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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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点と面

「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」(列王記上、17:14)

今は困難な時代である。多くの人々が職を失う危険にさらされ、家庭を築く余裕もなく、寄る辺のない、明日をも知れぬ暮らしを強いられている。愛が冷え、疑 心暗鬼がはびこり、この時代は見渡す限り、一面に暗闇が広がっているようなものかも知れない。だが、ある兄弟が教えてくれた。エリヤの例から学ぶことがで きるように、私たちの時代において、たとえ世は一面の闇に包まれていようとも、主はその闇の面の中の一点、つまり、私たちキリスト者という一点を通じて働 かれ、ご自身の光を輝かせて下さるのだと。

旧約聖書の時代、かつてのどの王にも勝って、主の前に悪事を行ったアハブ王の統治は、イスラエルに史上最悪の時代をもたらした。アハブ王は異教徒の妻イゼベルと共に、偶像崇拝を国に敷いた。バアル崇拝は、今の世に重ねてみるならば、拝金主義にたとえることもできよう。

この背教の時代、主はエリヤに命じて、国に、数年間、雨が降らなくなることをアハブ王に告げられた。この時のエリヤの決定的な預言を、どのくらいの人々が すぐに信じたのか分からない。しかし、エリヤの語った言葉は、主の言葉であり、真実であった。そこで、実際に、雨は絶えた。

この旱魃は、霊的な意味では、生ける水の絶えた状態、つまり、主の御言葉が枯れ果てた状態を象徴している。今日でも、キリスト教徒を名乗っている多くの者でさえ、まことのパンであられるキリストの御言葉によって養われることができずに、平安を失って、あえいでいる。そんな中、その現状を鋭く指摘する者の言葉は受け入れられるどころか、かえって偽りと断定され、身の安全を脅かされる…。エリヤは自らの預言のために、身を隠さなければならなくなった。彼は片隅に追いやられ、あたかも、人の目には、いなくなったかのようであった。

しかし、国中が渇きにうめく中で、主はエリヤただ一人を、ケリテ川のほとりに連れて行き、その人里離れた孤独な場所で、人知れぬ方法で、彼をかくまわれ、 養われた。エリヤは自分自身を養う方法を全く持っていなかったが、主がご自身の言葉の責任を取られた。主はエリヤのために、生ける水を絶えさせなかった し、からすがパンと肉を運んだ。国中が渇きと、飢えと、死に覆われる中、エリヤは、キリストの復活の命の象徴としての食物を失うことはなかった。

初めは主によって、エリヤただ一人が養われていただけであった。しかし、その期間が終わった後で、今度は、エリヤを通じて、主は、貧しさに瀕していたもう 一人のやもめ女に、恵みを届けさせた。このやもめは、今の言葉で言うならば、社会的弱者、生活困窮者であり、主人はおらず、職もなく、子供を抱えて、行く宛てもなく、心中を目前にしていた、他人を助ける余裕など全くない人間であった。しかし、誰からも忘れ去られ、絶体絶命にあるような彼女に、神は目を留め、彼女を通じて、主はエリヤをかくまわれた。やもめの家族とエリヤとの生活は、朽ちる命と朽ちない命の交換であった。物質の世界においては、やもめがエリヤを養っていたが、やもめとその家族は、エリヤを通じて、神のまことの命の供給を受けていた。その後、エリヤを通じて流れ出す命の水の川は、次第にさらに太く、顕著になっていき、はっきりと世に現される。

いのちの言葉を堅く保つキリスト者は、ピリピ2:15にあるように、闇の中に輝く星のような光である。その光はともすればゆらめき、かすかになり、消えた ように見える時があるかも知れない。私たちは、時には、主によって生かされていることを見失い、臆病になる瞬間があるかも知れない。そもそも、見渡す限 り、闇に覆われている世にあって、たった一条の光などに、何の価値があろうか。しかし、御言葉に対して責任を取られるのは主である。もしも私たちが御言葉 を信じるならば、私たちはただ一つの点に過ぎない者ではあるが、その一点を通じて、主は時代をも揺るがしかねないほどの強烈な光としてご自身を現されるだ ろう。なぜなら、私たちの内におられる方は主だからである。

主よ、あなたこそまことの食物、朽ちないパンであられ、あなたによってのみ、私は生かされ、養われています。どうか私を助けて下さい。私は肉にあってはま ことに弱い者ですが、それでも、今このような不安定な時代の中にあって、キリストを信じているがゆえに、絶望しないでいられるのです。そのことを感謝しま す。この邪悪な時代に対して、私は自らの力で立ち向かうことはしません。ただ十字架上ですでに勝利を取られたキリストが、私の内にお住まいになり、主が信 じる者を通して、今日も、生きて働かれ、ご自身を世に現されることを信じています。

どうか御子の勝利が速やかに実際となりますように。邪悪な暗闇の統治のただ中にあって、信じる者を通して、キリストの統治がもたらされることを、主よ、あ なたが私に見せて下さいますように。主のいのちの麗しさをもっと知りたいのです。御国と力と栄光は永遠にあなたのものです。主よ、あなたを待ち望みます。


<2016年>

この記述を今、読み返すのは、数奇なめぐりあわせを感じる。
なぜなら、この一年、筆者はずっと「ケリテ川のほとりで」過ごして来たからである。

エリヤが一人であったように、筆者も一人であった。エリヤが世から憎まれていたように、筆者も世から憎まれ、理解されなかった(その世には「信者」を名乗っている人たちさえ含まれる。)

