忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

みことばの奉仕者となるとは

以下の文章は、2010年に書いたものであるが、当時のブラック企業の職場の風景をよく示すものとして残しておこう。この職場の崩壊の現場を別のセンターで目撃した様子は、他の記事に詳しく記した。

この時、上司の説得に耳を貸したことによって、筆者は転職のチャンスを失ったのだが、それではこの時に速やかにこの職場を見限って転職していればよかったのかと振り返っても、少しばかりは損失は防げたとしても、結果は似たり寄ったりであったものと思う。なぜなら、テレマーケティングの世界がどういうものであるか、その業界全体に何の希望も持てないことを、筆者は十分に知っているからだ。

その当時、天声教会でメッセンジャーとなったばかりのある青年が、筆者に向かって蔑むように「コールセンター」という言葉を口にしたのを覚えている。そんなつまらない仕事に一体何の価値があるものかと言いたげな口調であった。
 
以前にはこの青年も、筆者が職を得たことを喜んでくれたものであったが、組織としての教会に取り込まれ、メッセンジャーとされた後、見る間に高慢になって行き、誰に対しても上からものを言うようになった。特に、筆者に対しては、小娘扱いするような馬鹿にする態度が定着した。
 
以前には、この青年にはそういった他者に対する侮蔑的な態度は見られなかったもので、この人に強力な影響を与えた教会の悪しきイデオロギーと、韓国人幹事女性の霊的な力を思わずにいられなかった。

この女性は、筆者が初めて教会を訪れて、ネット上のバッシングについて告げたとき、きらりと意地悪な喜びの光を目に宿して笑ったのを忘れない。その時に、この女性の本心がどこにあるかを筆者はよく理解した。

だから、筆者に対する侮蔑的な見方を青年に植えつけたのも、この女性の力であろうと感じている。

彼女は、自分に夫がありながら、教会に青年と共に連日、泊まり込んで共同生活を送っており、その生活に筆者は深刻な疑問を覚え、青年に向かって直接、聖職者にふさわしくないと抗議を申し入れ、この教会は危険だから離れた方が良いと告げたが、より一層、反感を買うばかりであった。

筆者は試しに教会に何日も泊まり込んで、彼らの様子を観察した。

朝5時頃に行われる祈祷会のために起きて、それから、祈祷会が終わると、一睡する。朝になってから眠るので、昼になって起きても、体がだるく、頭がぼんやりする。

朝の祈祷会のための連日のメッセージが青年の担当であった。
毎日メッセージを用意するというのは、一日、他の作業がほとんどできないことを意味する。

寝泊りする場所も教会なので、個室もなく、十分な睡眠がとれず、食事と言っても、信者からの差し入れの他、簡素なものしか食べられない。慢性的な睡眠不足と栄養不足が続くことになる。
カルトと同じように、この生活スタイルのために、正常な思考力・判断力を奪われることになる。

ある時、平日に三人で海水浴に行こうかと言った話が出たが、出発間近になって、韓国人女性が「体調が悪いから、二人で行って来て」と駄々をこね始めた。

筆者には、これが計画中止のための合図であることがよく分かった。

彼女だけを一人、教会に残して、二人で行楽になどでかけられないと、青年は計画を早々と諦めてしまった。筆者は、そのようなことは、決して青年を教会外に出さず、彼女の管理下から外に出さないために行われている策略だと理解したが、当時は、まだ未熟者だったので、恐ろしいとは思ったが、これに抗議する有効な術が分からなかった。

こんな風にして、彼女は自分がまるで教会のトップであるかのように振る舞い、他者を自分の思い通りにがんじがらめにして、教会に取り込んでしまうのであった。一見、親切を装っており、筆者のためにも、髪を切ってくれたり、色々と手先の器用なところを見せていたが、結局、その親切と人情によって他者を自分の思惑にがんじがらめにしてしまう。

青年は、最初は教会内の雑用を手伝うためだけに、この教会を訪れたのであって、メッセンジャーとなることが目的ではなかった。しかし、女性が巧みに引き入れたのであろう。この女性は、KFCで、ルーク氏の補佐的な立場を得ようとしたが、KFCから追い出されてしまったという過去もあったので、KFCに対する対抗意識からも、誰か指導者のサポート役をしたいという願望が捨てられなかったのかも知れない。

青年とは母と子ほどの年の差があり、それにも関わらず、青年を精神的な支配下に置いて夫よりも近しくそばに起き、がんじがらめにしている様子は、筆者から見て、全くいただけない、異常なものであった。自分の家庭や子供がありながら、どうしてそのようなことができるのか、全く理解に苦しむばかりであった。

しかも、この女性は教会内の奉仕をすると同時に、教会の近くにブティックを経営し、そこで夜の商売の女性のためにドレスを販売していたのである。これも全く信仰者にふさわしくない恐ろしいことだとしか言いようがなかった。
 
