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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主は我が魂の救い(4)

かつての職場の上司は、オペレータとしての私を成長させてくれたが、中でも、忘れられない出来事が一つあった。それは彼が、私には過酷な獲得競争を耐え抜く力があると見込んで、私が自分で気づいていなかった私の強さを、信じて、引き出してくれたことである。

私は元々、競争など大嫌いな性格のため、OJTの卒業条件として、13件の獲得競争が研修生に課された時、そんな愚かな競争は無価値であると考え、また、 自分にそれを耐え抜く力があるとも信じなかった。だが、あまりのハードさに、途中で競争をリタイヤしようとした私に、上司は言ったのだ、「職場に残って、 OJTを卒業しなさい」と。

その時、上司がやりなさいと言うのだから、できるはずだと、私は信じた。責任ある立場に立っている人が、見込みのないことを言うはずがない。そして、果た せるかな、かなり無茶をしたとはいえ、私は合格基準を満たすことができた。その時、私は、自分で思っていた以上に、自分には、逆境を耐え抜く強さと、運が あることを知った。上司は初めからそれに気づいていたのである。

基準を満たす最後の一件を獲得した時、彼は私の席に駆け寄って、喜びを露にして、こう言ってくれた、「運も実力のうちです!」と。

この出来事は、博士論文審査の際に私が大学から受けた悪印象を拭い去るほどに、決定的な影響を私に及ぼした。これは本来、研修生をオペレータとして建て上 げるために用意された試練だったにも関わらず、私はそれをまるきり違った意味で受け取ったのだった。すなわち、「あなたには力がある、だから、勇気を出し なさい、人生のOJTの卒業基準に果敢に立ち向かって、それをクリアしなさい」、という上よりの命令として。

私がまだ満たしていない人生のOJTの卒業基準とは何か。それは私が本職においてまだ独り立ちしていないという事実である。かつて投げ出して、リタイアし たまま、お蔵入りとなっている専門分野のことである。私は学位は得たものの、本当の意味で、試験にパスしてはいなかった。私の心は、論文審査の時点で、時 間が止まったまま、本当の意味で試験を終了せずに、そこから逃げ出してしまっていたのだ。

だが、それから何年も経って、オペレーションセンターの上司の言葉と、そこで私が13件の獲得競争に打ち勝ったという事実が、私を内側から立ち上がらせ た。この勝利が、それまで私の内側で、すっかり崩れ去ってしまっていたプライドと自信とを、健全な形で、復興したのだ。残念なことに、オペレータとして最 高の自信となるはずのこの出来事が、私には、自分の本職がオペレータではないという事実を決定的に思い出させるきっかけとなってしまった。

その他、主を証するために書いたこのブログを祝福して下さる兄弟姉妹からも、私は大いに励ましを受けている。もちろん、このブログは私の創作物として書い ているわけでないので、私が栄光を受けることは初めから目的外である。だが、こんなブログでさえも、一時はそれなりの試練に見舞われ、やめようと思ったこ ともあった。優しい兄弟姉妹は、主を証することに、どんなに大きな意味があるか、その都度、私に教えて、励ましてくれた。

主は不思議なお方である。主により頼んでいればこそ、こうして、一度は砕け散った望みも、復興されるのだろう。まあ、他人の真実な証を踏みにじった人々に は、主がこの先、直接、報いて下さるであろう。人はおのおの自分の蒔いた言葉を刈り取らねばならない。私たちは栄光の主の証人として、主への信頼の言葉で 人生を満たしたい。主は我が魂の救いである。主の御名は誉むべきかな。

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、
 たましいの砕かれた者を救われる。
 正しい者の悩みは多い。
 しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
 主は、彼の骨をことごとく守り、
 その一つさえ、砕かれることはない。

 悪は悪者を殺し、
 正しい者を憎む者は罪に定められる。
 主はそのしもべのたましいを贖い出される。
 主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(詩篇34:18-22)

