンの驕りだからだ。だから、そのような言葉を信者に向かって語る者は、語っている先から、不幸や、貧しさに向かって落ちて行くことになる。
 
そういうことを、筆者は実際に自分の目で見て来たのである。

だから、筆者は主の民の前で、地上のはかない宝、しかも、神によらずに不正によって手に入れた権力や地位を勝ち誇っている人々を羨ましいとは思わないし、彼らの「貧しい生活実態」について耳にしても、それを意外には思わず、むしろ、「よくぞ語ってくれました。」と思うだけである。

「よく本当のことを言ってくれましたね。それでよく分かりました。あなたには勝ち誇っているような幸福は本当は全くないのだと。私はあなたの惨めな生活を参考材料として、あなたの歩んだ道に倣わず、あなたと同じ悪なる生き方に染まらず、神の御心にかなう、祝福される道を行けるよう努力します。」
 
「そんなにも一生懸命努力しているのに、そこまで報いがないとは、何という悲惨な話でしょうか。あなたはさぞかし、生活が幸せに、豊かになったに違いないと、周りの人からは見えているのでしょう。なのに、あなたの話を聞くと、実態は全くそうではないこと、あなたの懸命な努力が、全く報われていないことがよく分かります。ですから、私はあなたのような生き方はしません。」
  
筆者にとっては、人の奴隷にならずに、神のみを主人として、自由に、独立して生きる以上に、大切なことはない。その自由と独立は、決して目に見える人間の支配に屈することなく、ただ見えない神ご自身にのみより頼んで生きることによってしか保たれない。

そういう意味で、筆者には、多くの人たちが誇るような、地上の頼もしい伴侶も、自分に命令を下す社長も、上司も、何も要りはしないのである。目に見えるものに頼り、目に見えるものの庇護や助けを受けて生きることの結果、何が起きるかは、今までに十分に理解して来た。

神以上に強力な頼みの綱がどこにあろうか。もしキリストさえ共にいて下さるなら、信者に他に何が必要だろうか。それなのに、神に栄光を帰さず、人間の肉なる腕の助けにすがり、人間に栄光を帰するならば、その先に待っているのは奴隷的拘束だけである。
  
もし本当に神に祝福されて生きたいならば、人は神に栄光を帰し、御心を満足させるように、正しく生きなければならない。歪んだ基礎の上に、どんな荘厳な建物を建てても、長くは持たないであろう。

たとえば、疲労困憊するまで働かされるとか、しかるべき給与も支払われないとか、そういった嘘と不正の上に、どんなに輝かしい地位を得たとしても、それが何になるのか。そんな理不尽な条件を強いる地上の悪なる主人のもとで、どんなに苦労を耐え忍んでも、その果てにかなう「夢」などありはしないのである。
 
だからこそ、そういう恐るべき理不尽しか人にもたらさない地の経済からは、エクソダスが必要なのである。
 
だから、以上の上司のような生き様を耳にするとき、筆者には「エクソダスあるのみ」としか思えないのである。

「地上の経済は、とうとうそこまで来ましたか。もうエクソダスしかありませんね。このままここに残っていると、次には心中を求められることになるのでしょう」
 
たとえば、次から次へと社員が辞めて行ったり、辞めさせられて行ったりするのに、その理由さえ、本気で理解しようとせず、何度、同じ失敗を繰り返しても、そこから何も学ぶことのない会社の無謀な経営は、月々寄せられる献金や、信徒数に全く見合わないような、巨大な礼拝堂の建設に邁進し、信徒を搾取している教会と大差ない。

そんな無謀な乱脈経営の果てに、破綻が来ないはずがない。
 
ただ終わりが来るだけであれば、まだ良い。教会債と同じで、企業にも、最後にはきっと借金だけが残るのに違いない。

すでに無賃労働が強いられているのだから、負債を負わされる一歩手前にいると気づくべきなのであるが、以上に挙げた上司のような人たちは、そのことに思いが至らない。 

偽りのユートピアに幻惑されているから、逃げ出すべき危険がそこにあることが分からないのだ。
  
これまでに筆者が見聞きして来た多くの企業の社長は、共産主義者であったが、そこから判断すると、彼らの語る「夢」が、彼らの人生の宝を根こそぎ食い尽くし、タダで巻き上げる詐欺同然のものとなっているのは全く不思議な現象ではない。

その「夢」はもともと悪魔から来た偽りだから、人間を欺くだけで、決して幸せにはしないのである。だから、そういう偽りをモットーとしている団体では、出世しても、出世しても、ますます解放から遠ざかり、義務ばかりが重くなって行き、苦しい人生が待っているだけなのである。
 
そんなところに筆者は居続けたくないし、そんな人々と罪の連帯責任を負わされたくもない。何よりも、そんな組織に未来はない、としか言えない。天のエルサレムを目指している筆者が、どうして地上の共産主義ユートピアなどという偽りの夢を目指す連中と、同じくびきを負うことができようか。