だが、この教会に関係する他の誰に語っても、誰一人として彼らにそのような共同生活をやめるようにと忠告した者はなかった。

KFCの信者たちも誰一人として動かない。驚き呆れる事態であった。
 
ただし心の中で同様の懸念を抱いていた信者は存在しており、KFCでこの女性と青年がメッセージを語った折りに、女性が青年に水を差しだしたその行為を見て、「二人のただならぬ密接な関わりを感じ、不快に感じた」と語った信者がいた。誰も表立って注意せずとも、分かる人には見ただけで分かるのである。

それから後、筆者は天声教会を訪れていないので、青年がどうなったのか、筆者は全く知らない。できるなら、このような悪しき誤謬から、一刻も早く抜け出して欲しいとは願ったが、それを力づくで成し遂げることが筆者の役割ではない。

青年の心にも何かの弱さがあってこそ、そういう関係が続いているのである。本人がそのような依存関係を必要としなくなるまで、無理矢理そこから引き出す術は誰にも存在しない。最近は、このメッセンジャーの青年は以前に開いていた個人的なブログも承認制としているようで、ネット上に渦巻いている様々な悪意に臆病風に吹かれたのだろうかとも思う。

結局、他の多くのクリスチャン同様、人前に偉い指導者となって上からメッセージを語り、ほめそやされることは良くても、迫害や中傷に耐え、暗闇の勢力との激しい戦いの中で、どんなに自分を傷つけられても、御言葉の証を述べ続けることはしたくなかったのであろうか。
 
いずれにしても、残念な展開である。
 
それからしばらくして、筆者はこの青年に蔑まれたコールセンターにも完全に別れを告げて、もっと知識や経験の必要となる難しい仕事に就いたが、そこでも、やはり、状況は似たり寄ったりであった。

今や労働市場そのものが異常化しているのだとしか言いようがない。

だが、筆者には、どのような状況に陥ろうとも、天声教会のように、信者からの献金で自分を養うつもりは全くない。

天声教会はアッセンブリー信者などと一体となって、筆者に対して敵対して来た側にある。おそらくはその背後に、この韓国人女性の存在があったことだと推測している。
 
だが、彼らがどれほど多くの人々と徒党を組もうとも、彼らのやっていることは、主の御名を穢し、御心に反しており、著しく誤っているとしか言えない。

特に、結婚がありながら、それを尊ばず、伴侶でもない人間と精神的な連帯を結び、共同生活を送るなど、神と人の前であまりにも大いなる罪である。信仰を隠れ蓑に、教会を舞台にそれをするなど、許されることではない。

しかしながら、こうして未婚の青年男女が、親ほどの年齢の人々の精神的操り人形とされ、道具として虐げられている光景も、教会のみならず、社会ではよく見かけることである。

そこには、やはり世代間格差と、世代間支配のようなものが存在するのだと思わざるを得ない。

我々の世代は、社会の歪みのために、徹底的に年長者の食い物とされて来た世代である。

若輩者の心を揺さぶり、思い通りに動かすなど、年配者には赤子の手をひねるように簡単だろう。既婚者だからこそ、異性の気持ちも手に取るように分かり、独身者の心の孤独などを利用し、そこにつけこんで、自分の意のままに動かすことができる。
 
そうしていつまでも自分の精神的支配下に置いて、親のようにかいがいしく世話を焼く一方で、自立させず、結婚もさせず、人並みの人生を送らせないのである。

にも関わらず、その関係を非難されると、独身者にのみ罪を着せて、自分はちゃっかりと家庭に戻り、難を逃れるのである。

そうした人々の狡さ、あくどさを、筆者はひしひしと感じて来た。

だから、筆者は自分自身は、どれほどの年齢差があって、どれほど相手が狡猾であっても、こうした大人たちの野心の道具とされることは二度と許すまい、と決意している。

筆者も人間であるから、年長者から誉められば嬉しくもなるし、「あなたの力が必要だ」などと言われれば、頑張ろうという気にもなる。孤独につけこんでかいがいしく世話を焼いたり、優しい相談役を買って出ようとする人々の魂胆を、ともすれば見抜けない時もあった。
 
だが、今はそのようにして、我々をおだてあげて自分たちの栄光の道具として使い果たそうとする年長者の言い分に、これ以上、耳を貸さないことを決めたのである。
 
そのためには、何をするにも、大人たちを全く頼らないことであろう。彼らの「善意」になど期待せず、すべてを神ご自身と自分との間で相談し、自分自身の決断として、進めて行くことである。

そういう意味においても、人間によって雇われず、天に直接雇用される人生を生きることを筆者は決めたのである。

どの職場でも、筆者の働きぶりはそれなりに評価もされたし、人一倍、苦労の要ることも、喜んで成し遂げてはきた。常にそれは一定の成果を上げて来たが、それらの努力が、ただ不正で野心的な人々の欲望を叶えるだけならば、もうそのような努力は決してすまいと決意したのである。
 
