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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

御霊に従って歩むために(4)

一つの経験を分かち合いたいと思います。

以前に私は、クリスチャンの肉が十字架で対処を受けねばならないだけでなく、私たちの魂の命もまた、キリストと共に十字架で死に渡されなければならない、というテーマについて書いていました。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と エレミヤ書17:9にあるように、私たちの生まれつきの魂は、利己的であり、極みまで腐敗しており、欺きに満ちており、神への霊的奉仕を常に邪魔し、その 奉仕の中に巧妙に入り込んで、神の栄光を自分のために盗んでしまいます。私たちの生まれながらの自己は、真に十字架を経ないうちは、私たちがキリストの栄 光を現すための最大の妨げです。

私たちがこのような腐敗した魂――自己――から切り離されて、純粋に神の栄光のために奉仕できる者となるために、大祭司なる主イエスは私たちの霊と魂を切 り分け、魂の命そのものを十字架で対処したいと願っておられます。そこで、私たちの魂を生かしている天然の命そのものが、キリストと共に十字架で死に渡さ れなければならないのです。このように、キリストと共なる十字架上での私たちの死が、肉においても、魂においても、私たちの信仰生活において常に実際の経 験とならなければなりません。

世は、クリスチャンが、この世は罪定めされており、滅びが決定づけられているというメッセージを語っても、ほとんど反発しないでしょう。いくつかの宗教 は、この世に希望がないことを認めています。しかしながら、私たちが、自分自身の生活において、キリストの十字架を実際に経験として知らなければならない と語ると、つまり、肉と魂をキリストの十字架において死に渡されて、自己を十字架で対処されねばならないということを語ると、どれほど大勢の人々がそれに 拒否反応を示すでしょうか。

私は神学的見地からこのことについて議論しません。ただ一つ言えることは、暗闇の勢力が最も恐れるのは、そのようにして、十字架が生活において全存在的に 実際となっているクリスチャンであることです。なぜならば、自己が十字架で対処されるという過程を経てのみ、神の命――生ける水の川々――は本当に、私た ち自身の腹から外側に向かって流れ出すようになるからです。このようにしてキリストの統治をこの地上に実際としてもたらすようになったキリスト者こそ、こ の暗闇の主権者たちが、地上から何よりも消し去りたい存在なのです。

しかし、このテーマについて書いている時、私の魂に十字架が実際となるためには、どんなに重い代償が支払われなければならないかに、私はまだ気づいていま せんでした。その当時、主がまずは私自身を通して、このことを立証なさろうとしておられることにも、気づいていませんでした。私は自分の魂の腐敗について ほとんど無知でした。にも関わらず、ある程度、自分は十字架の対処を受けているとさえ思って、高慢に、また悠長に構えていたのです。

主は私が、自分で思っているような霊的な信徒では少しもないこと、私の魂に自分で見たくないさまざまな悪しき性質が残っており、どれほど十字架が実際と なっていないかを改めて示し、理論としてではなく、実際にキリストと共に、私の魂は十字架で死に渡される必要があり、私自身が墓へ下らされなければならな いことを知らせる必要がありました。そのために主は、あえて恐るべき試練が私に降りかかることをお許しになりました。

暗闇の勢力が活発に動きました。人生で一度も会ったことのない、見ず知らずの人たちからの、考えられない規模の、非難と中傷が起こりました。そしてそれと 全く期を同じくして、その頃に交わりのあった、数少ない兄弟姉妹までが、私を厳しく罪定めし、交わりを絶ったのです。それまで、まさにその兄弟姉妹と共 に、私はキリストの十字架をより深く実際として知る必要性を学んで来たのに、何が起こったのでしょうか。

誰よりも信頼していた兄弟姉妹から見放され、右も左も分からない土地で、たった一人ぼっちで置き去りにされ、しかも、ひっきりなしに私を罪定めしようとす る声が押し迫って来ました。しかし、その時、私にとって、他のどんなことよりも衝撃となったのは、人々からの取るに足りない非難に対して、御言葉によら ず、同じように取るに足りない方法で自分の義をかばおうとしている自分を発見したことでした。私たちの弁護者は主ではありませんか! これまで私は、主の ためにすべてを犠牲にして惜しまない覚悟を語っていたではありませんか! なのに、追いつめられると、私は主の解決を捨てて、自分の解決を取るのでしょう か? それが何の役にも立たない、下らないものであることを十分に分かりながら…。私は偽善者なのでしょうか? これまで述べて来たことは、私の大言壮語 に過ぎなかったのでしょうか?

