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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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真珠と羊(1)

「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである」(マタイ13:45)

筆者はある信者から次のように誉められたことがある。

「あなたの長所は望みの高さですね。」と。つまり、筆者は他の信者に比べて、そんなにも優位な長所をたくさん持っているわけではないが、望みの高さにおいては、他の追随を許さないような信念を持っている、と、その信者は言うのである。

他の信者と比べて云々の評価はすべて余計なものであるが、少なくとも、他の追随を許さないほどの大志を、つまり、神の御名に真にふわしい大志を抱きたい、という願いが筆者にあることは確かだ。

その願いだけが、いわば、筆者を神への信仰から逸らせることなく、今日までここへ導いて来たのである。

たとえるならば、筆者は良い伴侶を探し続けている人間のようなものである。

多くの人々が、伴侶を持つことの素晴らしさを筆者の前で誇って見せたので、筆者も、本当にそうなのかどうかを確かめてみたい思いに駆られたものだ。

だが、地上の人間は、誰一人、筆者の心を満足させなかった。しかも、伴侶を誇っている人たちの家庭生活が、よくよく目を凝らしてみると、かなり悲惨なものであった。多くの場合、浮気は日常茶飯事で、霊的愛人に熱をあげていることも全く稀ではなかった。伴侶に対する幻滅をごまかすために、絶えず何かの遊びに溺れて、自分をごまかしていなくてはならず、それでいながら、暇つぶしが終わると、ちゃっかりと家庭に戻って、良妻賢母や、良き夫を演じるのである。そして、子供が結婚したとか、孫が生まれたといった話をまことに嬉しそうに吹聴し、自分の「幸福」を人前で誇るのである。

そんな馬鹿馬鹿しくわざとらしい演技に何か意味があるのだろうか?と筆者は思わずにいられなかった。

それゆえ、筆者は彼らに注意を払わず、多くの人々は、筆者のそのような態度に侮辱を感じたようであった。つまり、筆者が人間に対して不敬で、悪いところばかりを見ているというのだ。

だが、たとえそのように言われたとて、本音はどう隠しようもないであろう。到底、満足できる水準になく、好感も持てない事柄を、どうして心を偽って賞賛することなどできようか。なぜその人たちは自分たちの生活が高く評価されなかったからと言って憤るのか。全く理解できないことである。

結局、地上における家庭生活は、ほとんどの場合、差別と搾取の上に成り立っているのだという結論に筆者は至らざるを得なかった。妻たちは夫に君臨され、差別され、踏みしだかれながら、味気ない、栄光の少ない仕事ばかりを任されて、不満がたまっている。だが、それが社会の仕組みだからと、彼女たちはどこにも愚痴を言えないと考えている。夫に立ち向かっても、すぐに打ち負かされる程度の教育しか受けてもいない。だから、その不満を、彼女たちは宗教や、別の分野で、屈折した形で、ごまかすしかないのである。

だが、どんなに屈折した形であろうと、その差別的生活から生まれた夫への敵意は、必ず何らかの形で発揮されることになる。たとえば、夫に対する優位を確立するために、彼女たちは宗教に入信する。社会活動に明け暮れる。その敵意が、夫にのみ発揮されるうちはまだ良いが、子供たちへ向けられたり、他の女性に競争心として向けられたりもする。そのようにして、女性が、自己のやるせない立場から来るうっぷん晴らしのために、他の女性を貶め、虐げていることも少なくない。いずれにしても、自分が他者から支配されている人は、他人に対しても、自分がされているのと同じ支配関係を繰り返すことしかできない。自分がどれくらい他人に優位に立っているかが、自己満足のバロメーターになるのである。

そのようなことは、本心から幸福な人間たちの間では生まれるはずのない現象であった。だから、どこに本当に幸福な人間がいるのかと筆者は探してみた。だが、どこへ行っても、人間の(男性の)リーダーが立てられているところでは、虐げられた女性たちの不幸な地位争いが絶えないのであった。そして、家庭生活というものは、その典型的な型であるという結論に筆者は至った。

むろん、愛情深い夫婦の幸福な生活というものが地上に存在しうることを完全に否定するつもりはないが、少なくとも、筆者は、自分の幸福の自慢話をしている人々が、真に幸福だったことは一度もない、という結論を変えるつもりはない。

そして、彼らの家庭は、観察すると、全く「母子家庭」の様相を帯びているのである。家庭だけではない。企業も、団体も、教会も、みなそうである。そこで君臨し、支配者として立っているはずの男性が、事実上、何の責任も果たせておらず、精神的に「不在」なのである。

自分が裸の王様であることを理解しないで、栄光ある場所を飛び回り、家庭を不在にする愚かなリーダーの自己顕示欲の下で、味気ない雑用ばかりを任され、日陰の存在とされた女子供の不満がたまっている。

そういう風景を見るにつけても、筆者は、結局、人間にとっての真の伴侶とは、キリストだけなのであり、キリストが教会(エクレシア―信者)の花婿だというのは、単なるたとえ話ではなく、霊的な事実なのであって、この事実に反するすべての現象は、本体の影、移ろいゆく影でしかない、という結論に至ったのであった。

