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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ただ子羊の血に立つ

最近、リチャードさんがブログに、旧約聖書のヨシュア記に登場するラハブについて、意味深いを残しておられた。

エリコの城壁の内側で、生活のために身を売らなければならなかったラハブ。エリコの城壁は堅固であったが、人が身を守るために作った城壁という制度は、彼女を人間らしく生かすための、何の役にも立たなかった。この城壁の中で、ラハブは、人に踏みつけられ、利用され、嘲られ、捨てられ、社会から最も忘れられた、最も惨めな、最も貧しい者として、人知れず生きていた。

ところが、神はイスラエルの民を勝利に導くために、人間的には身を守るものが何もない彼女を、あえて、人目につかない方法で、こっそりと選ばれた。それは 地上で最も低くされた人間が、ただ神によって高く引き上げられる瞬間であった。エリコの城壁の中に横たわる、一面の非人間的な暗闇から、彼女を救ったの は、彼女の信仰を通して、主が彼女に届けられた、赤い紐、子羊の血の象徴であった。

彼女とその家族が子羊の血を身に帯びた時、誰も予想できなかった逆転劇が起こった。それまで貧しい人たちを虐げて勝ち誇ってきた、弱肉強食の、エリコの城 壁という、堅固な人為的な制度が、突然、崩れ去ったのだ。不意に、それまで勝ち誇っていた、十字架の刻印を帯びない全てのものが滅び、ただ復活の命によっ て生かされるものだけが残った…。

このことを思う時、やはり、私たちを生かすものは、私たちの努力でもなく、才能でもなく、人と巧く折り合いつけられる能力でもなければ、学歴でも、職歴で もなく、現在、携わっている仕事の内容でもなく、賃金でもなく、まして、私たちの聖書研究だとか、賛美だとか、集会だとかではなく、ただ御言葉なる主イエ スの十字架の死と、復活の命しかないのだ、と思う。

人の作った制度の全ては、廃棄されなければならないし、廃棄を運命づけられている。人間の真面目さもそうである。私たちはいつも自分では気づかずに、自分 の中にある「何か」により頼んでいる。真面目に仕事をする人は、それにより頼んでいるし、熱心に聖書を読む人は、それにより頼んでいる。私たちが何により 頼んでいるかは、他人との衝突の際に露になることが多い。(私たちは自分のより頼んでいる価値を他人から否定されることに耐えられないのだ。)

だが、神へ向かう際に、私たちのより頼んでいる全てのもの、生まれながらの善意、情け、好み、真面目さ…、そういったものが全て、一旦、十字架に渡されな ければならない。もちろん、私自身の個性もだ。神以外のものにより頼もうとする私たちの生まれながらの誇りは、全て、十字架につけられなければならない。

私の魂には、まだ十字架が実際となっていない多くの部分が残っている。そのことを分かった上で、私は今日も、新たに主イエスの十字架の死を帯び、兄弟姉妹 と共に、主イエスによる義の衣を着せられて、神の御前に立ち、主を崇めるために、ある礼拝へと向かう。ひょっとすると、リーダーのいるこの礼拝も、偽善で あり、人の作った城壁に過ぎない、などと言う人々もあろう。だが、うわべ(形式)を見る人には、言わせておこう。

今、寄る辺ない私が、この礼拝と交わりに出ることのできる状況が与えられているのは、人の情けによらず、私の好みによる選択でさえなく、まして、私の人徳 によらない。ただ天におられる神の恵みに満ちた采配による。たとえ私を取り巻く状況が、どれほど絶望的な時であって、たとえ全ての人が私を見て、何の希望 も見出せない、と言ったとしても、主イエスの十字架の死のあるところには、必ず、復活の命も働く、そのことを信じる。

この社会の中で、打ち捨てられた世代に属している者に、どこに希望があるのだろうか。エリコの城壁の中で、生きる術と望みを失いかけている者たちに、どこに希望があるのだろうか。それはただ子羊の血と、よみがえりの命にある。私たちはどんな団体にも寄りすがることはしない。どんな団体の名前に栄光を帰することもしない。ただ主イエスの復活の命を信じていることが、私たちの希望である。ただ復活の命に立っていればこそ、兄弟姉妹との関わりが成り立つ。生まれ ながらの姿では、互いに愛することも、理解することもできない人々を、十字架の和解によって、一つに結びつけて下さっているのは、主であり、滅ぼすことのできない主の復活の命によって結ばれているがゆえに、私の偏った好みやあらゆる偏見を持ってしても、兄弟姉妹をバラバラに分解することはできないのであ る。

主なる神よ、私たちを取り巻く状況は、あまりにも困難で、私はこの社会の城壁の中で、行き場を失ってしまいそうです。誰もが人を利用してはばからず、望みがかなわないと、すぐに他人を踏みにじるような、殺伐としたこの社会にあって、身を守る術もない者が、どうやって生きて行けば良いのでしょう。私には一人の弁護者もおらず、私の立場は弱すぎるのです。

ですが、主イエスよ、あなたこそ、私の弁護者、私の保護者です。荒れ狂った乱暴な世の中から身を避けて、私はただあなたの中に隠れます。そこではあなたが 私の罪咎を、主イエスの血で覆ってくれます。主よ、あなたが我が希望です。私たちの信仰を通して、あなたのはかりしれない御力が、私たちの弱さの中に、力強く働きますように求めます。あなたが私たちを守ることができる、真の夫であり、偉大な王であられることを強く信じています。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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