筆者はキリストと同じように、人には捨てられた石であるが、世からの承認はもう要らないと考えている。神はそのような人を豊かに用いることのできる方である、そう確信している。
 
筆者の証も、人前での栄光を筆者にはもたらさなかったが、それで良いと思っている。

筆者の栄光は天にあって、天で主にまみえる瞬間に、苦労がねぎらわれ、慰められれば、それで良い。天におられる父のみが、筆者の苦労や、悲しみや、痛みを理解し、評価し、ねぎらって下さればそれで良い。人からの賞賛など要りはしない。そのようなものにより頼んで歩もうとする人間的な心の弱さは、神の目に喜ばれるものでは決してないと思っている。
  
   <2016年>
-----------------------------------------------

か つての職場では、同期生が次々と会社を去って行くのを見るうちに、このような荒っぽい方法を用いていたのでは、この職場は長くは持ちこたえられないだろう との確信が私に生まれた。あまりにも犠牲が大きすぎる。すでに道徳的には、もはや後戻りできない地点まで来てしまっているのではないだろうか…。

だが、崩れ落ちると分かっている建物の中に、あえて踏みとどまってでも、そこで戦い続けたいと願うだけの理由が私にはあった。それは、私たちの存在が、上 司にとって慰めとなっていることが分かっていたからである。彼が、これ以上、解雇者を出したくないと心から願っていること、彼が私たちを信頼してくれてお り、今いる部下たちの一人の退職をも望んでいないことを、私は知っていた。そこで、彼を悲しませないためにも、私は可能な限り、この会社にとどまって、共 に働きたかったのである。

だが、主はそんな私の心の内を見咎められた。人間的には、このような感情は忠信として賛美されるかも知れないが、主の御前に、これは価値のない考えであっ た。主は、他人の心の問題を、寸分たりとも私が自分の考えで共に背負うことはできず、解決はただキリストにのみにしかなく、私にできることは、この先、た だ黙って、キリストに道を譲ることだけであるということをはっきりとお示しになられた。

そのために主は一つの事件が起きることをお許しになった。ある日、業務中に思いもかけない失敗を犯して、私は上部の目の前で、厳しい叱責を受けた。翌日、 気を取り直して出社したにも関わらず、私の心の動揺はおさまってはおらず、連続して、考えられない不備を出した。その事件を通して、私はついに、このミス は決して偶然でも、一過性のものでもなく、自分の心と身体が、連日の酷使のために、この業務にもはや着いて来なくなっていることを理解した。それは私の心 が本能的に起こしたストライキであった。

こうなっては、もはや他人の期待に応えるどころの話ではない。自分の心身の健康を守れるかどうかの瀬戸際である。このままオペレータとして、壊れた機械の ように話し続ければ、私の心はいつか異常をきたすだろう。腕を痛めて球を投げられなくなったピッチャーは、マウンドを降りるしかない。私は降板し、この過 酷な会社からのエクソダスを決意した。

このことを通して、主は、キリストの十字架を経ていない、生まれながらの人間の努力や思惑によって理想を築き上げようとする、一切の試みが無意味であるこ とを、私に改めてはっきりと示されたのではないかと思う。そのような希望のない、むなしいプロジェクトから、主は私を強制的に離れさせたのかも知れない。 人の慰めになることによって、誰かの良心の痛みを少しでも和らげたいという私の願いを、主は退けられた。それは主の御心にかなう願いでなく、私の自己から 出た、自己を立てようとする欲求に過ぎないものだったからである。

私には元来、人を助ける力も、救う力もない。主が共におられるのでなければ、私には何の力もない。キリストが共におられ、私を支えて下さるのでなければ、 私には生きていくこともできず、働くこともできない。なのに、主がご自分の命を持って買い取られた私が、再び、十字架と復活の命を得ていない、生まれなが らの人の計画を助け、永らえさせるために命を捧げることは不可能であるし、主の御前にそれは忌まわしいことである。(これはクリスチャンがこの世の会社で 働くことに意味がないと言っているのでは決してない。)

上司は、過去の痛ましい教訓に学んで、従業員の雇用を守るために、この会社をこの先、改善していくことが、自分の責務だと思っているということを、幾度か 私に話してくれた。彼は将来の改善に希望をつなごうとしており、それによって良心の咎めを和らげようとしているようであった。しかし、信仰の観点から見る ならば、それは不可能である。私たちの過去の失敗を帳消しにできるのは、私たちの努力による、未来の改善ではない。私たちのあらゆる失敗、罪、咎を覆うこ とができるのは、ただキリストが十字架で流された血潮だけである。たとえこのように過ちの多い会社でなくとも、この世の万物そのものが、すでに刑罰に定め られている、改善の見込みのないものであるのだ。それをキリストの十字架を抜きにして、人知によって、改良しようとする試みには、いかなる希望もない。
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー