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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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真珠と羊(2)

「見よ。私は戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)

御子は、神の御言葉が生きた命となって、肉体となって、この地上に来られた存在であった。神ご自身が、へりくだって、その威厳とうるわしさを捨ててまで、 私たちを滅びから救い、命を与えるために、ご自分を投げ出されたのだった。なのに、この世の人々はその救いを拒絶し、受け入れなかった。それどころか、ついに は、人々は御子が真理を語ることさえもできないように、十字架につけて、殺してしまった。世は彼の言葉を聞きたくなかったのだ。世にとっては、御言葉なる主イエスが地上に来られたこと自体、迷惑でしかなかったのだ。

このことは、世人の本質が神のぶどう園を横領した盗人・強盗であることをよく物語っている。本当の主人が現れると、自分たちが強盗であるという本質がもはや否定できないほど明白になるため、極めて都合が悪く、真の主人を退けるために、彼らは主人の息子を殺したのである。

さらに、今日、信者を名乗っている人々でさえ、世人と何ら変わらず、主イエスの御言葉に逆らい、聖徒らを迫害する有様となっている。聖書は言う、招かれた人は多くとも、礼装して、宴に出席する人はまことに少ないのだと。狭き門から入る者は少ないのだと、聖書に書いてある。

筆者は、教会というところは、偽の救いを貸与する場所であると考えている。教会は、献金を集め、信者を集め、教団教派という地上の組織拡大を目指しており、初めから福音の本質にそぐわない、福音とは関係のない、人間の営利と自己保存を目的とした集まりである。この世的な目的と本質を福音でカモフラージュしているだけであって、それは悪質な見せかけなのである。

地上の組織としての教会は、大抵、信者が教会を離れ、礼拝に来なくなると、やがてその信者はキリストの御身体から切り離されて、罪深い生活に堕落し、救いをも失うかのように教えている。そのようにして、恐怖を煽ることで、組織から信者が離れられないようにしているのである。だが、そのようにして教会が信者をつなぎとめようとする本当の目的は、教団教派という地上的な組織の拡大と繁栄のために、信者に献金を払わせたり、奉仕をさせたりして、使役するためである。

信者が洗礼を受けて教会員となって、教会籍をもらったからと言って、そのことは、本当は救いとも、天の国籍とは何の関係もないのだが、地上の組織としての教会は、神の救いを信じて受け入れることと、教会員になることが、あたかもワンセットであるかのように信者に巧みに偽りを教え、本来何の関係もないはずの地上的事柄と、天的な事柄を信者が混同するように仕向け、救いというものの本質をすり替えてしまう。神の救いという目に見えない天的な承認と、目に見える教会籍という地上的な承認を同一視するからこそ、教会籍というバッジを失えば、信者は神の救いを失うかのように思い込まされるのである。

そういったことから始まって、地上の組織としての教会が信者に教える偽りは枚挙に暇がない。それを真に受けていると、信者は、教会を離れると、自分は悪魔の虜とされて、とんでもない人間に堕落して行くかのように思い込まされる。教会に集っている信者たちは、クリスチャンを名乗っており、聖書のこともよく知っているが、そのほとんどは、残念ながら、再生も知らなければ、御霊によっても生まれていない、偽物の信者である。彼らの語る聖書の御言葉や説教は、命の欠けた道徳律以上のものではない。

なぜそうなるかと言えば、地上の組織や団体としての教会のような場所で、人々が真に聖書の御言葉に触れ、真に神の救いに触れることはなかなかできないからだ。むろん、そこには本当のクリスチャンもいるのだが、地上の組織や団体に束縛される限り、彼らの信仰も制限を受ける。そして、それが分かっていながら、あえてそのような場所に残り続けると、その信者に何が起きるかと言えば、たとえ信仰を持っていたとしても、ついには福音の敵と化して行くことになるのである。

だから、もし本当に信者が信仰を持っているなら、どこかの時点で、教会を離れる決断をせざるを得なくなる。これは今までの霊的先人のすべてが辿って来た過程である。偉大な宣教師のハドソン・テイラーなどでも、やはり組織を離れるという決断を余儀なくされたのである。
 
さて、偽物であるということは何を意味するかと言えば、結局、彼らは本物に対して悪質に敵対する迫害者になる可能性を秘めているということである。

宝石もそうであるが、イミテーションも、イミテーションと分かって楽しむならば、罪にならない。だが、イミテーションを本物だと偽り、イミテーションが自己の本質を偽って、本物を名乗り、本物に挑戦し、戦いを挑んだ時に、イミテーションの罪が生まれるのである。

本当は救われてもおらず、神の御霊によっても生まれていない、うわべだけクリスチャンを名乗っているだけの人々が、神の御霊に対して罪を犯すのは、彼らが自分たちこそ本物の信者だと言って、人間の利益に過ぎないものを掲げて、主イエスのまことの証に悪質に敵対し、真の聖徒らを迫害するときである。

