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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストの死にある命(1)

T.オースチンスパークス著、十字架の三つの法則、より引用

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)
「彼と共に葬られた」(コロサイ2:12)
「私たちは彼の死の中へとバプテスマされた」(ローマ6:3)
「もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結ばれたなら、彼の復活の様の中にもあります」(ローマ6:5)
「キリストが死者の中から復活させられたように、私たちもまた……」(ローマ6:4)


もし私たちがキリストのあのいのちを現そうとするなら、もしあの生命力に満ちた破壊できないものが世の中で力強い証しを担おうとするなら、もしあの神聖な 破壊できない勝利のいのち――神ご自身のあのいのち――が大能の力で証しを担い、彼のからだの肢体たちによって自らを世に感知させようとするなら、それはキリストのからだの肢体たちが死と復活の中でキリストと一つになることによってのみ可能です。

この一つを知るまで、私たちのクリスチャン生活はほとんど有効ではありません。自分がキリストと共に古い自己に対して死んだこと、そして野心、欲望、計画、観念、規範いっさいを伴う古い世に対して死んだことを、最初に一度限り十分に認めることによって、私たちは自分の席に着かなければなりません。

そして次に、復活のいのちが私たちの間でますます現されるために、死が私たちの中に日毎に働くことを許さなければなりません。神のいのちは旧創造の中に来ることはできません。それは新創造のいのちです。<…>

私たちは罪人としてだけでなく、働き人としても死ななければなりません。死が私たちの奉仕をつかむ時、それは恐ろしい経験です。私たちが働き人・説教者として死に下る時、また、境遇、逆境、不毛さ、霊的無力さにより、両手を投げ出して、「私はもうだめだ、私は終わりだ」と絶望して叫ぶことを余儀なくされる時、それは恐ろしい経験です。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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