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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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御霊によって生きる自由――風は思いのまま吹く、それがどこから来てどこへ行くのか人は知らない

「風はその思いのままに吹き、
あなたはその音を聞くが、
それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
御霊によって生まれる者もみな、
そのとおりです。」(ヨハネ3:8)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:17-18)

 
キリスト者には、御霊による内面の造り変えの過程がある。
それは、信者がキリストに同形化され、キリストに似た者とされて行く過程である。

筆者は、キリストにある新しい人として生きるという、この栄光ある召しを、より深く知りたいと願う。この方の命、この方の人格、この方の性質を知ること―それ以上の願いは存在しない。

一体、人が地上に生まれて来るのに、キリストを知る以上に目的があるだろうか。神の花嫁たるエクレシアにふさわしく、キリストに似た者とされて行く以上に、人がこの地上に生きる醍醐味があるだろうか。

だが、それは信者が道徳的な人になることとは違い、より正しく、より立派な人になることとも違う。信者が御霊によって生かされる新たな人となること、それは従来の人間の変革の概念には全くおさまらず、どんな言葉でも説明し尽くすことはできないであろう。

キリストに似た者とされる内的刷新の過程で、おそらく信者は、それまで当たり前のように持って来た常識的なものの考え方にも、訣別を迫られることであろう。

たとえば、かつて筆者には、自分でも美徳と思っていた様々な長所があった。だが、それはこの世的な標準においてであり、神の目から見た美徳は、それとは異なる性質のものであることを知らされたのである。

筆者には、早くから、自分なりのものの考え方や、譲れない信念があり、キリスト者となってからは、殉教や、迫害といった事柄が自分とは無縁であるとも思っていなかった。

だが、それでも、一方では迫害や殉教を覚悟しながらも、他方では、筆者の中には、キリスト者として芽生えた人格と、この世の常識のもとに形成された人格が、同時に存在しているかのような状態が続いた。そして、この世で美徳とされている様々な性質を良きものとしてとらえていたがゆえに、これをキリストのゆえに手放すに至るまでに、多少の時間がかかったのであった。

たとえば、心優しく、繊細かつ敏感であるがゆえに、人との対立を嫌う思いもあり、周囲の激しい反対や妨害をくぐり抜けてでも、ただ神と差し向かいで、自分一人だけで御言葉に立ち続けて生きるほどの強さが養われるには、時間が必要であった。
 
また、潔癖で、真面目で、誠実でありたいと考えていたがゆえに、この世の信仰を持たない人々の中でもとりわけ卑劣な人々のように、自分がどれほど攻撃されても、嘲笑されたり、反対されても、決して己が非を認めることなく、あれやこれやと言い抜けながら、我欲を貫き通すほどの鉄面皮と言える大胆不敵さの持ち合わせはなかった。

だが、信仰生活を続ければ続けるほど、筆者は、神を知らない世人の不誠実さや厚顔さとは全く別の意味で、あらゆる反対や妨害を耐え抜いてでも、ただ神の権益のためだけに立ち続けるために、キリスト者にはどうしてもある種の強さと、揺るぎない自信が必要であることを思い知らされたのであった。

ただ心優しく、善良で、世間の誰からも好かれる、人と対立しない、柔軟で謙虚な自己イメージを持っているだけでは、何の役にも立たず、それは信仰者にあるべき強さとは全く無関係であり、かえって弱さにつながりかねない偽りの美徳と言っても差し支えない、早期に訣別する必要のあるものであった。
  
ただ神だけに栄光を帰して生きることが、どれほどこの世における価値観とはかけ離れた事柄であるかを、筆者は年々、思わずにいられない。

これはある意味で、厳しく、狭い道である。

この狭い道を通る過程で、以前には美徳だと思っていた様々な自己の長所すらも手放して行かざるを得ない。

実のところ、人が自分の人格の美徳だと思っているものの十中八九は、本当の美徳ではなく、世に対する恐れや、自己防衛の感情から来た印象操作でしかない。たとえば、世で謙虚さと呼ばれているもののほとんどは、真の謙虚さではなく、「出る杭は打たれる」という風潮の中で、自分が攻撃されないために、自分をあるがまま以上に低く、みすぼらしく見せかける自己防衛の手段でしかない。
 
