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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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悪魔の作成した地上の奴隷契約を終了し、神の作成した天の自由な契約に生きる

一応、末尾に以前に書いた「契約満了」という記事を残しておく。この記事は、以下の企業がまぎれもなくブラック企業であることをよくよく示す内容である。

とはいえ、それは一部の企業に限ったことでなく、今や日本全土がブラック企業化している。筆者は、政府、独立行政法人、等々の組織も見て来たが、公の組織も全く例外ではない。

公的団体においても悪徳企業とまるで差のない現状が広がっており、法令違反は日常茶飯事であり、末端の人々は虐げられ、歪んだ労働条件の下で、未来のない生活を強いられている。その搾取が民間企業から始まったものであるのかどうかは怪しい。むしろ、政府や公的団体の腐敗と、民間企業との癒着・腐敗こそが、民間企業のブラック化となって反映しているのだと言うのが事実であろう。

異教のアハブ三世に率いられる我が国は、「美しい国」という偽りのユートピアを掲げて、是正されるどころか、ますます悪化の一途を辿っている。

まさに黙示録で警告されている通り、地上の経済はバビロン化し、反キリストの手に委ねられる時が刻一刻と近づいて来ているのを感じざるをえない。
 
当初は、就いた仕事が、たまたま条件の良くない仕事だっただけで、もっと良い条件を探せば、他にも希望ある選択肢があると思っていたこともあった。筆者の身近にいる信者たちが、好条件の仕事を探すように助言したこともあった。

だが、今、筆者がはっきり言えるのは、筆者がこれまで見て来たような有様は、日本の経済界(政財官すべて)がバビロン化して、反キリストの王国へと統合されて行く過程の一環でしかなく、この地上経済からは「エクソダス」しか道はない、ということである。

だから、もっと処世術があれば、もっと能力や知識があれば、もっとコネがあれば・・・、うまくチャンスをつかんで、社会において自分のより良い「居場所」を確保できるのに、という考えは、誤っており、幻想でしかない。

マモン(悪魔)の経済にすがっている限り、チャンスなどというものは決してやって来ない。だが、たとえ地上の経済に生きて来た人間であっても、もしキリストにあって、神に生きるためにこの腐敗した体系からのエクソダスを模索し、真実と正義を主張して一歩も譲らなければ、暗闇の勢力に打撃をこうむらせた上で、手土産くらいは持って、その世界を去ることはできる。

なぜなら、神はこの地上を悪魔のために創造されたわけではなく、この地上の目に見えるものは、たとえ滅びゆく定めにあったとしても、すべて御子の栄光のために存在するからである。だから、悪者(不信者)の富が正しい者(信者)の手に渡ることは、神の御心にかなうことである。

筆者の確信は、日本は、社会主義国としての本質を現したのだということである。この国が資本主義だったのはうわべだけのことで、市場原理主義というのは、根本的にグノーシス主義と同じ偽りのユートピアであって、それは共産主義とも同根である。これらの思想の根底に同じように、神に逆らう悪魔的な発想が潜んでいるということである。

我が国は「一億層活躍」などという題目の下、一億総プロレタリアートを目指す社会主義国となっており、その挙句の果てに、一億総奴隷的囚人労働へと向かっている。

たとえ現実には囚人でなくとも、労働者は人間の作った組織に束縛されている精神的な囚人である。どんなにひどいパワハラが行われ、どんな法令違反が行われ、たとえ賃金が支払われなくなってもなお、辞めることができない。それは彼らが心の囚人、心の奴隷だからではないのか?
 
こうしたことが、極論でないことを示すために、筆者が実際に経験したこの世の経済においてもはや日常茶飯事と化している不法な労働条件や法令違反の例を挙げておこう。
 
働いても雇用保険に加入させない、雇用契約書を渡さない、理不尽に即日解雇しておきながら労働者が自ら契約を短縮したことにして事を済ませようとする、不意に理由なく契約期間を短縮する、残業代を払わないか、あるいはピンハネする、試用期間が過ぎても本採用しない、零細企業で人を雇う余裕などないはずなのに、絶え間なく求人を続けている(=常に誰かがリストラされている)、労働時間を過ぎて帰宅しようとすると、上司に終業時刻ぴったりに仕事を終えるなど言語道断だと猛烈に叱責される、無賃労働を強いられる、始業時刻よりも30分前に皆が出勤している(当然ながら無賃労働)、電車遅延による遅刻が認められず、遅延証明書を提出しても叱責対象となる、休日出勤しても手当てが出ない、休日出勤しても代休が思うように取れない、休日に開かれる社内イベント(無給)に参加しなければ、仕事への積極性がないとみなされ叱責対象とされる、体調不良で二、三日休むとまるで犯罪でも犯したかのように叱責される、専門知識のある社員を知識のない社員たちが全員で虐め抜いて次々と退職に追い込んでいる、前任者が後任者への引継ぎを意図的に拒む、または上司が引継ぎをさせない、毎日朝礼で誰かが叱責されている、著作権侵害やその他の不法行為を黙認するような業務内容がある、社内(もしくは組織内の)規約の定めに公然と違反する業務が行われている・・・

書き出せばもう終わりがないほどである。

こうしたことが、我が国では日常茶飯事と化しているのである。適正な労働条件が守られず、不法な搾取を正当化しようと、企業や公的団体は、嘘と悪事と不法行為の温床となり、行政機関も、カルト被害者救済活動と同様に、被害者救済を自己のビジネスとし、機能していないに等しい。

この地上の経済は、あたかも、法を犯し、人を騙すことに、悦楽を感じてでもいるかのような、悪意ある仕組みとなり、時が経てば経つほど、反人間的なものとなり、自浄作用が全く働かなくなっている。そういう希望のない仕組みには、見切りをつける頃合いであろう。

筆者はこの地上の経済が悪鬼化し、荒廃して行く様子を見ながら、どうしても教会を思い出してしまうのであった。

神の御心にかなうエクレシアからはほど遠い、地上の組織としての教会は、不法な労働条件や、搾取や、リストラが横行する企業もとてもよく似ている。そのような条件下での「淘汰」において、最後まで生き残るのは、最も卑劣で、最もどうしようもない、良心の麻痺した人間だけなのである。

教会であれば、善良で心優しく、誠実に生きる信徒ほど、日曜礼拝に来なくなる。だが、鈍感で厚かましくて、心の麻痺したような、うわべだけ品行方正な、心冷たい信徒は、牧師やリーダーの覚えめでたく、最後まで我が物顔で、献金や奉仕に邁進し、教会に来なくなった信徒たちを「悪魔の虜とされた」などと言って見下す。彼らは、教会という地上的な組織に「居場所」を持っていさえすれば、自分は救いを失うことなく、大丈夫だ、と考えて安堵している。彼らにとっての救いとは、もはや主イエス・キリストの十字架を通して得られるものではなく、牧師や信徒などの人間からの承認、または地上の組織から得られる承認がなくては維持できないものへとすり替わっている・・・。

神からの救いが、いつの間にか、悪魔の用意する地上的な承認に取り替えられているのである。だから、そのような団体からの承認にすがって、それがあるために、自分たちは大丈夫だと考えているような信徒は、言っておくが、主の来臨の時には、素通りされ、地上に置き去りにされるであろう。

企業や公的団体もこれと同じで、無賃労働や長時間残業を積極的に引き受け、優秀な同僚を次々と密告して排除し、自主的に自らの各種の権利や自由を返上して、組織や団体のために奴隷的な奉仕に邁進した者だけが、出世して生き残って行く。だから、その組織からは、最も良い人間が真っ先にいなくなるのである。最も卑劣で、良心に欠ける人間たちが、自己保身の思いで抜け目なく立ち回って、上部に取り入り、同僚を蹴落として一番最後まで残り、「自分たちこそ勝者だ」などと勝ち誇っているわけだから、そんな団体にいかなる未来の希望もないことは明白である。悪人ばかりで占められた団体が、善良な行為に従事することなどあり得ない。悪人と詐欺師が互いに都合の良い嘘やおべっかを使って騙し合いながら、手に手を取り合って滅亡へ向かって行くだけである。
 
