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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ただ神がキリストをご覧になるように…(2)

「私はキリストと共に十字架で死んだ、
もはや私が生きているのではない。
キリストが私の内に生きておられる。
私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、
私のためにご自身を与えて下さった神の御子の信仰によって、
生きているのです」

 
やはり、記事を読み返して行くと、前述のオズワルド・チェンバースの言葉などは、信者が信者を精神的に恫喝して「弟子化」して支配するための悪しきツールとして使われていたのだということを感じざるを得ない。

つまり、他の信者の心の罪悪感を刺激し、そのままではいけないと思わせて、襟を正させるような内容の文章を突きつけることによって、ある信者が、他の信者の心に巧みに入り込み、影響力を行使するきっかけを得るために、そのような文章が利用されているのである。

チェンバースの言葉は、キリスト教界で生まれ育ったようなクリスチャンには、まさに「はっとさせられる」内容である。今だからこそ、筆者はそれを虚偽として撃退できるのであるが、紹介させられた当初は、疑うことがなかったし、ほとんどの信者は、その文章の何が悪いのか、理解できまいと思う。

むろん、こうした文章を利用して、信者を「弟子化」する人たちは、自分たちが悪いことをしているのだという自覚はない。引用している文章がもっともらしく、良さそうに見えれば見えるほど、自分は有益で良いアドバイスを他人に与えているのだと思うようになる。まさか他の信者を精神的に支配するための突破口として、他人の「良さそうな」文章をタダで利用しているのだとは、自分では全く気付いていない。

だが、筆者は、ウォッチマン・ニーを筆者に紹介した信者からも「弟子化」されそうになったし、オズワルド・チェンバースの言葉を筆者に紹介した信者からも「弟子化」されそうになった。そのような経験を重ね合わせると、やはり、これらの引用文は、信者を精神的に恫喝して、罪の意識を抱かせることで、その心の弱みにつけこんで、指導的な立場を得るために利用されたのだと思わずにいられないのである。

解放することが目的で書かれた文章ではなく、拘束して支配するために書かれた文章だと思わずにいられない。

チェンバースの言葉を筆者に紹介した信者からの、筆者への罪定めと、精神的支配の圧力は、かなり長い間、続いた。そうした付き合いの果てに、もう本当に筆者はその人の説教がましさ、余計なお節介、善良なふりをした厚かましさに、うんざりしたので、今となって、初めて、チェンバースの言葉も含め、そうした一切の助言を、嫌悪感と共に、また、単に感情論だけでなく、御言葉の根拠に基づいて、ことごとく退けることができるのである。

その信者は、筆者以外の他の信者に対しても、同じように、チェンバースの言葉を紹介して、精神的に「弟子化」しているのであった。チェンバースの言葉に心打たれた人は、それをきっかけとして、それを教えてくれた信者に心酔するようになる。チェンバースのみならず、ある時には、ウォッチマン・ニーを引用していたり、ペン-ルイスを引用していたりもした。ウォッチマン・ニーには随分、心酔していた様子である。

長い間、交わっているうちに、どうしてそんなに引用ばかりするのかと、不審に思えて来て、「なぜあなたはちゃんと自分の言葉で語らないのですか」と問うたこともある。

筆者は大体、次のような警告を放った、「文章というのは、書き手が自ら代価(犠牲)を払って得た教訓しか、本物にならないんですよ。他人の言葉をどんなに引用しても、しょせん、それは他人の言葉ですから、自分が代価を払っていないものを勝手に借用するのは、剽窃のようなもので、そういう盗みにも似たやり方で、どんなに素晴らしい他者の引用文をたくさん繰り返しても、しょせん、自分のものにならないんです。そういうことをすればするほど、立派な引用文に自分でも騙されて、自分が飛躍的に素晴らしい人間になったかのような錯覚が生まれ、自分は本当はどんな人間なのか、分からなくなっていくんです。そんな恐ろしい錯覚しか生まない引用なんか、もうやめてしまったらどうですか」

