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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ただ神がキリストをご覧になるように…(1)

『私はキリストとともに十字架につけられました。』
ガラテヤ2:20


罪だけでなく、物事の見方すべてをも
喜んで手放すようになるまでは、
イエス・キリストと結ばれていることにはならない。

神の御霊によって生まれ変わるということは、
つかむ前に手放すという意味である。
そして初期の段階では
それはすべての見せかけを放棄することである。

われわれの主がわれわれから求めておられる事は、
われわれの誠実さや正直さや努力ではなく、
正真正銘の罪である。
主がわれわれから受け取ることができるものは
それだけである。

そしてわれわれの罪の代わりに
主は何を与えてくださるか。
正真正銘の義である。

しかし、われわれは
自分が何か価値があるかのような見せかけのすべてを、
かつ神に目を止めていただく価値があるという
主張のすべてを放棄しなければならない。
続いて神の御霊はその後
何を放棄すべきかを示してくださる。

自分には権利があると言う主張を
すべての局面において放棄しなければならなくなるだろう。
私は自分が所有するもののすべて、
私が愛着をもっているものすべて、
すべてのことに関する自らの権利を放棄して、
イエス・キリストの死と結ばれる用意があるだろうか。 

われわれが放棄する前に
常にするどい痛みを伴う幻滅を経験する。

主がご覧になるごとくに人が自分を見るようになると、
その人に衝撃を与えるものはいまわしい肉の罪ではなく、
イエス・キリストに逆らう
自らの心のプライドという恐ろしい性質である。

主の光の中で自らを見ると、
恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じるようになる。

放棄という問題にぶつかっているのなら、
危機的状況の中ですべてを放棄せよ。
そうすれば、神があなたに求めておられるに
相応しい者へとあなたを変えてくださる。


これはアッセンブリーズ信者から紹介されたオズワルド・チェンバースの言葉だが、筆者はあまりこういう言辞が好きではない。あまりにも道徳的すぎるからである。

確かに、もっともらしく書かれており、ある程度までは正しい内容も含まれていると言える。いや、全体としては、本当に正しいのかさえよく分からない。教訓的に過ぎるこの調子が、何かがおかしいと思わせるのである。詳しいことは以下で見て行こう。
 
何よりも、一番問題なのは、この言葉自体よりも、このような言葉を語る人(チェンバースを含め、霊的先人の道徳的な言葉をしきりに引用して他の信者に聞かせたがる人たち)は、ほとんどの場合、それを自分に向かっては語らず、自分には適用もせずに、自分でできてもいないことを、他人に向かって語りたがる点である。

しかも、その人たちを見ていると、このような素晴らしい言葉を引用している自分自身に、自己陶酔しながら、その引用文を他人に向かって語り、語っただけで、あたかも自分はそれをすでに成し遂げたような気になってしまっているとしか見えないのである。

それが、筆者にとって、こうした言葉を信者に向かって語りたがる人々の、最も許しがたい悪質な偽善と映るのであった。

なぜ引用ばかり語りたがるのか? 
なぜ、自分ができもしないことをできているかのように、見せびらかすのか?
自分で自分の罪を克服するよう努力していますとアピールするために引用しているのではないのか?

本当に実行するつもりがあるなら、黙して、他人に向かって語る前に己が実行せよ、と思ってしまう。

グリーティングカードに記された無意味な愛の言葉のように、良さそうな文章をしきりに引用しては、クジャクの羽をつけたカラスのように舞い踊るのは、あまりにも愚かな所業だと思われてならなかった。

どんなに他者の言葉を数多く引用しても、それは自分のものにはならなない。
ある意味、社是や社訓のようなものである。
毎日、どれほど題目として唱和しても、それだけでは、決して人の内面に染み込んで行かないのである。

言葉自体は、非常にもっともらしく響くかも知れないが、まるで添加物を含んだ人工甘味料のように、何かがわざとらしく不自然で、心に浸透しないのである。
 
たとえば、こんな風に書かれている、

主がご覧になるごとくに人が自分を見るようになると、
その人に衝撃を与えるものはいまわしい肉の罪ではなく、
イエス・キリストに逆らう
自らの心のプライドという恐ろしい性質である。

主の光の中で自らを見ると、
恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じるようになる。


本当にそうだろうか?
こういうもっともらしい言葉を他人に向かって引用する人が、真に自己のプライドの恐ろしさを直視し、「恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じ」ながら、自分自身を眺めていたことが一度でもあったろうか?