この異常な事件の背後には、明らかに、暗闇の諸々の力が働いていましたが、何よりも、私を打ちのめしたのは、自分が主の御前に、願っていた最低のレベルの 聖潔ささえ、保つことができないことでした。私がより頼んでいた自分の長所は、見る影もなく壊され、初めからそんなものは存在もしていなかったかのようで した。以前にはあれほど私に期待を寄せてくれていた兄弟姉妹が、今は私の行き過ぎと失敗を嘲笑しています。かつて共に真剣に学んでいた兄弟姉妹が、今は私 の真剣さが行き過ぎていたのが誤りなのだと言います。私は愕然とし、自分を恥じ、打ちひしがれ、主を裏切ったペテロのように泣きました。私は神からも、人 からも捨てられ、無用の器となったのだと感じました。そして実際に、私はその時、完全に一人ぼっちでした。人々は私の名を恐れ、私が犯罪者ででもあるかの ように、近寄ることもしません。私はまさに墓の中に閉じ込められてしまったのです。その時に、私は真に神の命に立って生きようとする人が、どれほどの代償 を求められるか、その重さを初めて知ったのです。

ですが、臆病な私は、恐ろしい霊的な戦いをそれ以上、続けたくありませんでした。墓にとどまっていたくありませんでした。「たとえ彼が私を殺すとしても、私は彼を待ち望みます」(ヨブ13:15)と 言うことができませんでした。私はまだ自分の義にこだわっていました。さらに、たった一人ぼっちになっても、ただキリストだけにより頼んで、全ての困難を 切り抜ける覚悟が、出来ていませんでした。私は孤独に弱いのです。それまで、兄弟姉妹からの支えがあることが、私の心のよりどころでした。エクレシアに連 なっていることが、私の支えでした。なのに、兄弟姉妹との交わりを失って、どうやってこれほどの困難と迫害に、一人で立ち向かって歩いて行けるでしょう か。

ですから、私はその戦いを一時保留にして、もっと親切で優しい兄弟姉妹から助言と励ましを受けて立ち上がるために、墓を途中で抜け出して、霊的戦場を去って行ったのです…。

主は私の「逃亡」を優しく見守って下さいました。主は決してどんなことでも、私たちに無理強いなさいません。私たちが自分の魂をキリストと共に十字架に死に渡すというその作業も、大祭司は、私たち自身のOKがない限り、続けることはなさらないのです。

しばらくの間、私はミデヤンの地に逃れたモーセのように、市井の人として生きることに専念しました。平和な生活を送りました。主は私に新しい知人を与えて 下さり、また、新しい兄弟姉妹との交流も与えて下さいました。私は忘れ去られて、普通の人のように生きたいと願いました。それは私の魂のしばらくの休養で した。しかし、次第に、神の命にある人生を本当に送りたいならば、決してこのような生活は長くは続かず、全てを置いて、神を求めるかどうかの決断を、再び 迫られる日が来るということが、次第に、分かって来ました。その兆しが至るところに認められるようになりました。私が投げ出した課題は、未だ、私の目の前 にあります。私さえ、「はい」と言うならば、その訓練は再開します。幸いなことに、主は、私たちが全存在的にキリストの十字架の対処を受けるまで、決し て、私たちの存在をあきらめることをなさいません。譲歩や敗退はいつでも私たちの側にあります。

「あなたは、たとえ自分の尊厳が全て剥ぎ取られても、また、あなたの愛する仲間が全て、あなたを誤解して去って行っても、私に従いますか? あなたが失敗 を犯し、あなたの尊厳と麗しさが全て消えうせ、あなたの義が地に落ちて、あなたの名が人に嫌悪され、軽蔑されても、私に従って来ますか? あなたは私のた めに、汚名を背負うことができますか? 失格者とみなされ、"用いられない"ことを承諾しますか? あなたは最後まで、私と共に十字架を負いますか? 私 と共に墓に下りますか? たとえどんなことが起こっても、私を信じますか? もしもそれを拒否するならば、あなたは私のよみがえりの命によって生かされる ことはできません。今日、あなたの前には、命の道と、死の道があります。あなたはどちらを選びますか? 自分の魂の命を拒んででも、あなたは私の命を選び ますか?」

ある人々は、このような考えは極端なカルトに違いないと考えて拒否するでしょう。ヒューマニズムを擁護する人々が、どう考えたとしても、それは気にしませ ん。以下に示すように、御言葉が私たちにこう告げているのです。さらに、先人たちのメッセージを読むにつけても、真に神の命に立って生きようとする人は誰 でも、そのような選択を迫られたことが分かります。私の最大の願いは、普通の人として地上で平和な生活を送りたいということなのでしょうか? それとも、 真にキリストを着るために、キリストの喜びだけでなく、苦しみにも共にあずかり、私ではなく、神に満足していただくことでしょうか?

自分に絶望し、ただ一人、墓の中で、神だけにより頼み、十字架における自己の死を耐える時期なくして、キリストの十字架が私の人生において、実際となるこ とは決してないでしょう。それは一度限りの経験ではないのです。私の力では、それを成し遂げることは不可能です。ただ主だけが、私のうちに、そのような願 いを起こさせ、それを可能としてくれます。どうか私たち一人ひとりが、真にキリストを着るために、十字架を実際として知ることができますように。どうか私 たちが、神の命に従って生きることを、この地上にあるうちに、もっと実際として経験することができますように。主よ、弱く、愚かな私をお見捨てにならない で下さい。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままで す。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るので す。」(ヨハネ12:24)
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