だが、結局、その人は引用をやめることができなかった。良さそうな材料を見ると、見境なく飛びついてしまう衝動を、どうしても、抑えることができなかったのである。そうこうしているうちに、そこに異端の教えも入って来て、とんでもないごった煮のような状況が出来上がってしまった。だが、そうなっても、まだ聖書から著しく遠ざかっていることに気づいておらず、かえってその「良さそうな文章」を手放すよう警告した筆者のような人間を間違っていると考えて憎む始末だから、全く手に負えない嘆かわしい事態である。

筆者は、今になって、その人はただ悪霊に出入り自由な通路として使われていただけなのだと分かる。見境のない引用というのは、悪霊に利用される入り口にしかならないのである。悪霊は、決して、誰にでも悪霊と分かるようなやり方で、人に近づいたりはしない。多くの場合、それは非常に「良さそうな教え」の形を取ってやって来る。

筆者も知らずにその人に接近し、チェンバースの言葉がきっかけとなって、危うく弟子化されるところであったが、すでに述べた通り、今になってよくよく吟味してみると、ただその人に問題があっただけでなく、チェンバースの言葉自体の中にも、どうにも人に過度な罪悪感を抱かせ、過度に信者に自己否定・自己放棄させようとするような、聖書に合致しない強迫観念のような教えが含まれていることを感じざるを得ないのである。
 
そのような文章ばかり読み続けていると、まるで自分が手術台に乗せられて、「ここも悪い。あそこも悪い。あなたは腫瘍だらけだ。みな切除せねば」と医者に言われて、切り刻まれようとしているような感覚になって、喜びがなくなり、眩暈がして来て、全く自分が神に受け入れられているという実感までもなくなってしまう。だから、どうしても、これは何かがおかしいぞという気がしてならず、その強引で危険な手術が始まる前に、手術台から飛び降りて逃亡しないわけにいかなくなるのである。

筆者は、オズワルド・チェンバースがどういう人間なのかはほとんど知らないし、彼が正しい信仰者だったのかどうかについて論じるつもりもない。それは、ウォッチマン・ニーについても同じである。信仰者一人一人の人生については、多くの謎があり、彼らが神の使いなのか悪魔の使いなのかなどといった単純な図式で議論しても仕方がなく、どんなに資料を積んで調べてみたところで、決して断言できない多くの部分が残されるであろう。

だが、たとえ彼らが神の僕であったとしても、彼らの文章が信者によって利用されて、他の信者に使われる時に、そこに、信者に罪悪感を与えて心を支配しようとする隠れた目的が巧みに入り込み、その影響力を、見抜いて退けなければならない場合が存在することは確かである。だから、そんな風にして、誰かに「弟子化」されて精神的に支配されたくなければ、信者は彼らの支配にとっかかりを与えるような罪悪感を心に持たないに越したことはない。

そもそも罪悪感、自己憐憫、理不尽だという思い、赦せない思い、などなど、何かの突破口がなければ、暗闇の勢力は、信者の心の中に侵入して、足がかりを持てない。

最も利用されやすいものが、罪悪感であり、信者が暗闇の勢力につけこまれる入り口となる罪悪感を持たないことは、ただ主イエスの血潮の絶対的な清めを確固として握ることによってのみ可能となる。

だから、古き人がいかに罪深く、恐ろしいものであるか、云々、などといった話をたとえクリスチャンから延々と聞かされても、信者はそれに脅されることなく、自分に対する神の絶対的な赦しと清め、キリストにある新しい人としての再生を、確固として握り、これを提示することで、無用な罪悪感を退けるべきである。

確かに、信者の古き人は徐々に対処されねばならない部分もある。だが、それは御霊が信者個人の内側で自然になす働きであって、外から誰かが再教育や切開手術のような形で、刺激や感化を与えて他者を変化させるのではないのである。