むしろ、こういう実にもっともらしい、あたかも自己反省したかのような文面を多用することで、「私は自分の罪を悔い改めました」というパフォーマンスを人前で行い、それによってかえって自分の本当の見るべき醜さに手軽に蓋をして、己が罪には見て見ぬふりをし、「罪の悔い改めの儀式はもう済んだから、私は大丈夫」という自己安堵・自己肯定・自己欺瞞に浸っているのではないかという気がしてならない。

チェンバースには悪いのだが、こんな風にまるで他人事か第三者のように書かれた客観的な文章を通して、己の罪を真に主観的に自覚して悔い改めるような人間は、多分、一人もいないのではないかという気がしてならない。

筆者は、これとは全く違うことを言いたい。主がご覧になるごとく自分を見るようになると、人は自分で自分を赦せるようになる、と。

むろん、筆者も人類の一人として、自分で自分の足りなさや失敗を数え、悩みそうになることがないわけではない。「イエス・キリストに逆らう自らの心のプライド」などというものは、私には全くありません、などと豪語する気もない。だが、それでも、主が共におられ、小羊の流された血潮が私を覆っている、という事実を見る時、良心の呵責は去り、魂は悩みから引き上げられて軽くなり、自分で自分を決して責めることなく、自分の弱さをも失敗をも恥じることなく、神の御手に全幅の信頼を持って自分自身を委ねることができるようになる。

さらに、主がご覧になるごとく自分を見るようになるとき、そこには、もはや自分はいないのである。

「もはや私が生きているのではなく・・・」

神は今や、キリストをご覧になるように、信者をご覧になって、その完全さに満足される。神の信者に向けられる愛と満足の眼差しは、キリストに注がれるのと何ら変わらない。その眼差しを、たとえ肉眼で見ることができずとも、筆者は信仰の目によって確かに見るのである。そうすると、贖われてキリストのものとされた新しい自分自身に対する神の満足が、筆者自身の満足にもなって心に流れ込んで来るのである。

これは決して根拠なき自己満足や自惚れではないのである。なぜなら、これは古き人の自己肯定ではなく、古き人は十字架において裁かれて死に、今やキリストにある新しい人だけが存在するからである。

この新しいアイデンティティを掴むこと、キリストにある新しい人格に生きることこそ、信者にとって必要であり、いつまでも、古き自分がいかに神の御前に無価値であるかという懺悔の言葉だけを延々と繰り返し続けるのは、有害であり、無益である。

さらに、

罪だけでなく、物事の見方すべてをも
喜んで手放すようになるまでは、
イエス・キリストと結ばれていることにはならない。

こういったチェンバースの言葉も、もっともらしく響く陰で、非常に胡散臭く感じられる。もし文字通り、信者に当てはめるなら、「イエス・キリストと結ばれていることになる」信者はこの世に一人もいなくなるのではなかろうか。

「物事の見方すべてをも喜んで手放すようにならない限り、
イエス・キリストと信者が結ばれていることにはならない」

などという言葉の根拠が、聖書にあるとは思えない。
だから、これは一種の嘘であり、過度な自己放棄の勧めであり、強迫観念のような自己放棄願望を信者の中に生むだけに終わると思われてならない。
 
筆者は今でも多くの場面で、まだ自分自身の判断を留保していたり、人間的なものの考え方をしていたり、古き人を生きていた時代に培った常識が御霊の知恵の妨げになったりすることを経験している。

