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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

御霊に導かれて歩むために(5)

な ぜ私たちの自己はキリストと共に十字架で死に渡されなければならないのでしょうか。それは私たちのうちで、キリストが全ての全てとなられ、たとえこの地上 の幕屋である肉体の中にあっても、キリストの復活の命以外の偽りの命が、私たちをもはや支配することがないためなのです。

どうか大祭司なる主イエスが、何が霊に属することであり、何が魂の命に属するものであるのか、経験を通じて、私たちに知らせて下さいますように。そして私 たち信徒が、復活、聖天したキリストと一体となり、キリストの中にある神の満ち満ちた命を実際に地上にあって生きることができますように。

以下は、オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から引用。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

私たちは、神の霊の実際の働きはすべてをキリストご自身に帰することであることを学ばなければなりません。彼、キリストが「内なる人」である私たちの霊のいのちでなければなりません。それは、私たちが主の中で強くあるためです。自分自身や、他の人々や、物事によってではありません私たちは、彼の内なる力だけで、逆境を切り抜けなければなりません。

キリストは私たちの知性のいのちでなければなりません。説明する力や理解する力がないために、私たちは困惑するかもしれません。しかし、御霊は教え導いて下さいます。

キリストは私たちの体のいのちである必要があります。肉体のための神聖ないのち、というものがあるのです。主は常に体を癒されるわけではありません。しかし、御旨を成就するために、主は体のいのちとなることをいつも願っておられます。苦難の中でもです。

いのちは主ご自身です。そして、主ご自身がいのちとなるために、いのちはしばしば天然の無力さという背景と対峙(たいじ)させられなければなりません。彼の復活の力は、最初から最後まで、キリストとの合一の法則です。主の民は恐ろしい圧迫の時代にあります。彼らの敵はほとんど休みを取りません。私たちのいのちなる主ご自身にのみ、十分な備えがあります

バルナバは最初、「心を堅く保って主にとどまるように」(使徒の働き11章23節)と信者たちを励ましました。この言葉には断固たる響きがあり、「私たちのいのちであるキリストが現される時」まで私たちに押し迫るでしょう。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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