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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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夫に捨てられた女の子供たちは…(1)

「『子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 喜びの歌声をあげて叫べ。
 夫に捨てられた女の子どもは、
 夫のある女の子どもよりも多いからだ。』
 と主は仰せられる。」(イザヤ54:1)


仕事をしていた頃には、忙しさに取り紛れて見えなかった事実が、仕事を辞めると、急に見えて来る。職がないと、私の社会的な立場はどれほど不安定になる か? その上、家庭がないと、世間からの評価はどれほど下がるのか? 我が身の頼りなさを覚えるごとに、大地を踏みしめるこの二本の足さえ、不安のため に、よろめきそうだ。

「あなたは三人姉妹の長女なの? それは大変よね。だって、その歳になって、まだ『片付かない』んじゃ、あなたも、妹の手前、つらいでしょ?」

そんな言葉を、主にある姉妹から聞かされた時、驚いて、すぐには答える言葉がなかった。私の年齢では世の中に独身の女性は結構、多いはずだが、それにしても、それは冗談事で済まされなかった。まして、妹との関わりにまで言及されるのはかなわない…。

私の母の名前は、三つの喜びを授かるという意味を持っている。不思議な名前で、どういういわくがあるのか分からないが、その三つの喜びとは、私独自の解釈 では、主が母にお与えになった、三人の娘たちを指す。主が憐れみを持って、二人の妹を私に与えて下さった。きょうだいが与えられたことを、私は心から主に 感謝している。きょうだいから学べることははかり知れないほど多かったのだ。だが、皮肉にも、三人の姉妹は、子供時代に、家庭で十分な愛を受けられずに 育った。そのため、長い間、姉妹の間でさえ、心が通い合わなかった。さらに、キリスト教界で共に信仰に躓いて以来、妹たちは、今、同じ神を信じているのか どうかもよく分からない…。

けれど、そんな状況の全てを乗り越えて、キリストの十字架を通して、一家全員が心から和解し、共に喜びを分かち合える日を、どんなにか待ち望んで来ただろ う…。私と両親とは主の憐れみによって和解済みであるが、妹との主による一致にはまだ至っていない。それは私が不信仰ゆえに、人生で大きな挫折を経て後、 妹と対面することに、より一層、臆病になってしまったせいもあるかも知れない…。

このような説明を、私はあえてせずに、世相に話題をずらした。このことについて、自己弁護の言葉が何か必要だろうか? この問題について、主の御前で、私 が低められることが必要ならば、それは甘んじて受ければ良いではないか? 世間に誇るべきものを持たず、輝かしい人生行路も歩んで来なかった私が、たとえ まだ「片付いていない」ことで、半人前とみなされ、劣った者として評価され、あらぬ疑いを受けたとしても、それも構わないではないか。それもただ、主に あって、私が受けるべき分なのかも知れない。主だけが、私が経て来た心の痛みも、苦しみも、全てご存知である。

不思議なことに、こういう瞬間、主が確かに私の心を守って下さっていることが感じられる。そしてこんなことさえも、主が私への愛に満ちた配慮のゆえに、用意なさっているような気がしてならない。

「へりくだりなさい。たとえ侮辱されても、中傷されても、嫌疑をかけられても、あなたは私を信じ、私の前に頭を垂れ続けてくれますか。私はあなたにそうし てほしいのです。あなたは人の心がほしいのですか? 人から愛され、評価されることが目的ですか? 人と一緒に楽しむことが目的ですか? それとも、私の 心だけを求めますか? たとえ全ての人があなたを嫌い、あなたに背を向けたとしても、あなたは私に従ってくれますか? あなたの心が求めている愛すべき対 象が、全てあなたから去っても、私に従いますか? あなたの見かけの評判の美しさが損なわれ、あなたが仲間内で、最も蔑むべき、卑しい、劣った人物として 評価されたとしても、あなたは私に従いますか?」

ああ、そうだったのだ…、主はそのことを今までにもずっと、私にお聞きになりたかったのだろうなと、改めて思う。これが私が今まで祈り、訴え続けて来た理 不尽な問題に対する、現時点での、神のパーフェクトな解答なのだという気がする。今は、主よ、あなただけを選びます、と、答えたい。仰せの通りにして下さ い、たとえ私から全ての尊厳が剥ぎ取られたとしても、あなたが私を丸ごと得て、満足されますように。そう答える以外に、どこに私の行き場があるのだろ う…。職場からは去ることができても、生ける主の御手からは逃れることはできないのだ…。

神の御手の中で、自分の弱さ、脆さを思い知らされることは、幸いなことだ。主イエスも、そういう生涯を歩まれたのだから…。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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