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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

内なる人と外なる人(3)

外的現象に左右されながら、魂が下す善悪の判断が、決して、信仰から来るものでない、ということを、私たちがはっきりと知るためには、やはり人生に嵐が必要です。

舟に乗っている途中に嵐に遭った弟子たちは慌てましたが、主イエスは彼らの信仰の薄さをお叱りになりました。私たちが乗っている信仰の小船は、なぜこうも 度々、嵐に見舞われるのでしょうか。それは私たちがもはや、自分の喜びや、悲しみを動力源として進んで行くのではなく、波が静かであるか、逆巻いているか という外的現象に関わらず、たとえ嵐がそのままずっと続いたとしても、状況に関わらず、霊的な命を動力源として進んで行くことを学ぶためなのです。

ある人々は、このことを曲解して、クリスチャンはどんな苦難に直面しても、喜ぶべきだと説きます。いつも喜んでいなさい、という御言葉を根拠にして、信仰 者はただ平静な(もしくは熱狂的な)喜びという、たった一つの感情だけしか持たないロボットのようになるのが正しいかのように考える人さえいます。しか し、これは思考操作であり、ごまかしです。この御言葉が説いている喜びとは、魂の喜びではなく、霊的な喜びのことです。私たちはしばしば困難に直面し、苦 しんだり、悲しんだりしますが、その苦しみの中でも、主を信じて見上げる時に、人知を超えた喜びと平安が心に与えられるのです。

もしもこの御言葉を、魂の領域の喜びであると解釈してしまうなら、人の魂が経験する、喜び以外の、痛みに満ちた負の感情を全て切り捨てることになるでしょ う。それは非常に偏った、都合の良い考え方をする、同情心の欠如した人を作り出します。たとえば、泣いたり、怒ったり、落ち込んだり、悲しみに心塞がれて いる人を見ては、あれは信仰が薄いからああなっているのだとか、霊的に下降しているのだとか、サタンに圧迫されているのだとか、未だ過去のトラウマから抜 け出せていないのだ、などと批評し、人を心の中で罪定めするようになるかも知れません。私たちはそのような言い分に耳を貸す必要はありません。私たちは自 然な人間として振舞うことを何も主から禁じられていません。主イエスもそうされました。喜ぶだけでなく、思い切り、悩んだり、悲しんだり、泣いたりして良 いのです。自分の好みを一切捨て去ろうとする必要もありません。

ただし、そんな中でも、忘れてはならない重要なことは、信仰の薄い私たちの、浮かれやすく、落ち込みやすい、好き嫌いの多い、揺れ動く感情のほとんどが、 霊的な領域には属さない、魂の領域で起こっている事柄に過ぎないということです。私たちの魂が、真に十字架の刻印を得て、子羊の砕かれた柔和な霊に服して いないうちは、私たちの魂が経験するほとんどの事柄は、霊からは独立しているでしょう。私たちが神からの恵みだと思って握り締めているそのほとんどの喜び でさえ、きっと、真に霊的な事柄とは無縁なのでしょう。

私たちは信仰の幼子であるうちは、身近に起こる出来事や、与えられる恵みに一喜一憂しながら、それを糧として進んで行くかも知れません。しかし、いつかは 大祭司なる主イエスに、霊と魂を切り分けられる時が来ます(来てほしいものです)、その時になって、初めて、私たちは自分の魂が、好ましいと思うか、思わ ないかという物差しに基づいて物事を判断するのではなく、魂の制限を解かれて、神の霊なる命に導かれて生きることを最優先事項とするようになるでしょう。 その時になって初めて、私たちの天然の命は、その好みさえも捨てて、子羊の霊に服従するのです。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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