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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主を知ることの喜び

「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇りとせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行って いる者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。(エレミヤ9:23-24)

一応、以前に書いていた文章を末尾に残しておこう。

この当時、筆者はまだ世人と同じような生活を自分も送るのだと考えていた。人並みの生活、人並みの幸福、人並みの安定…、そういった誰でも心に抱きうる生活向上というビジョン以上のはっきりした目的意識をまだ持っていなかったのである。

エクレシアに託していた夢も、まだ明確な展望に欠けるものであり、信徒らの交わりに加えられた後、一体、そこで何が築き上げられて行くのか、自分はその交わりに何を望むのか、そこから何を始めたいのか、その先の展望について見えているものが少なかった。そうこうしているうちに、様々な事情で、当時あった交わりはみな散会して行ったのである。

だから、今、筆者がここに置かれ、生きているのは、当初、考えていたような目的のためではない、と思わずにいられない。まず、誰でも心に抱きうる安定的で幸福な個人生活というものを、もはや目的のように考えることはできない。それは、それらが与えられないためではなく、それらを持っていても、人は幸福であるとは限らないこと、それが目標になるほどの価値を持たないことを知っているからである。

エクレシアについても、真に十字架の死と復活を経て、試練を経て自己を取り扱われ、燃えるような心を持った人々の出現が必要ではないかと思う。もしかすると、そのためには、この国の状態がさらに悪化することが必要なのかも知れないとさえ思うこともある。

豊かで平和な生活において有り余った余暇を活用するといったような、まるで世人の社交クラブやサークルのような感覚で、信徒の交わりを求める人々はもう必要ない。そういう人々がどれほど数多く出現しても、世には何の効果ももたらされないであろう。そういうものとは全く異なる、御霊による交わりが必要である。悪魔にとって真の脅威となり、荒れ野に命の泉を注ぎだし、暗闇の勢力の支配を後退させるような真の衝撃力を持った聖徒らの交わりが必要なのである。

さらに、地上でどういう生活を送るかよりも、筆者は、霊的に信者が果たすべき役割というものをもっと知りたいと思わずにいられない。信者には、霊において統治するという、極めて重大な責務が与えられている。本当は、そこからこそ、信者の地上の生活も始まらなければならない。だが、この霊の統治について知っている人は、信者の中にも、ほとんどいない。キリスト教はあまりにも世の方ばかりを向いて、絶えず慈善事業と伝道活動に明け暮れ、信者の内面における信仰の進歩について、参考材料となるものをほとんど残していない。

聖化、栄化されること、キリストの身丈まで成長し、キリストの似姿に変えられること…、新しい人としての信者の歩みには、進歩の過程があって、いつまでも幼子のままとどまっていることは望ましくない、ということは、誰しも信者ならば知っている。ところが、信仰生活において成長するとは、一体、具体的に何を意味するのかということになると、単なる抽象論や、道徳的進歩といったこの世的な概念を超えて、語れる人間がいないのだ。

だから、教科書がないところで、御霊の導きだけを頼りに、この課題を学んで行かなければならない。だが、この内的刷新、キリストにある新しい人のさらなる成長と前進というテーマ以上に、宇宙的重大性を帯びた事柄はないのではないかと筆者は思う。たとえそれが一人一人の個々の信者の内面で起きることであっても、それはエクレシア全体に直結しているように思う。

それなのに、信者が外側の活動にばかり明け暮れて、自分の内面の変化や刷新にほとんど注意を払わないことは、悪魔の思う壺だと思われてならない。どんな仕事に就いて、どれだけの賃金をもらうかなどといった、信仰などなくても誰でも理解できる世的な話よりも、御霊による刷新と、内面の変化、キリストに似た造り替え、霊的創造と、霊的統治、天の経済、こういったテーマの方がはるかに死活的重要性を帯びているように思われてならない。

多くの人々は、色々なことを始める領域が間違っているのである。地から始めるのでなく、天から始めるのでなければならない。そのために、天的ビジョンが必要になるのである。御霊から始めなければならないのである。

神の国の統治をこの地上にいるうちに生きて知りたいと思わずにいられない。

だが、もしかすると、信者は自分自身の霊的成長という課題以上に、これを脇に置いてでも、キリストご自身の人格を見つめ、そこに思いを馳せるべきなのであろう。人はその見る者に同化するからだ。我々が見つめるべきは、キリストご自身である。キリストは今日も生きておられる。そして、御霊を通して、ご自身を信じる者に現し、分かち与えることがおできになるのである。 

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<2010年>

今日は休日を家で過ごし、家事に専念する。

弁護士から書面が届いた。昨年秋に起こった私のバイクの盗難事件の示談の件である(犯人は複数である)。私はこのところ忙しすぎて、この件は、ただ心にひっかかっていただけであったが、主は私が失ったものの何一つ、お忘れになっておられなかった。感謝である。

さらに、この間の資格取得試験にも、合格できたようで、万歳、ハレルヤだ。不思議なことに、職場では、最近、巨大な病巣が切除されたかのように、急に空気 がすっきりして、過ごしやすくなった。何があったのか、なかったのか知らないが、今までのように、重要な物事が全て、闇の中で決められていくというよう な、あの曖昧さ、後ろ暗さが、次第に取り払われ、組織全体が、今、一つの司令塔の下で、一つの目標に向かって、すっきりと明確に、統一的に動かされるよう に、変わって来ているように感じられる。

これほど不安定な生活を送っているにも関わらず、どうしてそう思えるのか、不思議だが、私は、自分の人生が主の憐れみにより、以前よりも、はるかに恵みに 満ちるようになる日も、そう遠くはないように感じる。一度、完全に失ってしまったかのように思われた人生設計を、もう一度、もっと良い形で、手中にする日 も、そう遠くないだろう。

けれども、そうならない前に、私は主を信じ、あがめ、たたえます。主よ、願うことはただ一つ、私が迷うことなく、まっすぐな道を行くことができますよう に。主よ、あなたが私の道の光となって下さいますように。私が転びそうになる時、迷いそうになる時、主よ、あなたが御手を伸べて、私を支えて下さいますよ うに。私はこの先、何を得たとしても、誇りません、知恵も、成功も、富も…。ただ誇るべきはキリストの十字架だけなのです。私が苦難によって砕かれたのは 良いことでした。主を知ること以上の喜び、恵みはこの地にはないからです。どうかあなたの憐れみにより、私が経験を通じて、十字架にふさわしく、さらにへ りくだった者とされますように。
 

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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