筆者の考えでは、KFCが堕落したのもそのためである。つまり、KFCの堕落は、この団体が、現役の教会組織の信者と交わり、手を結んだことが最たる原因である。もしキリスト教界を非難するのであれば、彼らはキリスト教界の組織に属している現役信者と手を結ぶべきではなかった。また、教会に類する序列やヒエラルキーを信徒の間に作り出すべきではなかった。

キリスト教界と一線を画し、純粋なキリストの証を持ち続けていることだけが、この団体が正常に存続するためのすべての鍵だったのである。なぜなら、もし主から出た純粋な証を掲げ続けるならば、すべてのことについて、神が責任を負って下さるからである。

だが、アカンが敵の所有物を欲しがってそれを自らの陣営に残しておいたゆえに、イスラエルの民が戦いに敗北したように、もし聖徒が神の御前に忌むべきものを捨て去ろうとせず、この世の宝を大事に保存し、この世の人々やものを愛するならば、キリストの純粋な証と、彼らの聖別が失われる。そうなると、神はその汚れた団体をもはや擁護できなくなるのである。

神に守っていただくための唯一の秘訣は、神の忌み嫌われるものを決して信徒が自己の生活に持ち込まないことであり、世と馴れ合わず、世の悪なるしきたりに染まらず、世人に媚びず、世の思惑におもねらず、御言葉に反するものを心から憎み、これを容赦なく退ける妥協なき姿勢を持ち続けることである。それができなければ、たとえある時まで、御霊に支えられてエクレシアを名乗っている集まりがあったとしても、それは必ず堕落して行く。

宝石であれば、本物がある日、突然、偽物に変わるなどということは起きないが、キリスト者は、信徒としての証をきちんと持ち続けなくては、いずれ世人と同じになってしまう。救いを知らない世人であれば、罪なる生活を送っていても憐れみを受ける余地がまだ残っているが、救いを知っているにも関わらず、福音に背を向けた信者は、世人以上の罪を犯すことになる。

KFCの聖別の根拠は、彼らがキリスト教界以上の真理を見て、キリスト教界をエクソダスしたことから成っていた。だが、キリスト教界に対する優位性を誇りながらも、キリスト教界との境界を自ら否定して、これと霊的姦淫を結び、混合した時、この団体の聖潔は失われ、KFCはキリスト教界とも世とも何ら違いのない、証の失われた団体となり、枯れた枝、塩気を失った塩となって行ったのである。

そうしたことは、筆者がこの団体を知る前から、徐々に起こっていたのであろうが、筆者の目の前で急速に進行した。そして、筆者は、御霊の証印を失い、神の御前に聖潔を失った団体は、悪魔の餌食となるだけで、決して存続することができない、という事実を知ったのであった。

こうした前例があるので、筆者は、たとえ世を愛するクリスチャン「もどき」から、変人・偏屈と言われて、蔑まれ、疎んじられようとも、彼らの誘いに従って世と同化せず、神に忌み嫌われるものと親しく交わることはしないのである。そういう生き方をしていると、当然ながら、クリスチャンもどきから大変、嫌われるだけでなく、世からも憎まれることになる。だが、聖書に書いてなかっただろうか? 本物の聖徒が世から愛されることなど絶対にないと。僕は主人以上の者ではない。主人であるイエスが世から憎まれたのだから、僕も憎まれるのが当然なのである。

にも関わらず、もしその当然であるはずの世からの憎しみを全く受けていない「信者」がいるならば、その人の「信仰生活」は、まずもって本物ではあり得ない。その人は、まさにクリスチャンもどきと考えて差し支えない。そのような人と信徒の交わりを続けていても、百害あって一利なし、である。

「でも、ヴィオロンさん、そんなに厳しいことを言っていては、あなたの目にかなう「信徒」は一人もいなくなるのではありませんか?」

まさにその通りである。だが、その孤独が耐えられないために妥協するほどまでに愚かにはなりたくない。むろん、筆者にはその時、その時で、不思議と、交わる信者は与えられて来たが、仮に一人も信者だと認識できる者が身近にいなくなったとしても、筆者は構わないと考えている。なぜなら、神との交わりは、どんな時にも、取り上げられることはないからだ。

「ヴィオロンさん、あなたは自分だけが正しいと考えており、自分以外のすべての人は間違っていると思っているのではありませんか」

 そう誤解されて非難されたとしても構わない。聖書は何と言っているか。

「たといすべての人を偽り者としても、神を真実な方とせよ」

 これは、もともとすべての人が「偽り者」であることを前提として発せられた言葉である。義人はいないのである。つまり、正しい方は神以外にはいないのである。

 筆者は決して自分だけが正しいと考えているのではない。筆者自身には義はないからだ。キリストの義が信仰によって筆者を覆っているがゆえに、筆者は神の御前に義とされているのである。筆者が主と共なる十字架において、自分への裁きを認め、受け入れたがゆえに、筆者は今や唯一正しい方である神の中に隠されて生きているのである。

 「ヴィオロンさん、あなたのように、そんなにも厳しい要求ばかりしていたら、たとえクリスチャンであっても、誰も着いて来る人はいないでしょうね」と言う人は、主イエスが「狭き門から入れ」と言われたことをどう考えているのであろうか? 十字架は、世人にとって易しいものであろうか?
 
