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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

夫に捨てられた女の子供たちは…(3)

「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みとしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:3)

だから、人生において、肉による頼みとなるものがどれほど欠けていても、主が我が砦となって下さり、我が内にお住まいになっておられることが、私たちの希 望であり、将来の保障であり、魂の平安である。世の女性たちの多くが、夫を誇り、子供の数を誇り、家庭の規模を誇り、財産と持ち物を誇り、そのことによっ て武装しているように見えても、私たちは、キリストの十字架において、もはや、肉による力を誇るという武装からは解除されていることを喜ぶ。

そこでは、目に見えて頼るべきものを何も持たない、徹底的に弱くされた者にこそ、喜びと、恵みがある。神はこの世で力を誇る男たちよりも、むしろ一人では 何もできないマリヤのような、無力な存在を、あえて選んで下さった。私たちキリスト者の真の(霊的)夫となられるべきお方は、肉による主人ではなく、主た だお一人である。私たちはキリストの花嫁たるエクレシアであり、肉の力により頼まずに、ただ信仰によって、私たち自身が、マリヤのように、キリストを産み 出す母体となるのである。

このキリストにこそ、神の満ち満ちた性質が形を取って宿っている。知恵と知識との宝がすべて隠されている。キリストのうちにこそ、神の恵みの豊かさの一切 がつめこまれている。キリストは私たちに与えられた神の恵みの実体である。そうである以上、私を立派に見せかけてくれるこの世の全ての富も、どんなに頼も しい人々も、このお方と比べては何の価値も持たない。

キリストを信じて義とされ、その御霊を内にいただき、私たち自身の腹から生ける水が川々となって流れ出す(キリストの放出!)ことが御言葉によって約束さ れているのに、どうして今更、自分が肉において弱すぎることを苦にして、人を恐れる必要があるだろう? どうして人の噂や評価を恐れて、世間の前で、半人 前とみなされないために、あれやこれやの対策を早急に講じる必要があるだろう? そのようなものは、私たちが心から主を愛し、主に従うならば、全て添えて 与えられるだろう。

主が私と共におられる。主ご自身が、私を支えて下さり、私の前と後ろを歩まれる。神は御子の流された血潮により、私を罪なき者として見て下さる。

だから、この社会で、孤独と頼りなさを感じる時には、それもまた、主の御手の中で、弱くされるための出来事なのだと信じよう。私たちが弱い時にこそ、私た ちは主にあって強い。神の召し出された民は、いつでも、肉による無力という十字架を負って、世から分離されて来た。場合によっては、神の民からさえも、理 解されずに、打ち捨てられて、孤独の内を歩んで来た。その孤独の中でこそ、彼らは本当に、ただ主だけを見上げ、主だけにより頼むことを学び、それを通し て、主こそすべてに勝るリアリティであることを経験的に知ったのである。

主よ、私はあなたに従います。今、置かれている状況の不安定さや、人の評価に対する一切の引け目、将来に対する思い煩いにも関わらず、それら全ての弱さの 中から、ただ主を見上げます。そして、キリストの御身体の一部として、キリストの苦しみを共に担う者とされたことを、心から喜びます。涙せずにいられない 時に、その弱さの内にこそ、キリストが共におられ、共に苦しんで下さることを信じます。主が弱さの中にこそ、共に栄光を現して下さることを信じます。私の 力が尽きたところに、神のはかりしれない御力が働くことを信じ、私は主にあって弱さを誇ります。栄光はただ主のもの。地上で低められることが、御父の御心 にかなう、天における私たちの栄光なのです…。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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