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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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我がただ一人の保護者へ

平日のほとんどをビルの息苦しい空気の中で過ごしているので、日曜日の礼拝後、夕方にかけて、新鮮な空気を吸いに、みなとみらいの街を見に行った。この街を、私はまだほとんどよく知らないが、それでも、早くも、さまざまな思い出が心によみがえってくる。

一人で街を歩き、色々と思い巡らす時の物寂しさが心地よい。言葉は要らない…。

昨年、遠方より、この街にたった一人で、家探しに来た時、私に許された時間は、一日きりであった。主の憐れみにより、その日中に何とか目的を遂げることは できたが、帰り道、夜行バスの出発を待つために、駅の近くで、延々と暇をつぶした。話し相手もなく、腰を落ち着ける場所もなく、見知らぬ街で、重い足をひ きずって、あちこち歩き、やっと、海水の流れる川沿いのベンチを見つけて腰を下ろした。

海から吹く風が、夏だったにも関わらず、ひどく肌寒かったのを覚えている。私は聖書を開きながら、ひたすら、ノートに祈りの言葉を書き綴った。その時、私 の相談相手は、主ただお一人であった。私は思い巡らした、一体、これから、主はどんな幸福を私のために用意して下さっているのだろうか…。

今になっても、私の状況は、あの時と似たようなものかも知れない。内住のキリストの御霊、神の復活の命を知って、私は大きな苦難から救い出され、それまでにない平安を心に得た。だが、だからといって、私の人生が急に、何の寂しさも、困難もないものになったわけではない。むしろ、主にあって強くされたはずな のに、私の弱さがさらに明らかになることもあった。待っていたのは、勝利ではなく、まるで敗北のように見えることもあった…。

だが、今、聖書に出て来る、信仰者のほとんどが、私と同じような境遇をたどったことを思い出す。彼らが経験したのは、人から歓呼して迎えられることではな く、弱さの中に追い詰められ、人に踏みにじられ、孤独を味わうことであった。貧しさに苦しめられ、弱さの極みにまで追いやられながら、そこで、彼らはただ 主をのみ頼ることを学んだ。主は確かに信じる者を助けて下さった。しかし、彼らはまず、主の御助けを待たなければならなかった…。

だから、窮乏や孤独を味わうことができたのさえ、きっと、私が神に愛されているからに違いない。貧しさと、孤独を知ることなくして、どうして私たちが、真に 神を頼るということを経験的に学びえようか? 主により頼む必要もないほどに安楽な生活の中で、どうやって、心を尽くして主を愛することを学びえようか?  …これは決して、耐貧生活の勧めではない。私自身は、いつも楽な人生を生きていきたいと願っているのだが、主ご自身が、私の前に困難を置かれる。主からの十字架は、貧しさと孤独を伴うことが多いが、主が共におられるので、それは私にとってただの苦役ではない。

我が主よ、私の助け主は、まことに、あなたお一人です。あなたが私にとって道なのです。私はあなたにより頼みます。ただ主にだけ、しっかりと目を注ぎたい と心から願っています。だから、私の心が、別のものに奪われることのないよう、守って下さい。主よ、どうか私の心を占有して下さい。私の保護者はあなたを おいて他にないことを、どうかはっきりと世に表して下さい。私を緑の牧場へいざない、私に憩いを与えて下さるのは、主よ、あなたであることを、どうか何人 も否定できないように、はっきりと示して下さい。

<2016年追記>

以上の文章を書いてから今日に至るまで、筆者の考えはそう大きくは変わらない。それどころか、筆者を取り巻く状況は、信者の状況とこの国の情勢なども含めて、圧倒的に悪くなった。2009年8月30日、政権交代の日に見えていた展望は、もはや二度と取り返せないほどまでに遠のいた。あの頃、信者の間に高まっていた聖潔への願い、嘘、不法、虐げ、搾取を非難する声は、もう絶えて聞かれなくなった。その上、3.11があった。

もし信者さえしっかりしていれば、このように絶望的な結末は避けられたのではないか、もっと偉大なことが出来たのではないか、この国の進路も変え得たのではないのか、という思いが心に去来することもある。

だが、多分、そうではないのだと思う。まず、我が国は、3.11で滅んでいてもおかしくなかった、ということを念頭に置いておくのは有益である。神の憐れみが注がれたとしか言えない出来事があった。これは、まだ信者にやらねばならないことが残っていることを示しているように思う。だから、何も進んでいないように見えるのは、ほんの見かけだけのことである。逆に、時代が暗くなって行けば行くほど、信者の持っている証の光が明るく輝くようになる。

たとえ我が国は天文学的借金だけを抱え、破滅に瀕しているのだとしても、信者の生活はそれとは関係ないところに存在している。我々の立脚点は、地ではなく、天にあるからだ。

相変わらず、同じところを行き来しているように見えても、筆者の生活は、ここ数年で少しばかり拡大した。聖徒らの交わりを慕ってやって来たのに、その交わりがなくなっても、筆者の生活がそれによって窮乏したり、打撃を受けることはなく、かえって神のみを見上げ、神のみに従う信仰生活を養うことができ、進歩があったほどであった。だが、今やもっと高い展望、もっと壮大な展望が欲しくて仕方がない。

多くの兄弟姉妹がすでに関東からも、この地をも去った。だが、このような時代の暗い展望の只中で、それでもここに残って主の証を掲げるのだから、それにふさわしいビジョンが欲しいと思われてならない。信仰によって、御心にかなう新たな聖徒の出現を願わずにいられない。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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