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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ルツ記(3)

エリメレクの一家が悲劇に巻き込まれたのは、主の民の大半が犯した過ちの路線に沿ったものであった。オースチンスパークスは言う、「この悲劇は、主の御心にしたがっていない主の民の側の一般的状況に、善良な人々が巻き込まれたものです。…このエリメレクという人は落胆し、…信仰を失いました。…そして、悲劇に至る恐ろしい過ちを犯しました――それは主の民の状態のせいだったのです。」

「主の民の状況が、主の民の各個人とその生活に、とても悲劇的な影響を団体的に及ぼすことがわかるでしょう。」

神の民が正しい状態にない時、教会から当然受けられるはずの助けを受けることができず、そこに命を見いだせず、恵みを見いだせず、追い詰められた人たちは、絶望しながら、信仰まで捨てて教会を離れ去って行く。今日でも、こうした現象がどれほど多く見いだせるだろうか。

オースチンスパークスは言う、「キリスト教は、決して神の御旨ではない多くのもの、最初の時の状況が続いていたら決して存在しなかったであろう多くのものを、取り入れてきました。このキリスト教に彼らは巻き込まれたのです。」

「ですからここでは、親切で立派な良い人々、心の中で神を畏れている人々が、恐ろしい悲劇の線に沿って出て行きます。それは、その国が間違っていたせいであり、その集団が間違っていたせいでした。このような状況でした。」


状況だけを見るならば、エリメレクが異教の地へ赴いたのは、民全体の堕落のせいであった。だが、状況がどうあれ、彼が自ら信仰を捨て去った こと、神から与えられた嗣業を、自分が契約の民とされていることのアイデンティティを、自ら捨て去ろうとしたことの刈り取りは、まことに厳しいものであっ た。彼は自分の天然の命をつなごうとして、かえって、それを失ってしまった。息子たちも、異教の女を妻にめとり、子供も残さず、若死にしてしまった。エリ メレクとナオミの一家は、異教の地で、持っていたはずのものまで失ってしまった。

残された女たちは、以前に持っていた計画の全てを手放して、手ぶらで、涙のうちにふるさとへと向かう、すなわち、信仰へと帰って行った…。

 
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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