こうした偽りの「長所」は無用なものとして手放す必要があることはもちろんだが、他の人にはない自分の専門や知識、人々に評価される様々な特技といったものですら、筆者は一つ一つ、十字架において手放して行く必要を感じた。それは誰から強いられたのでもなく、手放すとは、それらを全くなかったことにすることをも意味せず、ただそのようなものに自分を生かす力がないことを知り、そこに価値を見い出し、これを誇りとすることがもはや不可能なときが自然にやって来たのである。
 
神に従うために、本当にそこまでする必要があるのか? と問う人があるかも知れない。あなたの言っていることは、禁欲主義や、人が自分で自分を滅却しようとするむなしい自己否定の努力と、何が違うのですか? と。

筆者にも、万人を説得できるだけの上手な説明の持ち合わせはないが、それでも、使徒パウロも、キリストを知る絶大な価値のゆえに、自分が持っていた全ての肉なる長所を、まるでふん土のように無価値なものとみなした事実を挙げておきたい。

パウロは当時のユダヤ人の中でも最高と言って良いほどの宗教的なエリート教育を受けた人間であった。生まれも、受けた教育も、申し分がなかった。彼は八日目に割礼を受けた者、イスラエル民族、ベニヤミン族の出身で、生まれながらのローマ市民であり、律法を落ち度なく守るパリサイ人、へブル人の中のへブル人・・・。だが、パウロは、神の恵みによる救いの前に、キリストを知る価値のゆえに、自分がエリートとして持っていたすべての長所や特権や美徳をむなしいものとして投げ捨てたのである。

「もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。・・・しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うよういなりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」(ピリピ3:4,7-8)
 
人間の目に美徳や長所として映るものは、大抵、神の目には、無価値である。パウロの生まれながらのエリート性は、彼を神の教会の迫害者にする以外の何の効果も持たなかった。

だが、パウロが、そうした肉の誇りを無価値なものとして投げ捨てたのは、教会の迫害者としての過去を反省していることをアピールするためのパフォーマンスなどではなかった。

パウロは、キリストの人格、キリストのご性質の持つはかり知れない価値を知っていたがゆえに、地上的な人間の出自にすがりつき、それにより頼むことがどれほどむなしいことであるかをはっきりと理解していたのである。

これと同じように、筆者は、人の目にはあたかも長所と映るかも知れない自己の特徴さえ、もはやどうでも良いものとしかみなしていないのである。

筆者が知りたいのは、何よりも、キリストのご性質である。パウロが述べたように、キリストの死と復活にさらに同形化され、生きることはキリストとなるその瞬間のために、信仰によって、御子の性質を受け取りたいと願っているのだ。
 
かぐや姫の物語とは全く趣旨が異なるが、多分、キリスト者であれば、誰もがみな天の故郷に憧れて、そこへ帰る日を待ち望んでいることであろう。我々の本当の故郷は天にあるからだ。それに引き換え、地上での生まれや、経歴や、アイデンティティは、正直なところ、みなどうでも良いものばかりでしかない。天の故郷がリアリティを持って臨むに連れて、信者にとって、地上の出自や、肉の誇りはかすみ、意味が薄れて行く。

御霊は、ご自分と同じ性質のものを慕い求める。信者の内に住んで下さる御霊が、キリストの人格とご性質を追い求めるので、信者の思いも、キリストを知ることに一心に向けられるようになる。

信者の人生は、ただキリストを知るためにこそあり、それ以外の地上的な事柄は、すべて些末なことでしかない。

もし望むなら、信者には地上で世人と同様の生活を送ることもできよう。この世で尊ばれている職業に就き、立派な家を構え、子孫を増やし、財産を築き、この世の仕組みをよく理解してそこに居場所を構え、繁栄を享受することも可能であると筆者は思う。

だが、たとえそうであっても、この世を知るために費やす時間を、筆者はただ神だけに捧げ、キリストを知るために費やし、残る人生のすべてを、ただ神の栄光のためだけに捧げ尽くしたいと思わずにいられない。

