忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

主は我が魂の救い(1)

私には、これまでずっと心に秘めて来た願いが二つある。最近になって、ようやく、それを率直に主に申し上げ、祈ろうと思うようになった。

それは主に対しても、申し上げることができないほどに、長い間、私の心の奥深くに圧迫され、押し込められた願いであった。人として当然の、かけがえのない 夢であったが、これまでに何度も何度も、夢打ち砕かれて、人には踏みにじられ、あざけられ、打ち倒されて来たがゆえに、その事柄については、疲れ果ててし まって、もはや願う気力も、祈る気力もなくなっていた。主が復活の命により、私の人生に新しい希望を与えて下さった後になっても、なお、一度、微塵に打ち 砕かれてしまった願いは、なかなか心の中で再建することはできなかった。

ちなみに、このような状態のことを、私自身は「魂柱が倒れた」というたとえで表現する。

魂柱とは、ヴァイオリンの部品の一つであるが、楽器の内側にあるため、外側からはほとんど見えない。それは楽器の内側で、表板と裏板を支えて立っている短 い棒のことであり、いわば、縁の下の力持ちのような存在だ。構造上の難しいことについては知らないため書けないが、この魂柱がなければ、楽器の表板と裏板 に振動を伝えるための最も重要な部品が欠けてしまうため、ヴァイオリンは、あのような素晴らしい音色を出すことができない。この魂柱は、接着剤などを一切 使わずに、ただ重力等の圧力だけで、上下の板を支えて立っている。

長い間、楽器を使わずにしまいこんでいた人などは、一度は経験したことがあるかも知れないが、魂柱は上下の板に糊などでくっつけられているわけではないの で、楽器に大きな衝撃が加わった時などの、何かの拍子に、倒れてしまうことがある。そうなると、ヴァイオリンは楽器として機能しなくなる。プロのヴァイオ リニストは、自分の技術を日々磨くだけでなく、楽器の手入れも怠っていない。コンサート前には必ず楽器を調整に出し、細部に渡るまで、全ての部品と構造を 職人に入念にチェックしてもらう。

さて、ヴァイオリンのことはともかくとして、人間においても、目に見えない形ではあるが、魂柱が倒れる、という現象は起こりうるのではないかと私は思って いる。私たちは人生において、音楽を奏でている自覚はないかも知れないが、人にはそれぞれの音色や歌がある。私たちは日々、喜び、笑い、楽しみ、怒り、泣 き、悲しんでいるが、私たちの声も、振る舞いも、思いも、言葉も、常に周りの人に何らかの印象を伝えている。あたかも、私たち一人ひとりが、片時も鳴り止 まないで、それぞれに違った音色で歌を奏でている楽器のようである。

ところが、何かの拍子に、つい先ほどまで、あれほど自然に流れるように美しく人生を歌っていた人が、突然、自らの声を発することができなくなって、舞台か ら去っていくことがある。たとえ生きているようであったとしても、その人はもはや音楽を奏でてはいない。あたかも全ての願いが断ち切れてしまったかのよう に、その人はもはや自分を自然に表現することができない。私はそのような状態のことを、魂柱が倒れてしまった、という言葉でたとえている。その人がその人 らしく生きるための、決定的に重要な何かが、内側で打ち倒されてしまったのだ。

人は、何度も、何度も、外から願いを打ち砕かれて、自分自身を否定され続けて、なお、望みをつなぐことができるほどに、強い生き物ではない。衝撃が大きけ れば、人間の心と身体の繊細な構造は、壊れてしまうことがある。楽器にも、年に幾度かは調整が必要なのだから、この地上の幕屋としての私たちには、なおさ ら、肉体、精神、全ての構造について調整が必要である。思いもかけない強い衝撃が外から加わったような場合には、なおのこと、調整が必要である。

人間は楽器よりも、なお、繊細な構造を持った生き物である。人間は機械ではないのだから、休ませることもなく、ひっきりなしに歌わせておくことはできな い。そのような乱暴な扱いをしていれば、いつか生き物としての人間の身体にはガタが来て、しまいにはこと切れてしまうだろう。生き物としての人間の構造を 甘く見ていると、私たちには厳しいしっぺ返しが待っている。だが、馬車馬のように人を駆り立て、ひたすら成果を出すことだけを追い求めるこの社会におい て、果たして、社会だけでなく、私たち自身が、自分の魂と肉体の構造のことを、どれほど十分に理解し、思いやっているだろうか?
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー