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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

私は主によって楽しむ――自分の宝は、天にたくわえなさい。――

「あなたはもう、『見捨てられている。』と言われず、
 あなたの国はもう、『荒れ果てている。』とは言われない。
 かえって、あなたは
 『私の喜びは、彼女にある。』と呼ばれ、
 あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。
 主の喜びがあなたにあり、
 あなたの国が夫を得るからである。」(イザヤ62:4)

 
結婚して家庭生活を送る信者にとっては、この記事は、かなり不本意な内容かも知れない。

多くの信者たちが、筆者の前で自分の夫や子供たちや家庭生活を高らかに誇った。中には、筆者のみならず、独身で一人で生きる人間全般を不憫がったり、嘲笑するような人たちもいた。

家庭を構え、子孫を残すのも、確かに人の生き様の一つだろうとは思う。
しかし、既婚者の信者たちの生き様を見るにつけても、筆者はそれを手本のようにして習おうと思う動機を見いだせなかった。

配偶者に仕えて生きることが無駄だと言うわけではないが、それでもパウロが、もし人が独身でいられるならば、その方が良いと教えている意味が、筆者には分かるような気がする。もし人に捧げる時間を、神に捧げ尽くすことが可能ならば、その方が信仰者の生き方としては、より本分を全うできると思われてならない。

しかも、そう考えるのは、伴侶を持つことの素晴らしさを語る人たちをじっくり観察すると、うわべは幸福そうに見えても、常にどこかしら不自然で、心の中に言葉にならない不満を抱えているように見えてならなかったせいでもある。

むろん、一人で生きることにはそれなりの苦労がある。三つよりの糸は切れないというように、人間が支え合うことで楽になれる部分も当然ながらあるだろう。だが、家庭を持ち、伴侶に仕えて生きることには、そういった側面以上に、一人で生きる何倍もの苦労、何倍もの忍耐が要求されるように思われてならない。そして、それらの忍耐や苦労は、必ずしも、人が生きて誰しも経験しなければならないものばかりでなく、その中には、通過しなくても良い苦しみも含まれているのではないかと筆者は思うのだ。

筆者が不公平に悲観的すぎる例ばかり挙げているとお叱りを受けそうだが、実際にはそんな理由でこの記事を書いているわけではない。筆者は信者の夫婦を見る時に、彼らの間に、年々深まって行く愛を感じることは稀であった。大体、信者の夫婦を揃って目にすること自体が稀であったが(多くの場合、どちらかが救われていなかったからである)、たとえ、夫婦ともどもに信者である光景を目にしたとしても、そこに真に注目に値する愛を見ることは稀であった。

たとえば、人格的な魅力の全く感じられない不誠実な人間から、自分たちの夫婦仲はとても良いのだと聞かされても、説得力がない。そればかりか、その人の子供たちが、信仰を持つこともなく、断絶状態のように、親から遠ざかっている様子を見れば、なおさら不信感しか生まれるものはなかった。

そのような荒廃状態にある家庭を指して、自分の「家庭的幸福」や「夫婦の愛」を誇る信者に、耳を傾ける意味がないのは言うまでもないが、多くの人々の語る「家庭生活の幸福」は、たとえそこまで行かずとも、筆者の目には、何かがおかしく、都合の悪い事実をすべて闇に葬った上で作り上げられた幻想なのだと思わずにいられないのである。

おかしなことに、筆者の目には、信者の家庭よりも、不信者の家庭の方がはるかに健全にバランスが取れているように見えることがよくあった。

また、筆者がこれまで年配の女性信者たちから一様に聞かされたのは、配偶者である夫への怒りや不満や憎しみをどうやって乗り越えて生きて来たか、という信仰の証であった。

それは一応、信仰の証という形を取ってはいたが、どれもこれも、判で押したようによく似た内容であった。仕事に没入して家庭をかえりみず、自己中心で暴君的な夫に、信者である妻はどれほどの憤りを耐えつつ、孤独な家庭生活を送り、夫への怒りや憎しみを手放すために、神の御前で悶え苦しみ、祈り続けて来たか、という内容であった。

それは一応、過去の話として語られていたが、実のところ、バトルはまだ終わってはいないのではないか、という印象が筆者にはどうにもしてならなかった。
 
筆者の目から見ると、こうした問題は、ただ単に、筆者が出会った女性信者たちが、たまたま、みな似たようなタイプだったことから来るものではなく、それは、我が国の女性たちの置かれている一般的な低い立場から生じている問題でもあり、さらに、我が国の行き過ぎて非人間的な労働システムがもたらした弊害でもあると思わずにいられない。

