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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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あの山でも、エルサレムでもなく… 信者にすべてを与えておられる主(2)

筆者は何事も取り組んでいるうちに熱中するタイプなので、これまでどんなにつまらないように見える仕事でも、それなりに成果を上げて来たものである。

だから、仕事が嫌いであるか、あるいはできないために、仕事を軽んじて言うわけではないが、それでも、地上の経済に対して言えることは、「絶望」の一言だけである。

我が国では、裸の王様であることの有名なアハブ王三世の乱脈政治により、世人がどんなにまじめに働いても生きられないような過酷な世界が到来しつつある。この風景を見るだに、思い起こされるのは、ソビエト時代の強制集団化とラーゲリ(強制収容所)の生活である。

まだ我が国では、かりそめにもサラリーマンには給与なるものが支払われているようなので、一応、資本主義は体裁ばかりは維持されているが、それでも、我が国は実質的に共産主義国なのであって、そこで行われている労働は、基本的に無賃労働である、と筆者は思っている。

筆者はこれまでに、残業代が支払われないとか、突然、契約が短縮されるなど、我が国に蔓延する不法な労働条件に驚きあきれて来たものだが、筆者が最後に勤めていた会社では、上司がほぼ無賃労働をしているという、さらにもっと呆れるような話を聞いて以来、筆者は、この国が実質的に共産主義国であることをもはや疑うことができなくなったのであった。

こんな世界は是正は不可能である。共産主義国では、私有財産が認められなかったが、我が国も、何かと理由をつけては、政府が国民の財産を「国有化」するための各種の手続きが取られている。その行く末に見えているものは「欲しがりません、勝つまでは」の世界で、国家を生き永らえさせるために、国民の私有財産はいずれ根こそぎ没収されるか、禁止されるのであろう。事実上、国民を貧困化させることによってそれが実現されるのである。

人々は東電の福島原発事故処理のために、国民の負担が増えると言って憤っているが、東電に対する政府の不当な優遇をさて置いても、この事故処理は、半永久的な天文学的負担を生むだけであって、3.11以来、我が国は、途方もない負債だけを抱える国になってしまった事実は誰にも否定できないのである。

つまり、この国にはもういかなる希望も存在しないのである。自分に似つかわしくもない巨大な礼拝堂を建てようとして、詐欺にあった教会のように、残るは天文学的負債だけであり、そこに残ったメンバーが連帯責任を負わされることになるのである。その絶望感を覆い隠すために、余計に何かしら怪しげなユートピア論を幹部がぶち上げる。オリンピックもそうであるが、この先、ナショナリズムやら、美しい国やら、愛国主義やら、各種の名前で呼ばれる共産主義ユートピアの変種が色々と打ち出されて人々を眩惑するであろうが、それはいつまでも決してかなうことのない偽りの夢のために、国民を徹底的に収奪し、道具として使い果たすための目くらましに過ぎないのである。

これを単なる空想だと考えたい人は、そのように思ってくれて構わないが、もし日本が今年2016年末にロシアと平和条約を結べば、ロシア的共産主義が(今もかの国は霊的な本質においては変わっていない)日本的共産主義と手を結び、今よりももっと恐るべき経済的搾取と収奪の仕組みが強化されることであろうと筆者は想像する。ロシア的強大な国家主義が、国境を超えて我が国にも流入するであろう。アハブ三世はかの国の統治に模範のように憧れているから、霊的な提携が成立するのである。だが、そうして出来るのは、まさにシベリアのラーゲリのような世界である。

筆者はそんな世界は御免こうむりたいのである。アダムが罪によって堕落して以来、人間にとって地を耕して己を養うことは、不毛な苦役となったが、労働の罪なる本質が、今やこれまで以上に明らかになって来ているのだと言える。この先、本当に労働はますます人を生かすことのできない苦役へと変わって行くであろう。

プロレタリアートとして生きようとすること、この世の経済において真面目に労働して己を養おうとすることは、もはや神の御心にかなうことではなく、人間に何の実りも報いももたらさない奴隷的苦役になりつつある。

そのような体系に信者は身を売るべきではないし、それに仕えて生きるべきでもない。ヴィオロンはいつも大げさすぎると、笑いたい人は笑って構わない。だが、聖書には、反キリストの到来と共に、やがて世界の経済圏はみな悪魔の支配のもとに統合されて、獣の刻印がなければ、売ることも買うこともできない世の中が到来すると書かれている。信者であれば、その記述を事実であると信じていることであろうが、今やその時が刻一刻と迫っているのである。

もし本当にそうならば、信者は一体、そんな世界で、どのようにして己を養うべきであろうか? もちろん、天の法則によってである。ラーゲリにおける飢えと疲労の極致の生活によって生きるのは誰にとっても無理な相談であるが、反キリストの経済圏に身を売っても、どうせ待っているのは搾取と死だけである。ラーゲリのみならず、この世の経済が言うことは、いつも「全員分には足りない」ということだけである。隣人の配給のパンを奪い、隣人の仕事を奪い、隣人を騙し、その努力の成果を奪い、隣人を殺さなければ、あなたは生き延びられない、と言うのである。

ちなみに、ソ連のラーゲリでは、人食いを目的とする道連れの脱走、ということも行なわれていた。囚人が囚人を誘って収容所から脱走するのだが、外の環境は通常の人間がとても自力では数日と生きられない氷点下のタイガである。当然ながら、途中で道連れを殺すのである。つまり、道連れは初めから食糧にすることを目的に騙して誘い出したのであって、焼却してベーコンのようにして荷物の中に隠し、命がけの逃亡を続ける。収容所内での生活もしょせんこれと似たり寄ったりで、裏切り合い、騙し合いの連続なのだが、脱走してもこんな有様なのである。このような絶望的なシステムからは、限りない堕落と人間不信しか生まれないのは当然である。
 
当然ながら、信者がこんな世界に巻き込まれて生きるべきではないし、このような忌むべき体系と関わっても信者に良い結果は何ももたらされない。神はこれとは違った生存方法を、必ず信者のために用意して下さるはずであり、それが可能であることを、これまでに幾度となく筆者自身も確かめて来たのであった。

最初はこの世の方法によらない、信仰による細い道を通らされることに抵抗がなかったわけではない。だが、結局、その方がずっとはるかに生きやすいと分かるのである。

神の天からの配給の方法は、悪魔の地の配給方法とは違い、「求める者には誰でも与えられる」というもので、「全員が食べて飽き足りる」満ち足りた供給であり、「全員分にはいつも足りない」悪魔の底意地の悪い配給とは全く違っている。また、「労働によって己を養わない者は生きているべきではない」というものでもなく、「蒔くことも刈ることもせずとも、神は信者を養って下さる」。

信者は自己の努力によらず、神の恵みと憐れみによってのみ生きる。義人は信仰によって生きる。まことの保護者なる方が着いておられるのに、プロレタリアートなどに自ら志願して、地上の悪なる主人に身を売り、あまつさえ、プロレタリアートの国を作ろうとするほど、愚かな所業はない。何のために奴隷を美化し、奴隷を賛美し、奴隷の国を作る必要などあるのか。誰のための理想論か。それは搾取する側にとって都合の良い夢でしかない。

奴隷にとっての望ましい結論は、奴隷でなくなることだけなのである。

神は霊であり、神の霊のあるところには自由がある。誰に仕えて生きるのか、誰のために身を捧げるのか、誰を信頼してより頼むのか、それによって結末は180度変わる。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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