しかも、そんな様子を見ても、もはや心が痛む人もいないほどに、人心が麻痺しており、我が国に生きる人々の精神崩壊の度合いの深さを感じざるを得ない。

年越し派遣村のことで世間が大騒ぎしていたのは、今は昔である。それよりもはるかにひどい現状が広がっている今、もはや誰もそれを事件だと認識さえしておらず、騒ぐ声も聞かれない。フクシマ原発の労働者が白血病で倒れても、世間は「仕方がない」というあきらめの境地にいるのか。

ただメディアが政府に占拠されたから真実な報道が国民に届かなくなっただけでなく、どこかで何かがはっきりと変わり、悪の霊が解き放たれ、人の心に変化が起きたのだろう。つまり、我が国はどこかで一線を越え、後戻り不可能な道へ踏み出したのだ。共産主義へと。だが、社会主義国が崩壊したように、その道を歩むなら、いずれ、この国にも同じ破滅が降りかかることになる。

そうなる前に、エクソダスしなさい、ということである。
バビロンの倒壊に巻き込まれないうちに、そこからエクソダスせよ、ということである。

この国の国民である以上、国民をやめるということはせずとも、地上の悪魔的な体系から霊的にエクソダスすることが可能なのである。

それが天の経済に生きる、ということである。

主イエスも、この地上において、人としての肉体を持ち、世人と何ら変わらない制約を受けて生きておられたが、それにも関わらず、主イエスは、世人と同じように、この地上の王国のために仕え、地上への義務を果たすために生きておられたわけではなかった。

主イエスは神の権益のために、神の国の権益拡大のために地上に来られ、ただ天におられる神だけに仕えて生きられたのである。
 
だから、地上で起きている驚き呆れるような事件に注目し、これに憤慨したり、是正を訴えたりするのは、ほどほどでやめておくに越したことはない。そのようなことには何度巻き込まれても、同じ結末が待っているだけである。

そこから、エクソダスせねばならないのである。

キリスト者は、この世を超越した、神の国の霊的統治に生きるべきである。

おそらく、筆者は横浜へ来て、初めから天の経済に生きる道があったのだろうという気がしてならない。だが、それはジョージ・ミュラーが信仰だけによって孤児を養ったように、ハドソン・テイラーが中国伝道を実現する手段をただ神だけに頼ったように、一切の地上的な保障のないところで、御言葉への信仰だけを手がかりに神を頼る道である。

この道へ踏み出すためには、常識の転換が必要となる。だが、ここ一年間ほどは、筆者はその訓練をずっと受け続けて来て、その度ごとに、神の約束の確かさを思い知って来たのである。

だからこそ、言える、たとえ地上の経済を離れても、神は必ず、信者を養って下さると。蒔くことも刈ることもしない空の鳥や野の花を生かせて下さっているのと同じように、神が自ら信者を養って下さると。キリスト者は、その領域に生きねばならないのである。

筆者は以下に記したよりもはるかに「恵まれた」条件の「恵まれた」仕事もいくつも経験したが、結局、どれもこれもすべてが同じ穴の狢であることを、ついには理解せざるを得なかった。つまり、地上の組織というものに関わる限り、人の奴隷となってそこに束縛される支配関係を免れることはできず、それはキリスト者にとって神の御心に著しく反する事柄である。たとえそれが教会組織でなく、信仰とは何ら関係のない企業であれ、公的団体であれ、信者が地上の組織に束縛されることは、すなわち霊的自由を奪い取られることと同義だと理解せざるを得なかったのである。

だから、最も損失や浪費が少ないのは、信者が人の奴隷となったり、人の思惑に従って生きることを一刻も早くやめて、神に直接養われる天の経済に生きることである。それはキリスト者が牧師に従うことをやめ、地上の組織としての教会の一員であることをやめて、これらの地上的なバッジを捨てて、天におられる父からの目に見えない承認だけを受けて歩き出すのと同じである。地上のいかなる組織や団体からの承認も受けずに生きて行くことである。
 
人の奴隷となることをやめて、神に自分の全てを捧げて、自由になって歩き出しなさい。

むろん、神は少しずつ信者に学習させて下さるので、 過去に紆余曲折があったとしても、大した問題ではない。今、信者が何に価値を置いて、何を追い求めて生きているのか、神にとって重要なのはただそれだけである。

