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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストの死にある命 肉の死(1)

「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)
「しかし、キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望ととともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:12,13)
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)


今日、クリスチャンの信徒に届けられなければならない重要なメッセージの一つは、私たちがキリストと共なる十字架の死を、より深く、実際の生活において経 験することの必要性です。もっと言うならば、私たちが肉(と魂の命)をキリストと共に十字架で死に渡す必要性です。そのことなしには、私たちは御霊に従っ て歩むことができず、神の復活の命の力を、生活において力強く経験することもできないのです。

かつてある交わりの中で、私は兄弟姉妹と共に、高尚で霊的な話題について、日々、分かち合っていました。キリストの再臨へと続く偉大なストーリーについ て、毎日ように、語っていました。十字架における死の学びもありました。そこにはどれほど深い御言葉の学びがあったでしょう。

それなのに、いつの間にか、まさに十字架における自己の死について学んでいた私たちに、大きな惑わしの力が働いたのです。私たちはキリストの死の領域の中 に謙虚にとどまらず、高慢になって肉を甘やかしたので、欺かれたのです。私たちは自分の肉の腐敗に目をつぶり、自分自身がキリストと共なる十字架の死にと どまっている必要性に目を覚ましていなかったのに、そのくせ、自分たちは霊的であると考えて、その交わりにいない兄弟姉妹を、キリストの十字架を経ていな い、肉的なクリスチャンであると罪定めする高ぶりに陥っていました。いつの間にか、自分たちの交わりは他に比べて正しいという、とても高慢で排他的な考え が、交わり全体を支配するようになりました。

その結果、私たちの交わりは、いつしか御霊の導きに正面から対抗するものとなったのです。恐るべき事態が起こりました。主はバベルの塔を分裂に導いたよう に、私たちの知識を空回りさせ、正常な教義を歪め、私たちの心を、さらに高慢に、頑なにしました。その結果、交わりは御霊の調和の麗しさを失って、分裂 し、聖霊によらない十字架を持ち出して罪定めが起こりました。御霊に逆らった結果として、それまであったはずの正常な信仰は失われ、本来ならば、誰も耐え なくて良かった痛みが生じました。少し間違えば、ある人々は、死にさえ至っていたかも知れません。

私たちは、御霊に従って生きることをやめるなら、ただちに肉に従う者となることを忘れるわけにはいきません。私たちが肉に従って生きることは、いつでも、 霊的には多大な損失であり、もし放っておくならば、取り返しのつかない死へと結びつくでしょう。どうか、私たちの悔い改めが、早いうちでありますように!  己に絶望し、キリストの十字架の死にとどまる重要性を、片時も、忘れて良い時はありません。

しかし、肉の欺きは巧妙で、私たちは肉において、熱心に神に奉仕し、敬虔な信徒のように振る舞うことができます。肉において努力をして、世間から賞賛を受 けることもできます。世間はそれを善良な努力とみなすでしょうし、うっかりすると、私たち自身も、それを善良なものとみなして、自己満足してしまいます。 けれども、御言葉は言います、肉にある者は神に喜ばれないと。どんなに文化的に見える肉であっても、肉は肉であり、御霊に逆らうものであり、神の御前に永 遠に罪定めされており、改善の余地がないのです。

どうか、主よ、惨めな私たちに憐れみをかけて下さい。肉の忌まわしさが見えていない、私の鈍い心の目を開いて下さい。あなただけが、私の肉の絶望性を、極 みまで、私にお示しになることができます。私たちは、一見、長所と見える自分の肉が、どんなに神の御前に忌まわしいものであるか、知りたいという願いを自 分では持てません。むしろ、自分を聖なる者と思って高ぶっていたいのです。ただ主だけが、愛といたわりを持って、私たちの真実の姿を照らし出し、私たちに お示しになることができます。

主よ、御霊の導きに従わず、あなたの十字架の領域を離れたことをお赦しください。この十字架の過程にとどまる者は誰でも、痛みと恥辱を耐え忍ばなければな らないことは分かっています。どれほど多くの自分の恥を、私たちは見なければならないでしょうか! けれども、主が憐れんで下さり、どうぞ私たちがそれに 最後まで耐えうる勇気と望みを持ちますように支えて下さい。もう一度、主の御前に、私たちが真実、完全な死の中でへりくだり、塵と灰の中で心を砕かれ、あ なたの聖なる御霊だけを待ち望むことができますように。あなたの尊い御霊が、私たちの不純物を焼き尽くし、私たちの全てとなられる日が来ますように。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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