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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

御霊に導かれて歩むために(2)

ペンルイス著、神にある命への道、十字架の言葉より引用。

「神の言葉は生きていて活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊さえも刺し通して切り離すことができます」(ヘブル4:12)
 
御霊は神の言葉を通して働かれます。この節の原文の思想は、祭儀用の刀を意味します。全存在は神にささげられ、彼の神聖な霊の内住によって証印を押されて、徹底的に対処されなければなりません。彼の言葉が、魂と霊さえも刺し通して切り離さなければなりません

聖霊は、私たちに耐えられる範囲内で、私たちに地的な命を示されます。彼がそうされる時、それまで純粋に「霊的」だと思っていたものの中にどれだけたくさん私たち自身の命が混ざっていたかを知って、私たちは落胆します。彼は私たちに、この源から出るものはすべて堕落していること、また私たちの「被造物的活動」や「奮闘と試み」はまったく神の奉仕の役に立たないことを示されます

聖霊は、すべての能力、力、智恵、知識を、私たちから枯渇させてしまわれます。かつて私たちは、自分は有能であり、彼が用いることのできる「賜物」を持っている、と思っていました。ところが、今や失敗だらけです。私たちが尊んだ神の御業の上に「イカボテ」と記され、破滅に瀕しているかのようです。そのため、「私は空しく自分の力を費やした」と私たちは叫びます。

さらに、私たちの感情も冷めてしまったかのようです。私たちは自分の「かたくなさ」に愕然(がくぜん)とします。「自分は後退しつつある」と私たちは思いますし、それを避ける力も無いかのようです。すべてが非現実的に思われて、自分は偽善者であると考えそうになります。できることなら、聖書の授業から逃げてしまうでしょう。

しかしこれこそ、完全に神に焦点づけられた命への道なのです。すべては死ななければなりません見返りを切望する私たちの愛さえ死ななければなりません。それは神のために、また神の愛のために、場所を設けるためです。神の愛は見返りを求めずに愛します。それは純粋で非利己的です

御霊はまた、霊的な事柄における天然の命の別の面をも暴露されます。それは極めて狡猾です。私たちはそれを「献げられた自己」と呼ぶことができるでしょう。この自己は過去の豊かな経験を誇り、神の栄光のために神経質に心配し、「契約の箱のために震え」、成功することを願い、神の王国の中でもっとも偉大な者になることを求め、しるしと経験を切望します

それは、「私を祝福して下さい、私を祝福して下さい、主よ」と絶えず叫び、集会で霊的な楽しみを追い求めます。また、神の使者たちを批評し、自分の霊的経験の地点に達していない他の人々を見下します。さらにこの自己は、「人々の霊的状態」について話し合い、人々が受け入れることができるようになる前に「真理」を無理強いします。この自己は初期の段階の神の御業を軽んじます。

変化に注目しましょう。かつては自己のための自己でした。今は神のための自己です。

神の霊は、魂の命のこの巧妙な形態を、かつて与えた霊的な富――祈りの力、人々への愛、約束に関する理解、神の臨在の感覚――を(見かけ上)引き上げることによって対処されます。彼は、私たちが以前ならありえなかったような些細なことで失敗することを許されます。また、特異な個人的特徴を持つ自我が、その醜悪な醜さをことごとく私たちに見せつけることを許されます。これらのものを彼はすべてご覧になっていましたが、私たちが彼の恵み深い臨在と力をで経験している間は、私たちから隠されていたのです。

ついに私たちは自分自身を知ります。私たちはかつての歩みを取り戻そうともがきますが、すべては空しく思われて、絶望してしまいます。

この剥ぎ取りは、ヨブ記19:6-21に生々しく描写されています。また苦々しい苦悩の中にある魂の叫びは、詩篇88篇に記されています。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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