キリストだけを見上げ、キリストだけを目標に、他のものは見ないで生きなさい。

<2016年>
 
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<2010年>
 
昨日、以前にも記事に書いた上司に手続きをしてもらい、私は会社を退職してきた。詳しいいきさつは今、ここには書かないが、かなり喜ばしくない事件も手伝って、急な展開により、このような結末となった。

ただ、連日のように、人が黙って辞めていくこの会社では、私の今回の退職は、普遍的現象の一部に過ぎない。私もまた、これまで辞めて行った人々と同じよう に、黙って去って行く一人である。祝福のうちに送り出してもらうわけではなく、むしろ、会社に残る人々には、まるで戦列から脱落していく兵士のように映っ ていることだろう。しかし、これも全て主の采配の下での出来事であると私は確信を持って言えるので、不名誉と思う気持ちは全くないし、人の目は気にならな い。

私はこの業務のために全力を尽くした。可能な限りの力を振り絞って、会社の要望に応じた。(だが、会社の要望そのものが、もともと、私が逆立ちしても、応 えることのできない過剰なものであったことは確かである。)だから、今、私には何一つとして、悔いはない。これ以上、働いていれば、ただ体を壊し、判断力 が低下し、ミスを重ね、ついには病気になって終わっただろう。どんなに一生懸命、会社に尽くしたとしても、せっかくこれまで学んで来て、積み上げて来たス キルさえ、破壊されて終わってしまうのでは意味がない。

それが分かるように、ある時、業務中に、主は、私の不注意により、極端なまでの事件が、私の身に降りかかることを許され、そして、この会社での私の就業 に、この先、希望がないことを示された。だが、その時、私はこの職場にまだとても愛着を感じており、去りたくない気持ちが強かったので、何日にも渡って、 心を引き裂かれるような思いで、悩んだが、しかし、結局、事態を冷静に受け止め、導きに応じて、職場への未練を手放すことにした。その決意を実行に移した 時、完全な平安が心に与えられた。

今回、これが私の独断ではなく、主が私を守るために、愛を持って私を「クビになさった」ことの証拠として、実に嬉しいいくつかの展開が起こった。まず、主 は私の退職を実に円満に運んで下さったのだ。時期的にかなり急な話であったにも関わらず、全くの偶然にしか思えない出来事をいくつも整えて、主は私を「契 約期間満了」として下さったのである。

さらに、私には一つ、心から気がかりなことがあった。それは、私を会社に引き止めてくれた上司の心中であった。今回の私の退職は、彼の期待を、結果とし て、裏切ることになってしまう。いかに人の目は気にならないといえども、ただ尊敬するこの人のことについてだけは、私は悩んだ。彼は、日曜礼拝の件でも、 その他の件でも、どれほど私のために、色々ととりはからってくれたか分からない。どれほど優しい配慮を持って研修時代から私たち一人ひとりを見守ってくれ ただろう。その配慮を一切、無にすれば、どれほど残念な思いを味わわせてしまうだろうか…。

だが、この件についても、主は、解決を与えて下さった。この喜ばしいニュースについては、いずれまた、詳しく語る日が来るかも知れない。

最後に、この会社の名誉のために、つけ加えておこう。この会社は現在、契約社員に対して、有給休暇はきちんと法律に基づいて付与しているそうである。さら に、私の他の同期生たちも、私より随分後のことではあったが、結局、ほとんどが異動となった(異動先での彼らの活躍を願う)。この先、たとえ試用期間中で あっても、労働基準法にそぐわない即日解雇の危険が、契約社員から、完全にとり去られる日が来ることを願う。

主のなさることは全て、時にかなって美しい。こうして再び失業者となった私に、寂しさや、不安が全くないと言えば嘘になるが、主は真実な方であり、地上の どんな存在にもまして、愛をもって、私を養い、育てて下さる、私の唯一無二の、最大の保護者である。ただこのお方に、私は信頼し、人生を委ねていきたい。

肉の家族にはとても知らせる勇気が起きないこの失業のニュースを、主にある二人の兄弟姉妹は、早くも、共に喜び、祝ってくれた。ハレルヤ! こんな時で も、主は私を一人にされない! こんなことからも、主の私への愛を確かに感じるのである。私は喜びをもって主に感謝をささげ、全てのことについて、ただ主 に栄光を帰します。
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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