つまり、地上の伴侶なるものは、キリストの影に過ぎないのである。

こんなことを言えば、地上の夫続と妻続からはさらなる不興をこうむるかも知れないが、それでも、これは霊的事実である、と筆者は考えている。

人間は、目に見える「伴侶」を掴まえて来て、それをまるで自分の所有物のように誇ることはできるが、アダムとエバに宣告された通り、人間の男女間には堕落した支配関係が置かれており、そこにはどうやっても対等な尊敬と愛情が生まれないのである。

そもそも、人間が人間を求めるのは、自己の欲のためであって、他者を満たすためではない。どんなに愛情を持っているつもりでも、人間の抱く愛情というのは、基本的に自己満足のためなのである。そこに、人が人に真の尊敬を持てない最大の理由がある。

だから、そのような腐敗した支配関係の中で日陰の存在として搾取され、長年に渡り苦しみながら、それでも、自他を欺いて幸福を装って生きるという、筆者から見ると、アクロバットに等しい心理的に無理な操作を重ねて生きるよりは、そのように不自然で歪んだ関係は、初めから誰とも結ばない方が良い、と思われてならない。

そんな筆者を変人と思いたい人は、思ってくれて構わないし、あまりにもひどい悲観論だ、極論だと思いたい人は、そう思ってくれて構わないのだが、これが、筆者が周りにいる女性たちの生活実態をよくよく観察した結果として得た偽らざる結論である。彼女たちの不幸な生活に、筆者は習いたくないし、彼女たちを虐げて君臨している「リーダー」にも何の栄光も見いだせないのである。

だが、そうしてキリストこそ、真の伴侶だという結論に至った筆者は、果たしてその結論によって何を得たであろうか? 筆者は夢見がちな人間としてうわごとを言っているに過ぎないのだろうか? 

いや、神は、筆者を実際に専業主婦のように扱ってくれるのである。

筆者はこれまで自分は一人で生きているのだから、自分で自分を支えるのは当然だと思って、つらい労働にも志願したりして来たのだが、そういう時には、決まって神が介在されて、その労働が早く終わるように仕向けられるのであった。

そして、神は筆者に向かって言われる、「この私が、天にも地にも無尽蔵の富を有し、すべての造られたものにまさる権威を持っている私が、あなたにそんな生活しかさせることができないと、あなたは本気で思っているのですか? 私の栄光にふさわしい生き方をしなさい」

幾度も、幾度も、そういう促しを受けるのである。そして、地上の目に見えるリーダーや、有力そうに見える人間のもとを何度訪れても、結局、そこでは何らの解決も得られない、ということが分かる。筆者より何倍か優れた能力がある人間を目の前にしても、彼らは筆者よりも愚かで知恵のない生活を送っていることが分かる。そこでは、目指していた解決が得られないくらいであればまだ良いが、そうして人の目に「良さそう」に見える人間ほど、曲者なのである。そういう人間は、最初から、詐欺師だと考えているくらいがちょうど良い。

そんなわけで、結局、目に見えるどんな人間にも頼らず、神だけに栄光を帰するのが、最も安全な道だということが分かるのである。神は信じる者の期待と信頼を決して裏切られることがないし、我々被造物が弱い存在であることも知っていて、決して見下したりもしない。

グノーシス主義者が言うように、神は人間を見下して嘲笑するために神よりも劣った存在として創造されたわけではないのである。キリストは教会のために命を捨てられたのであるから、キリストとエクレシアとの関係に、男尊女卑はない。神の究極にまでへりくだった愛を受け、その限りなく善良な御心によって生かされることが、エクレシアの幸福である。

筆者はよくたとえとして用いるのだが、誰がペットに高度な知識や経験を求めるであろうか?そのようなものがないからと言って、誰がペットを軽蔑するであろうか? 誰がペットと知識や経験において張り合おうと思うだろうか?

神が人間に張り合おうとされるだろうか? あるいは、人間が神と張り合うことに意味があるだろうか? 神と人間との間には圧倒的な差別があって、神は人間を残酷に支配し、人間は神に蔑視されているなどという思い込みは、地上的な男女差別を反映させた幻想に過ぎない。

神と人との関係はそのようなものではないのだ。神は我々人間に対して、命に至るまでご自分をことごとく提供しておられ、我々にご自分を信頼して頼ること以外には何も求めておられない。そして、神は決して人間の信頼を裏切られることはない。だから、神の御言葉にとどまり、神に愛され、その命によって満たされて生きていることが、我々の幸福なのである。他の供給源は要らない。人工的な栄養素に頼れば頼るほど、不健康になって行くだけである。

そんなわけで、筆者は、ただ本物を、本物だけを探し求めている。もどきは必要ない。なのに、本体の影にすぎないもので満足したと豪語している人たちの証言を、とても本当だとは思えないのである。もしそのようなことがあるとすれば、影に過ぎないものによって得られる満足や利益以上のものを、本体はもたらすことができるはずであり、そこから考えても、わざわざ影に過ぎない不完全なものにすがるのは、どちらかと言えば時間の浪費で、無用な苦しみの源になるとしか思えないのである。
 
もし信者が高価な真珠を探し求めるように天国を探し求めているならば、天国もまた、そのように神だけを本気で求める信者を探し求めているものと思う。そこに、何かしら相思相愛のような関係ができて、信者は求めていたものを見つけ、神の御もとで荷を下ろし、休息する。パウロが言ったように、たとえそこへ達するまでに全財産を売り払ったとしても、信者に後悔はない。売り払ったものにまさる宝を得たことが分かるからである。
 
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