団塊の世代とそれより少し上の世代の女性たちの生き様には、おそらく、一定のモデルが存在するのだろう。彼女たちの多くは、若い時分に恋愛を経て結婚したとしても、人生の夢を共に思い描き、分かち合ったパートナーが、夫になったとたんに、妻よりも一段上に立って、自分を使用人同然に顎で使い、居丈高に自由を奪う姿を見せられて、いたく幻滅を味わった。さらに、社会における男女の不平等がそれに追い打ちをかけ、夫は会社人間となって家庭を置き去りに、家の外でキャリアを積んで出世して行く一方、(不信者の夫の場合、ひどいケースでは浮気に明け暮れて家を空ける者もいる一方で)、妻は一人取り残されるようにして家庭に引きこもり、子育てに専念せねばならなかった。

こうした世代に属する女性たちは、結婚と同時に、夫を会社に奪われてしまったような有様で、学生時代を終えると、夫とは心の歩みをもう共にすることができなくなっていた。そして、まるで母子家庭のように、子供たちと一緒に家庭に置き去りにされて、生きて来たのである。幼い子供を抱え、あるいは親の介護のために、社会に出て働くこともできず、限定された狭い人間関係の他は、社会から半ば切り離されたように、孤独な生活を送った。
 
筆者は、この時代の夫族は、いわば、重婚の状態にあったのだと考えている。つまり、夫らは、妻をめとると同時に、会社とも結婚の関係にあって、二重生活を送っていたも同然であった。

だが、相手が会社では、妻も、文句は言えない。そのようにして会社(夫を雇用している組織や団体が)が、妻以上に、夫の「真の結婚相手」として、さらには、夫以上の「主人」として家庭に君臨し、夫婦の家庭生活を奪い、夫のプライドを打ち砕いた。精神的に会社の奴隷とされて心を傷つけられた夫は、妻を自分よりも下に見ることによってしか、鬱憤を晴らせなかった。こうして、夫も妻も、歪んだ労働システムの犠牲者とされた。これが我が国の「精神的な父不在の母子家庭」のモデルの成立の原因である。

筆者の推測では、日本のほとんどの家庭は、たとえ父がおり、夫がいても、精神的には「母子家庭」同然である。それは日本人の男性が、組織や団体に魂を絡め取られ、精神的に奴隷とされて自負心を打ち砕かれ、家庭において真に健全な主人であることができないために起きている現象である。健全な家庭生活、人間生活のためには、まず夫たちが真にプライドを取り戻し、精神的に奴隷ではなく自由であることがどうしても必要なのだが、この歪んだ労働システムの中でそれを願うことは難しい。

そうしてできた「母子家庭」の孤独に耐えられなくなった妻たちが、家庭をかえりみない夫への憤りや悲しみから、自分も「重婚」しようと、宗教に入信して行くというのは、全く珍しくないケースである。

今日でも、多くの働く夫や妻が、会社と「結婚」している。独身の男女であっても、精神的に会社に身を捧げている。そんな状態では、およそ正常な家庭生活など成り立つはずがないと筆者は思うのだが、多くの人々は、社会の構造的な歪みには気づくことなく、ただ家庭内バトルに明け暮れ、配偶者に対する憤りや憎しみを持て余している。

しかしながら、構造的な問題を脇に置いても、筆者は、配偶者に仕えて生きることが、並大抵の苦労ではない、と思わざるを得ない。それはただ並大抵でないだけでなく、どこかしら不自然かつ無理な部分があるように思われてならないのだ。

人には、真に自分を捨てて他者に仕えて生きるということは、多分、できない相談なのではないか。そのような自己犠牲的な愛は、神にはあっても、生まれながらの人間には備わっていないからだ。

多くの人たちが結婚するのは、伴侶のためではなく、ただ自分のためである。自分が満たされたいばかりに、自分にとって可能な限り、有利な条件を揃えている伴侶を探し出して来るのである。だが、共同生活は、利己主義だけでは成り立たず、他者のために生きることが、どうしても必要になる。それでも、この社会においては、妻の側に求められる自己犠牲の方が、夫に求められるよりはるかに大きく、そのために、多くの女性たちが報われないつらい努力を強いられている。