だから、そんな悪しき場所からは立ち去るのみである。罪の債務証書を連帯責任で負わされる前に。
 
「不信者とつり合わないくびきを一緒に背負ってはなりません」とはまさにこのことである。

そういうわけで、エクソダスである。こうして、この世の経済そのものから足を洗う時がやって来たのである。

信じたくない人は信じなくて良いが、この体系はこの先、もっと悪くなっていくだけであろう。

だが、信者には、そんな地上の経済とは異なる、天の経済が確かに存在している。尽くしても尽くしても見返りのない地の恐るべき悪なる主人と、その詐欺師のような主に牛耳られる貧しく不毛な経済に比べ、真実で誠実な主人の支配する天の豊かな経済における信者の雇用は、決して失われることはない。なぜなら、そこが、我々の永遠のふるさとであり、失われることのない永遠の国籍だからだ。

そして、すでにずっと前から、筆者は絶え間なくその天の経済によって養われて来たのである。

地上の経済によって生きようとすると、たちまち道が閉ざされる。自分で自分を養おうと苦労しても、豊かな命にはたどり着くことはできない。

それは順序が逆だからだ。

信者が額に汗して懸命に地を耕し、地に実りをもたらそうと努力するのではなく、地が信者のために、信仰によって、実りをもたらさなくてはならないのだ。

あなたは何という大それた勘違いをしているのか、努力せずに実りをもたらするなど、誰にもできるはずがないではないか、と言う人もあろう。

だが、それは信仰によって可能なのである。

これまで、筆者の人生では、筆者の労働によらず、筆者の努力によらず、筆者の知識や経験によらず、ただ神の御霊によってのみ、すべての必要が満たされ、支えられて来た。

だから、もしあなたの内に宿っている神の命が本物であるならば、その命は、あなたの労働によらず、あなたの能力や経験によらず、自ずから実を結ぶことができる命なのだと信じるべきである。

その命は、無から有を呼び起こし、無いものを有るように呼び、荒地を緑の草原に変え、枯れた骨に息を吹き込み、死んだ者をよみがえらせることのできる方の命だからである。

だから、この地上の滅びゆく偽りの命に支配されるこの世の経済により頼んで生きることに比べ、神の支配する命の力に頼り、天の経済に生きることの方が、はるかに安全で、実りある結果に結びつくのである。

神の永遠に支配する命は、この世の経済よりも優先し、この世の経済をも支配する力を持っている。そこから、つまり、天の高さから、御名の権威に立って、信者はすべてのことを命じるのである。

信者がこの世の経済に支配されて生きるのではなく、キリストと共なる十字架を通して、信者はこの世の法則と限界を超越した天の高さから、権威を持って、地上に向かって命じるのである。そうすれば、地の経済は、神の命のために実を結ばざるを得なくなる。
 
それが、キリストのみに頼り、信仰によって、神に自分のすべてを明け渡して生きる、ということの意味である。

亀の粉は尽きず、瓶の油は絶えない。天には信者のための全ての備えがある。常に豊かで十分な備えがある。神には、足りないとか、遅すぎるとか、間に合わないといったことは、決してないのだ。

だから、天の銀行にある無尽蔵の蓄えから、信者はすべてを「信仰によって引き出す(信仰によって現金化する)」べきである。すべてを天から地へ引き下ろすべきである。そうして神の憐れみと慈しみの豊かさを生きて味わうべきである。それは実際に可能なのだ。
   
   
<2010年>

先週の土曜日、私はそれまでにはなかったほどの好成績を職場で上げて、もう一人の同期生と共に、賞に達した。だが、その当日の夜、私は突然、上部から他商品への異動を言い渡された。

何も言えなかった。同期生全員が異動しないのに、なぜ私だけが異動になるのか、その理由は、聞いても仕方なく、また、聞くべきでないような気がした。だか ら、できるだけそのことを前向きにとらえようとした。他商品と言われても、それが何を意味するのか、よく分からない。新しい商品についてさらに学べるなら ば、それも良いではないかと思った。

だが、今日、出勤してみると、半日にも満たない短い研修で、新しい商品について学ばされ、すぐに実際に電話口に立たされただけでなく、さらに、書き直され た今月の私のカレンダーを見ると、予想をはるかに上回る目標が私に課されていた。これまで2ヶ月に渡り、ずっと同期と一緒になって語り続けてきた、慣れ親 しんだ商品のスクリプトは、捨てるよう言い渡された。一昨日まで、誇りを持って読み上げてきた、私自身の血肉のようになったスクリプト。何百回、何千回と 読み上げ、やっと営業成績につなげられるようになった文章。それを自らゴミ箱に捨てるよう言われ、これまでの2ヶ月に渡る研修は一体、何だったのか、と胸 が痛んだ。