 その人は、きっとドストエフスキーの描いた大審問官と同じように、筆者に対してお説教するだけでなく、主イエスに向かっても、お説教するのであろう、「イエス様、あなたの救いは、あまりにも高尚で、難しく、狭すぎるために、あまりにも大勢の人々を排除しています。大勢の人たちは、あなたのように立派ではなく、頭も良くなく、もっと愚かで、自己中心なのです。でも、そういう愚かな人たちへの優しさを、あなたはもっと持つべきでした。あなたはもっと世に譲歩して、世間の人々にも理解され、歓迎され、受け入れられるような、お手軽で安易な救いを提供すべきでした。十字架は、世人にとってあまりにも厳しすぎる要求です。でも、あなたは妥協がとてもお嫌いなようですから、あなたがやらないことは、私がやります。私が世人にもっと理解され、受け入れられる易しい福音を作り出し、自らそれを彼らに教え、彼らを救ってやります」

 こうして、彼らは福音の敵と化して行くのである。 

  筆者はそんな道を行きたくないのである。たとえ旅の道連れがいなくなり、一人になっても、世と同化して福音の敵となるくらいならば、一人で喜んで旅を続けて行くつもりである。

 筆者と途中まで旅を共にしてくれた信者の道連れは、誰もが一人になりたくなかったので、共に道行く人が減っていなくなればなるほど、しばしば後ろを振り返るようになり、世人を助けねばならない、彼らを教え、目覚めさせて、彼らの信仰をもっと進歩させて、ここへ一緒に連れて来なければならない、自分だけが先を歩くわけにいかない、私には彼らを助ける使命があるのだから、などと言っては、そそくさと道を引き返し、にぎやかな町に戻って行った。そのように引き返して行った人たちは、筆者が歩き続ける中で、それ以来、二度と顔を合わせたことがない。筆者は、そういう人たちは全員、「ミイラ取りがミイラになった」ことを疑わない。

 KFCはキリスト教界と交わり、これと同化してはならなかったのだ、と筆者が言うのは、そういうわけである。自分よりも信仰の劣った誰かを連れて来て、かいがいしく世話を焼き、道を教えてやることが信徒の務めではないのである。そのようにして他者との師弟関係を作り出し、自分が主イエスの代わりに教師となって他人を教え、導くのが信徒の務めではないのである。

 信徒は一人一人が直接神につながり、常にまっすぐに神の方を向いていなければならない。信徒の義務は、世人に対するものではなく、神に対するものであり、彼は世に対してではなく、神に対して生きているからである。

 今日も、神は良い真珠を探すようにして、ご自分の御心にかなう人々を地上で選り分け、探しておられる。再び地上に来られる時まで、主は御心にかなう人々を探し続けるであろう。そして、ご自分の心を満足させることのできる、真にキリストの弟子となる者たちを必ず見出されるであろう。

 何しろ、アブラハムの子孫を石からでも起こすことのできる方である。たとえ地上のほとんどの人々が、終日、神を拒絶し、呪い、信者でさえも、福音を拒絶し、あざけっているとしても、それでも、主イエスはご自分の声を聞き分けて、主の懐に立ち帰る羊を毎日、尋ね求め、見つけては、悪魔の手から取り返して来られるであろう。

 黙示録には、そうやって神のものとされた信者たちが大群衆になって現れる。「神の福音は高尚で狭すぎて厳しすぎるために、ほとんどの人たちには理解されず、受け入れられない」などと言った人は、その光景を見て、恥を受けるであろう。

 確かに、イエスの福音は人間にとって狭き門であるが、それでも、「人にはできないことも、神にはできる」のだ。神は必ずご自分の心にかなう民を得て、満足されるであろう。ご自分のために、そのような民を起こすのは、神のなさることだからである。もし神が許されるのでなければ、自分から神を見いだすことができる人は誰もいない。そして、筆者には、世人が何を思い、世で自分がどういう評判を得るのかなど、全くどうでも良いのである。筆者の願いは、常に神の懐に抱かれ、神の内に隠される一匹の羊であることだ。人の目にではなく、神の目に認められることこそ、人間にとって最も肝心なことだからである。
 
「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネ10:27)
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10-11)


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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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