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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストの死にある命 肉の死(2)

「兄弟たちよ、わたしたちは何と謙そんに欠けており、何とわたしたちは主の十字架を受け入れるのを喜ばないことでしょう! わたしたちは、自分に望みがなく役立たずで腐敗していることと、自分が死以外の何ものも受けるにふさわしくないことを認めたくはありません

兄弟たちよ、今わたしたちに欠けているのは、完全な生活ではなく、完全な死です。わたしたちは完全に、そして徹底的に死ぬ必要があります。わたしたちは、命、力、聖、義についてはすでに多く語ってきました。今わたしたちは、に注意を払いましょう! どうかわたしたちが聖霊に、キリストの十字架を伴って、わたしたちの肉を深く刺し通していただき、それによって十字架がわたしたちの命の中で実際の経験となりますように!

もしわたしたちが適切に死ぬなら、わたしたちは適切に生きるでしょう。もしわたしたちが死の様において彼と結合するなら、生きる様においても彼と結合するでしょう。どうかわたしたちが主を呼び求めて、主にわたしたちの目を開いていただき、死がどれほど大切であるかをわたしたちが知りますように。彼はそのような働きをすべきではないでしょうか? 

あなたは彼によるそのような働きのための準備ができていますか? あなたは進んで主にあなたの弱さを指摘していただきますか? あなたは公衆の面前で、門の外で、公然と十字架につけられようとしますか? あなたは十字架の霊に、あなたの中で働きをしていただこうとしますか? おお、どうかわたしたちがさらに主の死を待ちますように! どうかわたしたちが徹底的に死にますように!

わたしたちは、十字架の死が継続的なものであるべきことを、はっきりと見るべきです。わたしたちは復活の段階へと入って、死の段階を捨て去ることはできません復活の命の経験の程度は、死の経験の程度によります。

最近、昇天の命は追い求めても、肉の死が避けられないことを忘れている信者たちの間に、一つの危険性があります。彼らは死の立場を捨てて、進みます。その結果、彼らは肉の働きを軽々しく取り入れたり、肉からのものを霊からのものと考えて、肉を霊化するのです! 

おお、死はあらゆるものの土台です! 人は前進するかもしれませんが、土台を破壊すべきではありません。もし肉の死が真に維持されるのでないなら、復活と昇天の命は単なる偽りです。わたしたちは、自分はすでに霊的であり、進歩しており、肉はもはやわたしたちをそそのかす力を持っていないなどと、決して考えるべきではありません。敵は、わたしたちが十字架の領域を去ることを望んでいます。そうすれば、わたしたちが外面的には霊的であっても、内側は肉的である人たちとなるからです。

『主に感謝します。なぜなら、わたしたちは今やこうこうであり、また、こうこうではないからです』というような多くの表明は、ルカによる福音書第十八章十一節から十二節の祈りの繰り返しにすぎません。そのような人たちは、実際は肉によって欺かれているのに、自分では肉から解放されていると思っているのです。わたしたちは常に主の死の中に住んでいるべきです。

(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第一巻、pp.189-191)
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