女性たちは、妻として夫に仕えて生きようと心がける一方で、一体、どこまで夫のために自分自身を犠牲にしなければならないのか、自分のことは誰がかえりみてくれるのかというやるせなさと不満が年々、心にたまって行くことになる。特に、有能で、活発で、結婚前には自分なりの生き方や、夢を持っていたような女性であれば、家庭にのみ引きこもって子育てや介護に専念して生きること自体が、耐えられない孤独のように感じられることだろう。こうした問題は、たとえ妻が家の外に出て働いてもついて回ることになる。

夫の自己実現の夢については、会社が心配してくれるかも知れないが、妻たちの自己実現の夢については、誰一人、振り返る者もない。だが、たとえ心が満たされておらず、孤独であっても、夫が全く家をかえりみなくとも、子供がいれば、彼女たちは母として子供のために愛を注ぎだし、世話をしなければならない。
 
そのような生活におけるやり場のない孤独から、多くの妻たちが家庭の孤独からの逃避と救いを求めて宗教に入信し、あるいはクリスチャンとなって、夫をも回心させようと熱心になるのだが、彼女たちの入信の動機の根底には、仕事に魂を奪われた夫に対する対抗意識が潜んでおり、そうである限り、それが真に純粋な信仰へと結びついて行くことは難しいように、筆者には感じられてならない。
 
入信した妻たちは、企業における立身出世をよすがに生きる夫の生き様を「この世的な成功」として否定した上で、自分は、それにまさる魂の救いを得て、夫に先んじて、人間的な完成に近づいたのだという自負を持つことができるようになる。彼女たちは、この世におけるキャリアをほぼ否定されて、社会において自己実現の道をほぼ閉ざされていればこそ、目に見えない信仰の世界において、「神」から見えない承認を得て、見えないキャリアを築き上げたいと願い、宗教活動にいそしむことになる。

入信した妻たちは、夫の精神的な未熟さや高慢さや横暴な性格、相互理解の欠落という現実を見ても、これに新たな「信仰的な」理由づけを見いだして、自己安堵することができるようになる。すなわち、「夫はまだ救われていないから、こんなにも人間的に未熟なだけなのだ。神を知らない罪深い人間だから、こんなにも粗暴で、私を振り返ってくれないだけなのだ。もし夫も神を信じてくれたら、すべては変わるだろう。それまで待って、祈り続けなければならない」と考え、夫の無知を哀れみながら、自分は彼の欠点を優しくかばい、夫の救いを祈りながら待ち続ける善良な妻であると考えることによって、報われない立場から来る悲しみや憤りをやわらげ、自己を慰め、夫婦の間に積みあがった軋轢をも、何とか飲み下すように乗り越えようとする。

そして、夫が定年退職すれば、待ってましたとばかりに、信仰の世界に夫を引き込み、夫を回心させることに成功すれば、夫婦ともどもすっかり宗教団体を舞台として生きて行くことになる。

だが、妻たちの信仰が、心の根底で、夫とこの世的な成功に対する対抗意識に裏打ちされている限り、彼女たちの入信結果も、何かしら歪んだものとならざるを得ない。最も幸いなケースであれば、入信した宗教団体にそのうち何らかの問題があることが発覚して、エクソダス・・・といった過程を辿るであろうが、最も不幸なケースでは、夫が会社に身も心も奪われて働いたのと同様に、妻たちも宗教団体のためにすべてを捧げ尽くすことになる。場合によっては、退職後の夫もそこに巻き込まれ、夫婦ともどもに、(時には子供を完全に置き去りにするか、犠牲にし、あるいは子供と断絶して)、宗教団体の活動に没入する結果になる。

こうしたケースに当てはまる信者たちが、どんなに家庭を持つことの幸いを筆者の目の前で語っても、筆者には、それはどこかしら不自然で、嘘っぽい、片面だけの真実であるように映ってならなかった。

たとえば、老年になって、頼りない宗教指導者に熱中し、まるでファンクラブのような取り巻きのサークルを作り上げて、指導者の一挙手一投足に一喜一憂させられながら、その後ろ姿を追いかけ、互いに妬み合って足を引っ張り合ったり、あるいは孫が生まれたなどと幸福の自慢をし合っている信者たちの会話を聞いても、一体、これが本当に幸福なのだろうかという疑問以外に、筆者の心に生じるものはなかった。

仮に妻たちが夫を宗教団体に引き込むことに成功したとしても、結局、そこでは再び、夫たちだけが講壇に立って、妻たちの上に立ってメッセージを語るようになる。そうこうしているうちに、夫たちは宗教団体でも長老然、教師然として、次第に偉そうな様子になって行く。他方、妻たちは家庭集会のための準備や料理作りに明け暮れ、夫族はそれに指一本協力せずにふんぞり返って談笑している光景を見せられることになる。そんな風に、まるでどこかで見た風景が目の前に広がっていても、それでも信者たちは、この光景をおかしいと思わないのであろうか?

