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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ルツ記(1)

最近、主の導きなのか、ルツ記をもう一度読む機会を与えられた。ルツ記のたくさんの部分が、私自身の人生と重なり合う。リチャードさんのブログ、また、オリーブ園に、T.オースチンスパークス著『ルツ記注解』という味わい深い記事が掲載されているのでどうぞ。

ルツの生きていた時代は、さばきつかさたちの治めていた時代であった。その頃、国には統一的な権力(王)がなく、権力が分散し、治安は乱れていた。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(士師記21:25)

オースチンスパークスの指摘によると、「士師記は全聖書の中で最も恐ろしい本の一つである」ということだそうである。「そうです、暗く恐ろしい状況、時にはひどく邪悪ですらある状況が、存在していました。それらの状況は、想像を絶することを神の民は行いうること、人の心の内奥の邪悪さ、御民が達しうる神の御思いからかけはなれた立場を示しています。」

主の民を治めるために、権威として立てられたはずの人々が、民を正しく治めることができず、民もまた、それぞれが勝手な好みに従って、偶像崇拝の教えの風に吹き回されていた。このように混乱した社会をちょうど今、私たちは目の当たりに見ている。

社会の乱れた情勢に加えて、さらに、国を飢饉が襲った。前にも述べたように、この飢饉は霊的飢饉をも指している。社会不安の背後には、必ずと言っていいほ ど、霊的飢饉が存在する。主の民をとりまく社会は、全てが焼け野原になる直前のような有様であった。オースチンスパークスは言う、「すべてがこう言っているようです、『この状況は霊的に望みがありません。これは霊的災厄の最終段階です』」

団体としての主の民は、神の御心に背き、自分の好みだけに従って生活するようになると、神から得られるはずであった祝福を失って、霊的飢餓状態に陥ってしまう。これは今日、クリスチャンの間で、顕著に見られる光景である。

「旧経綸でこれが文字通り歴史的に起きたのと同じように、今も霊的に起きていることがわかります。私たちの 食物――私たちの霊的資源、豊かさ、増加、拡大――の量は、私たちが神の御思いに同形化される程度によります。これが支配的原則です。今日、大きな霊的飢 饉があります。

そうです、主の民は今日とても飢えています。まさに餓死寸前です。どこへ行っても、『私たちはパンを見つけることができません。霊の食物を見つけるのは困 難です。御言葉を聞くことの飢饉です』という不平を聞きます。ご存じのように、…聖書学校がたくさんあるかもしれませんが、人々は依然として飢えているか もしれません。…真の霊の食物が不足しています。その大きな理由は、御民に関する神の完全な御思いが行われておらず、支配していないことです。」


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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