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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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外なる人が砕かれる(1)

私たちキリスト者は、信仰の歩みがまだ幼いうちは、祝福を得る時、有頂天になって喜び、失敗したり、人から拒まれたりする時、子供のように落胆します。

多くのクリスチャンは、祝福されて、喜びに満ちた生活こそ、真に霊的な生活だと思い込んで、それを目指しています。しかし、私たちは知りません、私たちが この手に握り締めようとしているその喜びは、極めて利己的かつ一面的な思いに過ぎず、それは少しも他者を生かさないどころか、貧しい他者を辱めてその上に 君臨し、ただ自己の頑なさをさらに強化するためのものでしかないことを。

御言葉は言います、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に泣きなさいと(ローマ12:15)。 しかし、私たちの心は、いつも自分の思いでいっぱいになりすぎていて、他人の心の必要に応じることのできる柔軟さを持ちません。喜んでいるクリスチャン は、悲しみに暮れている人を見て、心の中で、「彼らは霊的に正しい状態にないから、あんなに付き合いが悪く、落ち込んでいるのだ」と裁きます。他方、悲し んでいるクリスチャンは、喜んでいるクリスチャンを見て、「彼らは同情心がなさすぎて、無神経すぎるのだ」と裁きます。果たして、頑なのは誰でしょうか?

たとえ喜びに満ちているにせよ、悲しみに満ちているにせよ、我が心の状態を絶対のものとして握りしめ、他者に対する優位性を誇ろうとするような心こそ、頑 ななのです。しかし、私たちが持っている心は、生まれながらに頑なです。私たちはうなじの固い民であり、神に対しても、人に対しても、常に反逆的な思いを 持っています。そして自分こそが正しく、他の考えは全て間違っているという思いで溢れているのです。この頑なな心は、決して、主イエスが持っておられた柔 和さとは相容れません。

喜ぶにせよ、悲しむにせよ、日々、右往左往を重ね、些細なことに一喜一憂しながら、ただ自分だけを中心として生活している私たちの魂が、キリストの御霊を どれほど悲しませ、真に霊的な生活を送るために、どれほどの妨げになり、覆いとなっているか、私たちはほとんど知りません。

御言葉は言います、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、多くの実を結ぶことはないと(ヨハネ12:24)。 麦粒を覆っている硬い殻は、私たちの魂であり、自己です。この自己が砕かれ、柔軟にされない限り、私たちの内側から、キリストの朽ちない命が、途切れるこ とのない奔流となって、外へほとばしり出ることはないでしょう。世の人々が私たちを見て、真にへりくだった柔軟な魂(子羊の霊に服する心)を認めることは ないでしょう。それが可能となるために、神は不本意ながら、私たちに人生の嵐を送って、私たちの心を、再三に渡り、打ち砕かなければならないのです。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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