筆者が世に向かって語った真実は、ただ踏みにじられ、嘲られるだけであり、ヨナの説教によって悔い改めたニネベの町の方が、今日、筆者を取り巻く世に比べれば、はるかに罪が軽く、裁きもましであったであろうと思う。

だが、そのような恐るべき敵対の中で、筆者は、神を見失うどころか、神は常に筆者を覚えておられ、ちゃんと助けて下さることを、いつもいつも確認して来たのである。

だが、時には、限界近くまで試されるということもあった。

この一年間、筆者の心にも、切断されるべきものがあったのではないかと思う。

なぜなら、この年が来るまで、筆者はこの世の常識的な考えに従って、人に好かれ、世の中で居場所を見つけ、世から一定の尊敬を受けて、まっとうな社会人として生きることを考えていたからである。

筆者は根はかなり単純で、寂しがり屋で友好的な人間に過ぎなかった。
学術論文を書くときには、徹底的な心理分析ができても、実際にこの世を生きるに当たり、外科医のメスのような鋭い洞察力によって周りの人間の心中を切り刻むことはさすがにためらわれた。筆者は人間を侮辱したくなかったし、恨みを買いたくなかったし、多くのことについて、できるなら、何も知らないふりを決め込み、黙っていたいと願ったのである。

だが、信仰においては、そんなにも妥協的で、中途半端な生き方は許されない。だから、筆者は、多くの「踏み絵」を望まなくとも、乗り越えなければならなかった。信者の「信頼」と「友情」は、ただ天に向けて、神に向けて開かれるべきであって、ソドムとゴモラの住人との「友情」や「連帯」などあり得ないからである。

だから、望んでいなくとも、ソドムとゴモラの住人を敵のように扱い、レビ人が同胞を殺したように、神に喜ばれない生き方をするすべての人たちとの交流を容赦なく断ち切り、彼らに侮辱と誤解されたとしても、厳しい台詞を投げつけ、罪を告げなければならなかった。

筆者はそうして人に対する浅はかな友情や未練を断ち切って、ただ神の権益にのみ立つことを学ばねばならなかったのである。その過程で、筆者のお人よしさ、人間好き、信じやすい性格、頼りなさ、自信のなさ、世から受け入れられたい願いなどは、根こそぎ取り扱われねばならなかった。

たとえば、筆者は自分の専門に愛着を持っていたが、そうした感情も、すべて十字架へはりつけにされる必要があった。

世から憎まれる役目に徹することは、簡単なことではない。自分の夢を十字架に渡すことも楽ではない。若輩者が勇敢に、自信を持って、立ちあがり、年長者に説教することも並大抵ではない。だが、そうでなくてはならない場面が、信者には訪れるのだ。敵に侮られてはならない決定的な瞬間が、信仰生活には存在するのである。

そのような意味で、この一年間(まだ終わっていないが)は、世からの完全な分離に至るための荒野での訓練であった。だが、荒野と言っても、それは苦しい生活ではなく、神はカラスを通じてパンと肉を運んで下さり、やもめのような人をも備えていて下さったので、不自由はなかった。

ところで、聖書においては、エリヤが宿っていたやもめの家で、やもめの一人息子が死ぬという出来事が起きる。その時、やもめはエリヤを通じて神を激しくなじった。だが、その非難は、神に対する絶望から出たものではなく、神に対する命がけの懇願の言葉であったので、神はやもめの信仰に応えて、彼女に息子を帰してくれる。

そんな風に、荒野では「死と復活」の原則が働く出来事が何度も起きる。信仰によってしか切り抜けられない出来事が何度も何度も起きるのである。こうして、信者は日々訓練されていく。目の前で何が起きようとも、神を信じ続ける信仰を訓練されて行くのである。

やもめの死んだ息子は、信者自身の古き人の姿でもある。エリヤが自分自身を重ね合わせると、その息子はいきかえった。それは、信者がキリストの姿に同形化されることを象徴している。

筆者には、幼い頃からのキリスト教徒として、信者の信仰が成長してキリストに同形化されるとは、非常に優れて立派な人格者になることだという長年の固定概念があったが、そうした考えもここ最近に打ち砕かれて消失した。

キリストに同形化されるとは、いわゆる「世から尊敬される立派な人格者になる」こととは何の関係もないのである。逆に、信者がキリストに同形化されればされるほど、ますます世から賞賛されるどころか、世の理解を失って行くのではないかと思われてならない。

信者は、世からの理解や賞賛というものに対しても、死ななければならない。徹底的に世から隔絶されて、世とは違った価値観を内に養われる必要がある。

神にのみ従って生きようと思えば思うほど、ますます世人からの理解は遠ざかるのである。本当にこんな非常識な生き方で良いのだろうかという疑問がこみあげて来ることがないわけではない。しかし、それでも、神の御業を見るときに、やはり、これで良かったのだと確かめられるのである。

亀の粉は尽きず、瓶の油は絶えない。それはこれまで絶え間なく確かめて来たことである。

信仰は常に狭き門であり、その道は細い。信者に霊的な死が適用されて、復活の命が働かないことには、真に神に喜ばれ、受け入れられるものは何も生まれて来ない。今や筆者自身が、全焼のいけにえとして祭壇の上に置かれているが、神にすべてを委ねているならば、神が責任を負って下さることを信じている。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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