神の知恵と人の知恵は、多くの点で異なっており、たとえ御霊の導きがあっても、信者はついつい人間的な思いや常識で物事を判断しそうになることがあるのだ。

その意味で、人がキリストと結ばれていても、キリストの思い、御心からかけ離れた行動をしてしまうということは往々にしてあり得る。

だが、造り替えは進行中である。その過程で、信者は徐々に学んで行かなければならない。ついには、信者はたとえ常識にかなっているように思われたとしても、神の知恵に逆らう考えは全て手放さなくてはならない。その点では、チェンバースの述べている内容を全否定するわけではない。

だが、信者の中で、その思考の造り替えがまだ完全に進行しておらず、信者が古き人の時代に培った多くの物の見方を留保しているからと言って、それが故意でもないのに、その信者が、「物事の見方すべてをも喜んで手放すようにな」っていないから、「イエス・キリストと結ばれていることにならない」とまで断言できるであろうか?

いや、それは一種の暴論・極論と呼ぶべきものである。

たとえ生まれたての幼子のようなクリスチャンで、まだ御霊の導きや、霊と肉の区別など、多くのことをはっきりと識別できていなくとも、それでも、御霊によって生まれ、御言葉の中にとどまっているクリスチャンは、イエス・キリストに結ばれているのである。その信者が知らずに犯した数々の過ちも、血潮によって清められていることも、言うまでもない。

だから、信者は安心して、自分の内に生まれた新しい人を、神ご自身が成長させて下さるのに信頼して任せれば良いのであって、「あれも手放さなければならない。これも手放さなければならない。早く罪深い古き人の物の見方と訣別しなければならないのに、未だにそれができていない私は、何と罪深い人間だろうか!こんな調子では、私はイエス・キリストと結ばれている信者とは呼べないのではないか!」などと考えて自責の念に陥る必要はないのである。

信者が神にあって何を手放すべきかも、御霊が教えてくれる。神に従いたいという願いが本当でありさえするならば、御霊の示しに従い、自然に振る舞えば良いのである。たとえ失敗しても、血潮に戻るだけで良い。そこに自責の念は一切必要ない。まして主に心から従いたいと思っているのに、自分の失敗のために、キリストから切り離されていると思う必要はない(信者が自らそのようなことを認めるならば、本当に主から切り離されてしまうであろう。)
 
だから、以上のようなことを考慮しても、キリスト教界にいる信者が好んで使いたがる上記のような引用文に、筆者はどうにも首をかしげざるを得ないのである。罪の懺悔のパフォーマンスのためだけにそうした文章が使われているように思えてならず、ひたすら古き人の罪深さばかりを語り続けるその文章の内容からは、本当の意味での神の赦しや、神に受け入れられているという事実が見えて来ず、かえってその喜びが覆い隠されて行くように思われてならないからだ。

送られて来たチェンバースの文章には、前後関係がないため、全体の文脈は分からないが、一部だけ取ってみても、どうにも御言葉に沿っているとは思えない承服しがたい数々の点がある。
 
繰り返して言っておく。神がご覧になるように、自分自身を見るようになるとき、キリスト者は、自分がキリストに似た者とされ、キリストと全く同じように、神に受け入れられ、神に愛され、神が自分に満足されていることを知る。そのように自分を見るようになるとき、初めて、人間は、神が人を造られた本来の目的と、人本来のありようを知って、神の被造物としての自己の尊厳を取り戻して、自分に満足し、自分を適切に愛することができる。

神を抜きにして、人の尊厳が真に回復されることは決してあり得ず、神を抜きにした人の自己愛は罪深いものでしかないが、神の眼差しを通して、人が贖われた自分を見る時、人は一切のもがきをやめて、悩みの荷を下ろし、自分自身に真に満足し、神がおっしゃられるように、自分に「はなはだ良い」と言えるようになるのである。その時、人の自分自身への愛は、もはや罪深いものではなく、健全な自己愛へと立て直される。このキリストにある新しい人へのアイデンティティの転換と、健全で、神の御心にかなう新しい自分自身への愛と満足は、キリスト者の信仰生活にとって極めて重要かつ基本的な要素である。
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