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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)


新たに飼い始めた文鳥は、今まで飼った文鳥たちと違って初めから性格がかなり大人びているようだ。人には馴れているが、独立心が旺盛で、体は小さくても一人前のプライドがあるように見受けられる。

かつて文鳥の飼育本で読んだことがあったが、小鳥でも、それなりの年齢になると、子ども扱いされるのを嫌うことがあるという。

老鳥となった文鳥に、「可愛いね~」などと、ほめ言葉のつもりで声をかけていたら、鳥に怒られた、などという読者の便りが本に乗っていたのを思い出す。

それは鳥だけでなく、たとえば、犬なども同じであろう。

犬が年を取るのは早く、あっという間に人間の年齢を追い越してしまう。見かけはどんなに可愛らしく、子犬のように見えても、犬にも年齢相応の気概が生まれる。いつの間にか、人間よりも悟りきったようになり、家の中ですっかり権威となってしまう。

だが、人間は、犬がそこまで精神的に生長したことが分からず、いつまでも子犬のように可愛がろうとするのだが、犬の方からは、人間の精神的な未熟さ、身勝手さ、ご都合主義などがすっかり見抜かれて、半ば呆れられ、適当にあしらわれるということさえ、時には起きる。

犬などの気持ちは、人間には時に全く思いが及ばないほど、デリケートである。
鳥にも、犬とは違うが、そういうところがあるのだ。

いずれにしても、人間の平均寿命に比べれば、はかない命だということを理解して、与えられた時間を精一杯、有効活用してやらねばならない。

さて、我が家の白文鳥はまだ一歳にもならず、ついこの間、雛の毛がようやく抜けたばかりだが、それでも、一人前のプライドはしっかりあるようだ。

鳥の性格も人と同じく、実にさまざまである。

飼い主と鳥とが、適切なパートナーシップを築くまでには、それなりの時間がかかる。互いの性格や好みや気持ちの変化を阿吽の呼吸で読めるようになって、お互いにとって嫌なことはせずに、適度な距離を保ちながら、好ましい愛情表現ができるようになるのは、どんなに短くとも、飼い始めて一年程度の時間はかかる。

特に、幼鳥から飼い始めた鳥は、一年間ほど経たないと性格が安定しない。幼鳥の頃は何事にも興味津々で活発に動き回るが、何が自分にとって得で、何が損なのかも分からないし、飼い主の気持ちの変化も読めない。だが、一年ほど経つ頃には、好奇心がおさまり、性格も大人になって安定して来る。

以上のようなことは、他愛のない話であるが、最近、こうしたことに加えて、生き物が変化する未知数の可能性に驚かされることが増えた。

ペットを買う時には、誰しもペットの容姿や健康に気を配るであろう。
考え得る限りの最高の条件を求めようとするだろう。

だが、飼い始めてからも、命はどんどん変化するのである。

どのように変化するのか、未知数の部分があって、飼い主次第で、ペットもどんどん変わって行く。そして、毎日、毎日、良く変わって行く姿を見ながら、神の御業に歓心させられるのである。

そして、気づけば、自分もまたペットのために随分、変わったことに気づかされる。

たとえば、生き物がいない時には、どんなに仕事に没頭しても平気であったのが、生き物のおかげで、適度な休憩を取るようになった。

生き物がいない時には、悩みごとが起きて来ると、果てしなくそれに埋没していたのが、生き物のおかげで、気持ちをすぐに切り替えることができるようになり、どんなことが起きても、動揺しないでいられるようになった。彼らを守るためには、飼い主の心に安定がなければならないからだ。

理解が及ばないことがどれだけあったとしても、必要なのは、よく観察して、生活を共にしているという実感を確かめ合うことだ。そうこうしているうちに、だんだん互いの気性が分かって来る。

筆者は、命である限り、およそどんなものでも、コミュニケーションを取れると思っている。それは相手が虫であっても、もっと高度な生き物であっても同じだ。

ところで、二、三年前に買って来たデンマークカクタスの小鉢が筆者の家にある。

そんなに栄養があるとは思えない環境だが、毎年、ちゃんと花を咲かせている。

今年の夏、ふと気づくと、この小鉢の片隅に小さな雑草がひょろりと一本顔をのぞかせていた。どこからやって来たのかも分からない、最初からこの鉢に根付いていたとも思えない、全く別の種類だ。窓際だから、外から種が飛んで来たのかも知れない。

