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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

夫に捨てられた女の子供たちは…(2)

さて、先に挙げたイザヤ書の言葉から、私は、主イエスを産んだ乙女マリヤのことが思い出されてならない。天使ガブリエルが彼女を訪れた時、マリヤはまだ小娘 と呼ばれてもおかしくない年齢であった。ヨセフはまだ彼女の夫ではなかった。従って、マリヤは一度も子供を産んだことのない女であり、産みの苦しみを知ら ない女であった。さらに、婚約者ヨセフも、その後、彼女の妊娠を知って、離縁しようと秘かに思い悩む。

夫を持つことと、子供を産むことが、女の誇りであると考えられるような世の中において、マリヤは、何も持たない、無力の象徴のような幼い娘であった。彼女 はまだ「片付いていない女」であり、子供を産めるはずのない女であった。さらに、彼女は、婚約者に捨て去られてもおかしくない形で、子供を身ごもった。彼 女はただ神によらなければ何事もなすことのできない、完全に無力な一人の娘として、主によって選び出された。彼女にメシアを宿らせたのは、女たちが頼みと する猛々しい夫の力によらず、さらに、女たちが誇る、美貌や、若さや、子を宿す能力にもよらなかった。

なぜイザヤ書の先の御言葉は、産まず女や、捨てられた女たちに、喜び歌えと朗報を聞かせているのだろうか。なぜ、夫に捨てられた女の子供は、夫のある女の 子供よりも多いと、謎かけのような言葉を語るのか。それは、肉の力によらなければ生まれないアダムの子孫と、御霊によって生まれた女の末裔であるキリスト の子孫を対比してのことであろう。肉の力を頼みとするアダムの子孫は、衰え、やがて滅ぼされ、絶え果てる運命にあるが、肉によらず、キリストの復活の命に よって生かされる神の子らは、栄え、やがてアダムの子らを完全に凌駕する。だから、肉にあって誇るべき夫を持たない女たちが、かえって、主によって高く掲 げられる栄誉を授かるのだ。

同じことが私たちと世との関係においても言える。キリスト者はこの世の朽ちゆく富を頼みとしない点では貧しいが、天にある朽ちない富を頼みとする点では富 んでいる。我らの神は、世の強者をはずかしめるために、あえてこの世の弱い者たちを選ばれ、肉による誇りと頼みとして高ぶる者たちを退けて、己の無力を 知って魂の打ち砕かれた者を保護して下さる。 おおよそ肉を頼みとする者は神によって呪われて滅び、ただ主だけを頼みとする者が祝福され、栄えるのである。
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