それ以外の事柄は、みなどうでも良い事柄である。筆者がこれまで何者として生きて来たのか、どんな知識、どんな経験を蓄え、どれだけ人と異なる強みを持っているのか、そんなことは全くどうでも良いことである。

筆者は、そういうものを利用して、成功に至りつきたいという願いを全く持っていない。むしろ、もし神が栄光を受けられることを妨げるのであれば、そのような地上的な要素はみな無いことにして通り過ぎた方が良いと思う。

人にとってもし長所と呼ぶに値するものがあるとすれば、それはキリストのご性質だけである。キリストにどれほど同形化されたか、どれほど御子と同じ性質に与り、その似姿へと変えられたのか、どれほどキリストの思いを自分の思いとして、地上に引き下ろして生きたのか、人の人生で意味を持つものは、それ以外にはないであろう。

そういうわけで、キリストにある新しい人の性質を、筆者はより深く知りたいと願わずにいられないのだ。

ただし、この新しい人にあっては、信者が十字架において無価値なものとして捨てたように思っていた様々な要素も、以前のような形ではなく、新たな形で、ごく自然に、さりげなく、信者の新しい人格の中に統合されているものと筆者は思う。

だから、信者は自分で自分の過去を否もうと努力して、自己否定にいそしんだり、不自然な反省や懺悔をしたりする必要は全くないのである。過去に美徳であった性質は、世に対する美徳としては死んで、今度は、神に対して用いられる長所として、以前とは異なる形で、さりげなく、自然に、信者の中に生きて来ることであろう。

神の霊の重要な特長は自由である。キリスト者は主と共なる十字架を通して、この世に対して死んで、死の恐怖による悪魔の奴隷的束縛から自由とされた人々である。この自由を保ち、何によっても奪われないことが非常に重要である。

主イエスは言われた、風は思いのまま吹く、それがどこから来てどこへ行くのか人は知らない、御霊によって生まれた者も同様である、と。

これは信者の御霊にある内的な自由を指している。キリスト者は、キリストの命によって天から生まれ、束の間地上に生き、天へ帰って行く存在である。地上や、世の思惑にとらわれ、それに縛りつけられ、拘束される存在ではない。

世人は信者の姿を束の間、地上に見るだろう。そして、彼らの外見を見て、「あれはナザレのイエスだ」と、主イエスのことを噂し合ったように、信者の地上的な出自に注目して、その人となりを判断しようとするであろう。

だが、信者には、たとえ世人の目には分からなくとも、それとは異なる上からの出自があって、上からの人格があり、上からの生活がある。

主イエスは、地上におられた間、世人とは異なる生活を送られた。主はこの世におけるご自分の職業を持っておられず、ご自分の住処を持っておられず、どこに行って、何をする予定であるのか、どうやってご自分を養っておられるのか、人々には知らせなかった。世人は彼の生き様をも、目的をも理解することができなかった。それはみな上からの御霊の知恵によるものであり、御霊によらなければ、理解することのできないものだったからである。

キリスト者の人生もこれと同様である。御霊に従って生きることには、決まったスケジュールや、方法論はなく、序列もなければ、ルーチンもない。しばしば、御霊の導きは、信者自身にも、常識によっては全くおしはかることのできないものである。だが、たとえ人知や常識によって理解できないものであったとしても、そこに平安があるので、信者はそれが神から来たものであることを理解する。

霊の人は誰からもわきまえられることはないが、すべてをわきまえる、と御言葉にあるように、キリスト者が世に仕えるのではなく、世がキリスト者のために仕えねばならない、それが本当のあるべき秩序なのである。世はキリスト者を理解することができないが、キリスト者はこの世を超越した統治をこの世に対してももたらす存在である。ただそれは、ひとえに、信者が信仰によってキリストの死と復活に同形化されることによる。

そのようにして、この世がキリスト者を通して治められ、すべてのものが膝をかがめてキリストの権威に服することが、神の御心にかなう秩序なのであり、信者は神の国の秩序を地上で持ち運ぶ器であり、その秩序が信じる者の只中にすでに到来していることを、生きて証明しているのである。

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