そのまま放っておくと、雑草はデンマークカクタスの太い葉を迂回しながら枝を伸ばし、いつの間にか結構しっかりした幹になって、ついに可愛らしい白い花をいくつも咲かせた。

筆者は驚いてしまった。

鉢の中にある土には大した栄養分もなく、水さえ、筆者がようやく切らさないでやっている程度なのだが、その乏しい養分も水もほとんどデンマークカクタスが独占している中で、か細い一本の雑草がこんなに小さな鉢の中で花を咲かせるとは、正直、思っていなかったのである。

どんな環境の中でも、自分の場所を見つけて生きる命があるのだと驚かされた。

今、アハブ三世の統治するこの国で、経済は悪鬼化し、企業も悪鬼化し、国家も悪鬼化し、教会も悪鬼化している。どちらを向いても、人類が自己防衛のために築き上げたカインの城壁しか見えるものはない。

人々は自分を守るために武装し、城壁に立って見張りをし、武器を構え、異質な者を撃退しようと待ち構えている。その城壁の中にこもっている者たちには、外部に対する敵意と、自分たちにとって脅威となり得るすべてに、今しも襲いかからんとする殺気以外に、感じられるものはない。

全くもって厄介な存在であるから、筆者はこれらの城壁には可能な限り、近寄らないようにしながら、彼らと接触を絶って、別の次元で生きている。

ある意味では、筆者は自分をいかついデンマークカクタスしか植わっていない鉢に、突如として生えて来た可愛らしい雑草のように感じることがある。周りにあるほとんどのものが、自分とは異質だと分かるからだ。だが、異質なものがあまりにも勝ち誇っているので、一つ間違うと、生える場所を間違えたのではと感じられる環境だ。

だが、それでも、どういうわけか、この土地も、この世も、この国も、悪魔と暗闇の軍勢のためだけにあるわけではなく、たとえ隅に追いやられているように見えたとしても、神はキリスト者のために、必要な生存条件をすべて整えて下さるのである。

だから、右を見ても左を見ても、デンマークカクタスのためにあるような土地で、それとは全く関係ない「雑草」が、花を咲かせるということも十分にありうるのだ。

神の国とその義をまず第一に求めなさい。

その戒めを、筆者はしっかりと守っている。そうすれば、後の物はすべて添えて与えられる、と聖書は約束している。

御言葉の通りに、確かに、これまですべての必要が与えられて来たし、これからも与えられるであろう。神がそのように約束しておられるのだから、これを覆しうる者はない。だから、生きる環境のことについてあれやこれやと心配し、不満を述べることはしていない。たとえ隣で巨木が勝ち誇るように生い茂っていたとしても、アハブとイゼベルがこの国を統治していたとしても、そんなことは筆者の生存とは全く関係ないことである。

イスラエルの民が、エジプトを出て、初めて乳と蜜の流れる土地を見たとき、そこには巨人が住んでいて、彼らはそれを見て恐れ、到底、巨人を追い払って、この土地を占領することは無理だと考えた。

だが、その恐れは、神の御心にかなうものではなかった。その土地は、彼らのために神が用意されたものだったので、彼らは巨人など無いがごとくに恐れずに前進しなければならなかったのである。

筆者には今、その意味がよく分かる。

車を運転するときに、障害物に注目して運転する者はないはずである。運転者は常に進路を見る。障害物は、除けて通るべきものではあっても、注目すべきものではない。そして、すべての障害物を無事に通過して、無事に目的地に着けるという確信がなければ、誰も出発などしない。本当に目的地に着けるのだろうかと、恐れに駆られている人間に、運転は無理である。そういう人間は免許も取らず、決して車道には出ないのが最善である。

出発する以上は、無事に目的地に着けるという確信が誰しも必要なのであり、そのためには、障害物に払う注意は必要最低限度に抑え、ただどこに進路があるか、どこへ向かって進むべきなのか、それだけを第一に考え、どんな時にも落ち着いて冷静に進路を見分ける能力が必要である。

キリスト者はすでにエジプトを脱出したのである。荒野で罪のゆえに倒されて朽ち果てるための脱出ではなかった。だから、我々は神に全幅の信頼を置いて、御手に自分を委ね、神が導いて下さるままに前進して行くのである。恐れなく、勇敢に、喜びと活気に満ちてである。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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