結局、宗教団体に逃避しても、そこでも、この世と同じ男尊女卑が待ち構えており、結局、男たちだけが栄光ある仕事に就き、婦人たちは沈黙に追い込まれ、報われない仕事に従事しているという序列は変わらない。そのような光景が、彼女たちの望みだったのだろうか・・・? 家庭で隅に追いやられ、その孤独を癒すために入信した宗教団体でも隅に追いやられ、沈黙させられ、訓示のように夫たちの演説を上から聞かされるためだけに、彼女たちはそこに入信したのであろうか・・・?
 
だが、彼女たちは、一生懸命に、その現実のむなしさを見まいと、自分に言い聞かせている。それを見るにつけても、多分、彼女たちは、ずっと人生で見るべき問題から目を背け、自分の心の不満を絶え間なく何か別のもので解消しようと現実逃避を続けて来たのだろうという疑いが、筆者の心に生じて仕方がなかった。

彼女たちは、何かをどこかですっかり諦めてしまったのである。家庭生活とは、もともと耐え忍ぶものだと、信仰生活も、耐え忍ぶものだと、社会人として生きることも、耐え忍ぶことだと。そうしてやるせなさを押し殺し、心の悲しみを押し殺し、自分はひたすら耐え忍んで、自分自身の好みや願望を滅却し、自分よりも強い者に奉仕するのが、生きる道だと、どこかで思い込んでしまったのである・・・。

だが、本当にそうあるべきなのだろうか、と筆者は疑問に思わずにいられない。女性が、そんな風に生きることが、神の御心なのだろうか。そんな生き様に何の自由があると言えるだろうか。しかし、妻族には、そのような疑問は、決して投げかけても理解してもらうことは難しいだろう。彼女たちは、すでにヒエラルキーの一部に取り込まれてしまっているからである。

そうなのだ、それは夫婦というよりも、家庭内の序列であり、ヒエラルキーである。社会における男女の差別的なヒエラルキーが、形を変えて家庭に持ち込まれただけのものになってしまっており、本当の意味での男女の健全かつ望ましいパートナーシップからは、あまりにもほど遠いものである。そのようなものは、この世代の夫婦に見ることは極めて難しい。
 
今は時代が変わって、共働きの家庭が多くなり、独身男女も、既婚男女も、企業との「結婚」によって職場に魂を奪われて生きている。だが、企業人のみならず、自分の魂を常に何物かに質に取られたように奪われて、片時も自分自身として生きられず、常に自分よりも強い他者の利益の道具となって生きているだけの人々が、この国の過半数以上を占めるのではないかという気がしてならない。

我が国には、物心ついた時から、人を組織や団体にからめ取り、人に決して物を考えさせず、自分自身として生きさせないようなシステムがあって、この国に生まれた人間には、子供の頃から、自己否定の精神が教え込まれる。子供たちは早くから、「今のままの自分でいてはいけない」というプレッシャーを強く心に刷り込まれる。学校では「もっと成績を上げろ」と尻を叩かれ、幼いうちから、ヒエラルキーの階段を上るために絶えず努力していなければ、自己価値を喪失するかのような恐怖に追い立てられている。

それはあたかも、自分という恐ろしい負の重荷から逃避するために、ずっと逃走を続けている人生のようなもので、あまりにも大勢の人々が、人の目にかなう自分、もっと高く評価される自分を作り上げるために、悲痛なまでの努力を重ね、そのように努力することをやめた自分は、まるで無価値であって生きるに値しないのだと思い込まされている。

何もしない自分、何もできない自分は、誰からも愛されるに値せず、評価されるにも値しないという恐怖から、そのような自分から逃れるために、人からの承認や評価を求めて、絶え間ない努力を続けるのである。そうこうしているうちに、外側からの人の評価と、自分自身を切り離して捉えることができなくなって、他者の承認を失った自分というものは、考えるだに恐しい空虚な存在だとみなすようになる。だから、自分には価値があり、受け入れられているのだということを絶えず確認して自己安堵するために、ひっきりなしに自分を評価してくれる相手を求め、あるいは何かの団体活動に没頭することによって、自己の抱える存在不安から目をそらさずにいられないのである。

こうして、自分自身に健全で揺るぎない普遍的な価値を全く見いだせないまま、存在不安に悩まされている人間が、その不安をごまかすために、他者を愛し、他者に仕えるという生き方を選び取り、あるいは宗教に入信して神に仕える道を選び取ることがありうる(そういうケースでは、神に仕えると言いながら、結局は、人間の指導者に仕えることになる)。
 
そうした人々は、たとえば、「わがままで頑固で利己的な夫を健気に愛し、赦し、仕えている自分」という自己イメージを作ってそれに耽溺することで、自分の心が真に抱える孤独や空洞から目を背けようとしたり、「次々と大病に見舞われるなかで、健気に神を見上げ、希望を捨てずに信仰生活を送っている涙ぐましい立派な信者の自分」という自己像を作り上げてそれに陶酔することで、自分の心の存在不安から目を背けたりする。
 
そのようなケースでは、現実は、彼ら自身が作り上げたイメージほど美しいものではない。現実には、まるでDV夫から離れられない妻のように、自分自身の心の弱さや欠点を覆い隠し、自己を美化するために、問題と手を切れないでいるだけの場合も多く見られる(問題が大きければ大きいほど、それと闘う人間は自己を美化できるためだ)。

その人が一過性の問題に苦しめられているのでなく、いついつまでもずっと同じ問題の中を進歩なく巡り続けているのであれば、その生活は、本人が自ら選び取っているのだと考えて差し支えない。そこで作り出されている「健気に耐える人」のイメージは、その人の抱えるもっと深刻な問題(たとえば存在不安)を覆い隠すためにこそ演出されているのである。
 
以上のようなことは、人が自己の存在不安から目をそらすために、あるいは自分自身と向き合うことを避けるために、結婚生活を逃げ場にしたり、宗教を逃げ場にして起きていることであって、まるで自作自演劇のように、嘘に等しいごまかしなのだと思わずにいられないのだが、仮にそれを告げてみたところで、人々は憤慨するだけで、筆者の言わんとしていることを理解し、納得してくれることは決してないだろうと思う。

だから、筆者はあえて彼らの誇る「幸福」や「良心的な奉仕」に面と向かって水を差すようなことはしない。が、たとえ口にせずとも、あまりにも芝居じみた作り事には、何の価値も見いだすこともできず、まして自分もそれに習おうなどとは全く思えないのである。

こうしたケースで、何が筆者にとって最も深刻な問題と映るかと言えば、以上のような人々が絶えず誇っているのが、自己の「役割」だという点である。自分がどれほど他者に対して立派に役割を果たし、模範的な忍耐の人となっているか、それが彼らの誇りなのである。

こうした驕り(なぜなら、それは真の忍耐や努力ではなく、自分を美しく見せるための演出に過ぎないからだ)に対しては、筆者はただこう述べるだけだ、

「一度、あなたの周りからすべての人間を排除してご覧なさい。そして、あなた以外の誰とも一切関係ないところで、あなた自身には、一体、どういう人間で、どういう価値があるのか、考えてご覧なさい。母としてでもなければ、妻としてでもなく、企業の人間としてでもなく、誰かの友人や知人としてでもなく、誰とも関係ないところで、あなたは、あなた自身をどうとらえ、どう評価するのか、考えて、答えてみて下さい。」

一度、どれくらいの人々が、家庭や社会での役割を離れたところで、自分を客観的に把握し、しかも、把握した自分に満足していられるだろうか?

むしろ、役割を離れたところでの自分というものが、ほとんど存在しないか、そんなものは見るのも恐ろしいと思って目を背けているからこそ、こうした人々は、絶えず周りの人々との関係性を模索し(しかも多くの場合、かなり問題のはらんだ関係性にしがみつく)、問題の大きさを利用して自己を美化しながら、自分がそこで果たしている役割を人前で誇り続けているのではないだろうか?

そういう人たちは、人との関係性が絶えて、コミュニティから切り離され、人からの承認が受けられなくなると、自己の価値が全く見失われたような恐怖に突き落とされる。だからこそ、絶えず人間関係にすがり、絶え間なく何かの活動に従事し、絶えず問題の渦中にいて注目の的となり、人の目の中に自分の「居場所」を見つけようと追求しているのではないか? 

筆者は、そのようなものが、人間の真の「幸福」だとはどうしても思えないのである。

人間の幸福とは、そもそも環境条件によって定義されるものではない。たとえ問題らしき問題が何もなかったとしても、伴侶があるから、とか、財産があるから、とか、子供があるから、とか、そういう条件によって変わり得るような「幸福」は、そもそも幸福と呼ぶにも値しないと筆者は確信する。

人間の幸福とは、環境条件によって定義され、それによって変動するような脆いものではなく、環境条件がいかにあろうとも、それと関わりなく、人の心の内側から沸き起こって来るものでなければならない。そのような揺るぎない幸福を内に持っておらず、ただ環境に依存して生き、環境が与えてくれる安定性や満足を誇っているだけであれば、その人は環境が変われば不幸のどん底に突き落とされるだけであり、確かな幸福を決して人生で打ち立てることはできないであろう。

この地上にあるものはみなすべて過ぎ去るものである。今日はあっても、明日にはもうないかも知れない。仮に地上的な豊かさをどれほど手に入れたとしても、そのようなものを幸福とし、よすがとして生きることの何とむなしいことか。

たとえ目に見える人間をどれほど愛し、どんなに愛されたとしても(むろん、それも人間の不完全な愛によってのことであるが)、人の心は移ろいゆき、その存在も移ろいゆき、いずれ別離がやって来て、愛することによって得られる満足などは、束の間のうちに消え去ってしまう。

たとえ自分の子供のためにどれほど心血を注いでも、その子供も、場合によっては自分よりも先に死んだり、思いもかけない騒乱に巻き込まれたり、好ましくない伴侶と人生を共にしたりして、全く手の届かないところに去ってしまうかも知れない。あるいは、反逆的な大人に成長する可能性もある。

どんなに他者を生き甲斐としてみても、誰も自分以外の人間の魂を管理することはできないのだ。

だから、人が真に幸福になりたければ、地上の目に見えるものに一切、価値を置かず、決して奪われることのない確かなところに、自己の価値を置くしかない。

それが天である。天に、朽ちず、錆びず、盗人が来て盗まれることもない宝を蓄えなさい、と聖書にある。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

筆者は、永遠に変わることのない、人間にとってのまことの伴侶なるキリストただお一人だけに、自分の価値というものをすべて預けるのが最も良いのではないかと思っている。

不完全なものに身を捧げて生きるより、完全なものを追い求めて生きる方が安全ではないだろうか?

キリストこそ確かなお方であり、すべてのすべてである。

それに比べれば、筆者自身の存在さえも、影のようなものに過ぎない。

影である筆者は、影だけで生き続けるのではなく、本体の中に隠されて生きる道を選ぶ。

筆者は今、天への引っ越し作業を進めているところだ。自分の心の宝の全てを、目に見える地上から、見えない天へと移し替えているのだ。

これまでにも、筆者がこのブログ記事で幾度も、「飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだり」することがみな地上的な事柄だと強調したので、すでにそうした強調にうんざりしている人もあるかも知れない。その人たちには悪いが、もう一度、次の御言葉を引用しておきたい。

「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。」(ルカ17:26-30)

人が自分の地上での幸福な生活を誇りたいならば、好きなようにしていただいて結構であるが、本質的に重要な事柄から、筆者は絶対に目をそらしたくないと思っているのだ。
 
キリスト以外のものを誇りとし、よすがとして生きている人々の台詞に、筆者は十分な理解と頷きを与えるつもりは全くない。そういうものはみな移ろいゆく影でしかなく、本質的な重要性を持たないからだ。

信者には、地上で栄誉を受けてしまえば、天で受ける栄誉がなくなってしまう。筆者は、人の目に栄誉を受けたいのではなく、神の目に栄誉を受けたいのである。だから、地上での有様がどうであるかには頓着するつもりはなく、それを誇るつもりもない。むしろ、誰からも奪われることのない安全な場所に、自分の心と宝を避難させて、神以外のものが栄光を受ける余地をとことんなくしているのである。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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