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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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外なる人が砕かれる(2)

以下は、『開かれた天』、ペンルイス著、第二章より引用。

…主は私たちの上で御手を翻して、絶えず私たちを砕かれた状態に保たなければなりません。それは、使徒パウロでさえ、「私が高ぶり過ぎないように、肉体に一つのとげが与えられました。それは私を打つサタンの使いです」(2コリント12:7)と言わなければならなかったからです。

私たちは、「自分は思いやりがある」という考えにふけったり、常に自分をひいき目に見て他人と比較したことがないでしょうか?「は利己的ではない」と言い、人の身勝手さをとても厳しく注意したことがないでしょうか?人を裁く霊の危険性が忍び込んでいないでしょうか?

パウロは言いました、「それは私がキリストの中に見いだされるためです。私自身の義を持つのではなく」(ピリピ3:8,9)。神の目に忌まわしいのは、私たちの自己満足と 「」 「私の」という物言いです。

神の啓示は「私」 「私の」 「私のもの」 の忌まわしさに関する光を私たちに与えるので、私たちはこう言うでしょう、「主イエスよ、これからは 『あな た』 『あなたの』 でありますように。私たちは自分自身を守るよりも、彼と彼の取り扱いを義とします。すべての人にあなたを見上げさせるよりも、キリス トと共に苦しみを受けるのにふさわしい者とみなされる方が遙かに大いなる祝福です。首長――『王』――として人々の上に君臨するよりも、イエスと共に彼の 十字架の交わりの栄誉にあずかる方が遙かにまさっています」

これがこの午後の霊的写真ではないでしょうか? あなたは自分に向かって、<…>「試みの時、私はためらうことなく、『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』と言うことができました」と言っていないでしょうか?

しかし、あなたはこう付け加えることができます。「私はかつて光の中を歩んでいました。しかし今は、荒涼とした寂しい荒野の中にいるようです。かつて私は 神との透明な交わりを持っていました。しかし今、神は語って下さらないようです。私は人々のために『用いられ』ました。しかし今、神は私とまったく無関係 のようです。かつて私は首長として座していました。しかし今、私は孤独な隅に追いやられ、あざけられています。彼らは私を成功した人気のある働き人と思っ ていました。今、彼らは、『彼女はまったく“用いられて”いないようだ』と言っています」

このようなことのただ中にあって、あなたは万事における自分の潔癖さを根拠に自分を慰めます。あなたの憐れみ深い心! あなたはなんと無私だったことでしょう! <…>人々がなにをしても、あなたは彼らのように行動しませんでした! あなたは、「私をこの試みの道に導いたのは神です。私はこの世の与えうるすべての栄誉を受けるよりも、むしろ神と共に歩みます」と言うよりも、自分自身を義とすることに熱中していたのではないでしょうか? 人々の間で王や首長として座すことができるときに、小羊の霊を持つ方法を学ぶのは容易ではありません。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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