主は我が魂の救い(4)

かつての職場の上司は、オペレータとしての私を成長させてくれたが、中でも、忘れられない出来事が一つあった。それは彼が、私には過酷な獲得競争を耐え抜く力があると見込んで、私が自分で気づいていなかった私の強さを、信じて、引き出してくれたことである。

私は元々、競争など大嫌いな性格のため、OJTの卒業条件として、13件の獲得競争が研修生に課された時、そんな愚かな競争は無価値であると考え、また、 自分にそれを耐え抜く力があるとも信じなかった。だが、あまりのハードさに、途中で競争をリタイヤしようとした私に、上司は言ったのだ、「職場に残って、 OJTを卒業しなさい」と。

その時、上司がやりなさいと言うのだから、できるはずだと、私は信じた。責任ある立場に立っている人が、見込みのないことを言うはずがない。そして、果た せるかな、かなり無茶をしたとはいえ、私は合格基準を満たすことができた。その時、私は、自分で思っていた以上に、自分には、逆境を耐え抜く強さと、運が あることを知った。上司は初めからそれに気づいていたのである。

基準を満たす最後の一件を獲得した時、彼は私の席に駆け寄って、喜びを露にして、こう言ってくれた、「運も実力のうちです!」と。

この出来事は、博士論文審査の際に私が大学から受けた悪印象を拭い去るほどに、決定的な影響を私に及ぼした。これは本来、研修生をオペレータとして建て上 げるために用意された試練だったにも関わらず、私はそれをまるきり違った意味で受け取ったのだった。すなわち、「あなたには力がある、だから、勇気を出し なさい、人生のOJTの卒業基準に果敢に立ち向かって、それをクリアしなさい」、という上よりの命令として。

私がまだ満たしていない人生のOJTの卒業基準とは何か。それは私が本職においてまだ独り立ちしていないという事実である。かつて投げ出して、リタイアし たまま、お蔵入りとなっている専門分野のことである。私は学位は得たものの、本当の意味で、試験にパスしてはいなかった。私の心は、論文審査の時点で、時 間が止まったまま、本当の意味で試験を終了せずに、そこから逃げ出してしまっていたのだ。

だが、それから何年も経って、オペレーションセンターの上司の言葉と、そこで私が13件の獲得競争に打ち勝ったという事実が、私を内側から立ち上がらせ た。この勝利が、それまで私の内側で、すっかり崩れ去ってしまっていたプライドと自信とを、健全な形で、復興したのだ。残念なことに、オペレータとして最 高の自信となるはずのこの出来事が、私には、自分の本職がオペレータではないという事実を決定的に思い出させるきっかけとなってしまった。

その他、主を証するために書いたこのブログを祝福して下さる兄弟姉妹からも、私は大いに励ましを受けている。もちろん、このブログは私の創作物として書い ているわけでないので、私が栄光を受けることは初めから目的外である。だが、こんなブログでさえも、一時はそれなりの試練に見舞われ、やめようと思ったこ ともあった。優しい兄弟姉妹は、主を証することに、どんなに大きな意味があるか、その都度、私に教えて、励ましてくれた。

主は不思議なお方である。主により頼んでいればこそ、こうして、一度は砕け散った望みも、復興されるのだろう。まあ、他人の真実な証を踏みにじった人々に は、主がこの先、直接、報いて下さるであろう。人はおのおの自分の蒔いた言葉を刈り取らねばならない。私たちは栄光の主の証人として、主への信頼の言葉で 人生を満たしたい。主は我が魂の救いである。主の御名は誉むべきかな。

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、
 たましいの砕かれた者を救われる。
 正しい者の悩みは多い。
 しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
 主は、彼の骨をことごとく守り、
 その一つさえ、砕かれることはない。

 悪は悪者を殺し、
 正しい者を憎む者は罪に定められる。
 主はそのしもべのたましいを贖い出される。
 主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(詩篇34:18-22)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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