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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

内なる人と外なる人(1)

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)

神の御前に、静まって、心を注ぎ出して祈れ。魂を惹きつけ、あるいは魂を乱す全ての世の喧騒から逃れて、静けさの中で、神に向かえ。まことに主はご自分を 隠される神。隠れた神を探し求めるなら、まず私たち自身が、神の前に、隠された者として、静まって進み出なければならない…。

御霊に従って生きる、今、その原点に立ち戻らされます。神の御力は、状況によらず、人の言葉によらず、外的な影響力によらず、私たちの内側から、外側へ向 かって放出するのです。そうでなければ、私たちの腹から、生ける水が川々となって外へ流れ出る、どうしてそんなことが起こり得ましょうか?

川が出来るためには、源が必要です。いつまでも流れる川ができるためには、いつまでも枯れない源が必要です。しかし、私たちの内側には、そのような永久的 な源がありません。生き物としての私たちは、常に、外側から何かを摂取しなければ、片時も生きられません。ご飯を食べなければ死にます。人と会わなけれ ば、孤独に苛まれます。私たちの天然の命は、外側からの影響によって支えられなければ、正常に維持できないのです。外側から何かを内側に取り込むことに よって、初めて、活動が可能になり、内から外に向かって、何かのエネルギーが流れ出します。

しかし、キリスト者の中には、このように、外界に依存した天然の命の他に、別の朽ちない命があります。それは天然の命とは全く異質ではあるけれども、別な 命という言い方は、ひょっとすると、適切ではないかも知れません。この命はキリストのよみがえりの命であり、全てを支配する命です。この命が生き生きと私 たちの全存在をとらえる時、私たちの朽ちる命さえ、その支配の下に従属させられるのです。

しかし、現実を見るならば、私たちの生き方は、ほとんどの場合、朽ちる命が朽ちない命を堅く覆ってしまい、圧迫し、閉じ込めています。私たちの魂が、あま りにも外的現象に心惹かれ、それによって一喜一憂することを、真の生きる動力源のように思い込んで握り締めているからです。この世の喜び楽しみによって生 かされようとする気持ちが強すぎて、真に静まって神のお与え下さった霊的な命によって生かされようとする願いがかき消されてしまうのです。この関係が逆転 されない限り、本当の意味で、キリストと共に統治するという、キリスト者がこの地上において任されている重大な使命の意味を、私たちは少しも経験すること なく、人生を終えてしまうかも知れません。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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