だから、たとえ「あなたは未だに古き人の領域を生きていますね」などと人からお節介な忠告を受けても、決してすぐに耳を貸さないことである。本当にそうなのかどうかは、神だけが知っておられる。あなたの中で何が対処されるべきなのかは、人ではなく、神が知っておられる。だから、静かに神と向き合って、神に尋ねるべきである。

筆者は今でも、霊的先人の言葉の引用をしないわけではないが、できるだけ最小限度に抑え、相当に吟味することにしている。だが、何より、筆者の基本姿勢は、すべての文章を自分で書くことである。むろん、その中に誤りもあるかも知れないし、未熟さがないとは言えない。だが、多くのことが、自分にはまだよく分かっておらず、模索中であることをもきちんと理解した上で、それでも、ありったけの誠実さを持って、自分で書くのが一番だと言える。

そのようにしていると、読み返した時に、自分の思考にどんな足りないところがあったのか、どんな危険がその当時、自分を取り巻いていたのか、どの程度、信仰に前進があったかなども、よく分かるようになる。
 
何よりも、文章というのは、信者が他の信者に向かって、もっともらしく正しく聞こえる内容を言い聞かせて、自分を飾るためのパフォーマンスではないのである。筆者は、信仰の証は、ただ神に向けて心の願いを率直に打ち明け、暗闇の勢力に向かってはキリストの勝利を宣言し、霊的に自分自身の立ち位置をしっかりと固め、姿勢を正しながら、御言葉の正しさを全ての造られた者に向かって宣言し、神に栄光を帰することを目的として書けば良いのだと思っている。その基本姿勢さえ揺らがなければ、たとえ信者が未熟で、多くのことをまだ自分でよく分かっていなくとも、神がちゃんと守って下さり、その証の不完全な部分さえも覆って下さる。

信者の証の文章は、神との語らい、交わりの一環でもあり、信者はそこで神の御前に虚勢を張って「正しくなろう」と努力するのではなく、そんなことよりも、神への愛と信頼と感謝を率直に語り続ける方が良い。自分がキリストによってサタンの支配から連れ出され、大いなる解放にあずかり、今や主と共に天に生きる者として、神の命の中に隠されていること、キリストのゆえに、信者の古き人はすでに死んで、今や新しい霊、新しい心が与えられ、信者は新しい人となったこと、神が信者のために、天にどれほど大きな宝を蓄えて下さっているか、どれほど豊かな命を与えて下さっているか、キリストと共に天の御国の相続人とされた信者に、将来的にどれほど大きな栄光が待ち受けているか…、などといったことを終わりなく語り続けるのである。

そうすると、良心の呵責と罪定めの意識と自責の念で霊が重くされていっぱいになる代わりに、自由と解放の喜びと感謝が溢れて来て、信者の霊が伸びやかに、軽くされる。天が近くなり、神の御顔をそば近くで拝しているような実感が生まれ、神の愛がより一層、確かなものとして身近に感じられる。自分についても健全な自信が生まれ、恐れは去って、新しい気力が沸き起こり、神の被造物として生きる喜びの中で、神に栄光を帰するために、この地に生かされているのだと実感できる。

たとえ神ご自身を見るわけでなく、霊の内にキリストをありありと実感することがなくとも、信者はそうやって自らの霊をしっかりと奮い立たせ、あるべきポジションに据えて、信仰によって神を見上げることができる。キリストにあって信者が与えられた高い地位、キリストの偉大な解放と勝利の御業、神の御業の素晴らしさを褒めたたえ、喜ぶこと、などなどは、信者の霊を伸びやかに解放するために有益な作業である。とにかく、自分自身の古き人の罪深さに耽溺して意気消沈する時間を、神を見上げ、神の真実、神の清さ、神の正しさを仰ぎ見て、神を賛美するために使うことは、信者にとって有益である。信者は自分が見るものに同化するのである。
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