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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの死にある命(2)

<オースチンスパークス、つづき>

ここで、私たち自身と私たちの奉仕が試されます。

それはどれくらい人気の問題だったのでしょうか? 私たちは自分の名を上げるために働いていたのでしょうか? それは名声の問題だったのでしょうか? 人々が私たちの働きを誉めるかどうかが大切なのであって、私たちは得意満面になっていたのでしょうか? それとも、人々から酷評され、批判され、曲解され、悪口を言われたのを気に病んで、私たちは家に帰り、惨めな夜を過ごしたのでしょうか?

どれくらい働きの中に自己があったのでしょうか?

試みが来る前、私たちはもちろん、「私にはそのような個人的野心はありません。私が求めているのは自分の益ではありません」と言ったことでしょう。しかし、私たちが死に下り、奉仕の扉が私たちの上で閉ざされつつあるように思われる時、私たちは自分の動機、感情に関してあらわにされますし、私たちが主の御名よりも自分の名声に注意を払っていたかどうかに関してあらわにされます

神が私たちを用いることができるようになる前に、私たちはこうしたいっさいの自己のいのちから解放されなければなりません。神が満足しておられ、私たちが神の御旨の道にある限り、人々が何を考え、何を言い、何をしようとも、少しも気にならないという所にまで、私たちは達しなければなりません。

これが平安の道であり、勝利の道です。しかし私たちは、「私」が屠られなければならない死の領域に下らなければなりません。キリストが復活の力の中で啓示されうるのは、「私」が十字架につけられるこの度合いによります。

奉仕の成功の秘訣について尋ねた人に向かって、ジョージ・ミュラーは答えました、「かつて、私が死んだ日、まったく死んだ日がありました」。彼は話しながら低く低くかがんでゆき、ついに床に触れそうになりました。

ジョージ・ミュラーに対して死に、自分の意見、好み、嗜好、意志に対して死にました。この世に対して死に、その賞賛と非難に対して死にました。私の兄弟たちや友人たちの賞賛と叱責に対してさえも死にました。そしてそれ以来、私は神に喜んでいただくよう心がけることだけを学んできたのです」

この法則は、神ご自身によって始められたことが確かである、王国のための偉大な事業の中に働いているだけでなく、神が間違いなく私たちを召して下さった細かな奉仕の中にも働いています。私たちはこれまでこのことを見ていませんでした。

その働きは、その歴史のどこかの時点で死に下ります。その効力はまったく失われ、後には何も残らないようかもしれません。その時、時計の振り子はこちら側に振れます。そして、この埋葬された働きは、神の復活のいのちにより、墓の最下層から復活します。

神の多くの僕たちは、自分が確かに召された働きがこのように終わるのを見てきました。何らかの神秘的な理由により、働きが永続的な生命力と勝利をもって存続できるようになる前に、神はその働きを死に下せるようです。おそらく、神のいのちが入ってくることができるために、人の命は出て行かなければならないのでしょう。


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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