テレマーケティングにおいては、その商品についてのスクリプトをどれほど読み込んだかがものを言う。電話では、顧客の目の前で、商品を実際に目に見えるよ うに提示することはできないのだから、音声だけで、しかも、限られた時間内に、どれほど表現力豊かに、その商品について魅力的にアピールできるかが、勝負 を分ける。短い時間で、顧客の頭に鮮明にイメージを浮かび上がらせることのできる端的な文章が、幾通りも、頭の中に入っており、適宜に、すらすらと出てこ なければならないのは言うまでもなく、よどみなく、流暢で、適度に抑揚のついた感情表現ができなければならない。何を切り返されても、戸惑わずに受け答え ができる知識は不可欠であり、そして、顧客の感情の微妙な揺れ動きを察知して、押すべき時、また、引き際を知っていなくてはならない。それは、経験を通じ てのみ得られる勘である。さらに、それら全てに加えて、何よりも、自分自身がその商品への深い愛着を持っていなければ、見ず知らずの客に電話で商品を売り 込むことはできない。

商品への愛着ほど、私にとって、身につくのに時間のかかるものは他になかった。知識だけなら、すぐに覚えられるが、商品への愛着は、私がこの職場で経験し て来た喜びと、悲しみとによってしか培われることのできないものであった。今まで、上部から幾度、私の会話には感情がこもっていないとの注意を受けたろ う。それを耐えて、改善すべき点を全て改めることができたのは、いつクビを切られてもおかしくない試用期間の苦しみの中を、同期から励まされ、上司から励 まされて支えられ、全ての経験を魂に刻み込みながら、ようやく、その職場そのものを、私が愛することができるようになったからだった。そうなってから、 やっとのことで、商品への愛着が生まれたのであった。

同期生が一人、また一人と去って行くのを見ながら、その寂しさに耐え、また毎日、一件、一件の成約に喜びながら、生きてきた数ヶ月の重さが、私が受け持つ商品への誇りにつながったのだった…。

それだけの時間と経験の積み重ねを経て、ようやく、私の魂から、生きた言葉としてのセールストークが出て来るようになり、それが実績へとつながるように なった。すると今度はただちに、異動を言い渡された。やっと即戦力になれる人材となったのに、異動とは。しかも、私はOJTを晴れて卒業したばかりの新人 である。これまで時間をかけて、多くの力を費やして、この会社が行った新人研修の意味は、どこへ消えるのか…。

これが理不尽な要求であるのは明らかだった。見ず知らずの人を目の前に連れて来られて、その人をすぐに愛しなさいといわれても、誰にとっても、それは無理 であるのと同じように、私にも、今日知らされたばかりの商品を愛することはできないし、それをまして他人に上手に売り込むことはできない。それにも関わら ず、目標数値だけは、完全に一人前以上のものが課されていた。だが、それでも、主の恵みがあり、今日は、2件の成約が上がった…。

上部の人々は本心を見せず、私の前でひたすら感情を隠すか、もしくはにこにこしている。だが、センターのオペレータのうち数人は、通りすがりに、意味あり げな含み笑いを浮かべて私を一瞥していった。まるで一人ひとりがエージェントのようである。おそらく、私の発した言葉も全てしかるべき場所へ伝えられてい るに違いないとはっきりと感じられる節があった。どうしてこのような采配の中に、秘められた悪意を感じずにいられるだろう。理由は想像できる、おそらく、 営業成績があまりに不振な者もさっさとクビを切られるが、さして経験のない者が、何か大それた業績を残すことも、タブーなのだろう…。

今ようやく私はこの職場への愛着を感じられるようになったのに、なぜ上部はこのような非常識で無茶な采配を重ねるのか。また、同期生の一人が、有給休暇の 申請も受け入れられないまま、会社を去って行った。もう一人は、延々と頭を下げてお詫びをさせられる苦情の試験の、いつ果てるとも分からない追試に耐えら れず、辞職。善良かつ優秀な人々が、一人、また一人と黙って姿を消していく。普通に考えれば、まもなく私の順番が回って来るのは間違いない。こうなって結 論を予測しない方がおかしいだろう、普通の人には、残れない職場だということだ…。

私は主を内に知って以来、極めて現実的な人間となったので、今は理想主義者ではない。だから、上司の理想論を鵜呑みにして職場に残るつもりもなければ、も しくは誰かへの忠誠心ゆえに自分を犠牲にするつもりもなく、また、感情だけで、物事を決定するつもりも基本的にない。ありがたいことに、試用期間中のプ レッシャーが、何にもまして、私に学ばせてくれたのは、職業人としての意識であった。プロであるということは、どんなときにも、同じ品質を保った仕事がで きなければならないということである。この大切な自覚を得た以上、私はこの会社に残った意味をすでに十分に得たと思っている。そうである以上、この先は、 主がこの会社について何とおっしゃるのか、もう一度、自由に問うことにしたい。

状況に関わらず、心の底には、平安がある。どんな時にも、主は私と共にいて下さると信じることができるからだ。今このような時であればこそ、私の心は全て の人間を離れ、ただ主、あなただけにより頼みます。主よ、あなたは私の孤独を知っておられます。けれども、私がより頼むのは人ではなく、ただあなたなので す。我が内におられるキリスト、栄光の望み、ハレルヤ。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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