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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(9)

9.キリストの十字架の意味の歪曲

偽りのキリスト教であるグノーシス主義においても、キリストの受肉、そして十字架は特別な意味を持っています。グノーシス主義者は必ずと言って良いほど強調します、「神が人となられた」がゆえに、と…。

しかし、グノーシス主義者の教えにおけるキリストの受肉と十字架の意味は、聖書の正統な解釈からはおよそかけ離れていることに注意が必要です。結論から述べるならば、彼らはキリストの受肉と十字架の意味を歪曲し、それを罪人が罪あるままで神に受け入れられ、生まれながらの人が神に等しい者として栄光化されるための手段として悪用するのです。

今日のキリスト教界においても、「キリストが私たち罪人を愛し、私たちのために十字架で死んで下さった」と言って、神の愛と憐みの深さに滂沱の涙を流すクリスチャンは大勢います。しかし、その中には、罪人に対する神の愛と憐みの深さを強調するばかりで、ますます悔い改めから遠ざかり、決して罪を離れようともせず、かえって罪深い自分自身に自己安堵してしまう人々がいます。
 
これまでの色々な分析を通して、そのような人々の十字架の解釈には大いなる偽りの可能性があることを、多少なりとも、明確にできたのではないかと思います。

さて、この分析においても、サンダー・シングが神の独り子なるキリストの十字架の意味をどのように歪曲してとらえているか、それがどのような点でグノーシス主義に通じているかを説明します。

ただし、サンダー・シングの文章を引用する前に、改めて、彼の文章を読む際の危険性について前もって警告しておきたいと思います。なぜなら、彼の文章は、生まれながらの人の耳には、とても道徳的で、もっともらしく聞こえるため、人々を真理から引き離す大きな危険性を持っているからです。感化力の強い、確信に満ちた独特の文体で書かれているため、本来、引用することも望ましくありませんし、クリスチャンが彼の書物に目を通すことは全くお勧めできません。

それにも関わらず、この分析においてサンダー・シングの文章を引用するのは、彼の偽りに満ちた話が、いかに生まれながらの人の耳に道徳的で、心地よく、もっともらしく響くかをあえて知ってもらうためでもあります。私たちは、偽りというものがいつも不道徳の仮面をかぶってやって来るなどと思うべきではありません。むしろ逆なのです。サタンの偽りはいつも非常にもっともらしく、正しそうに聞こえ、道徳的で、(世の)道理にかなっており、ヒューマニズムにも合致しているのです。

ですから、私たちは、ある話の内容が道徳的に聞こえるというだけの理由で、それを信用すべきではありません。肉による善行というものが存在するように、御霊を離れた人間の道徳性というものも、アダムの命から出て来るものとして、神の御前には徹底的に腐敗しているのです。ですから、欺かれないようにするためには、私たちは世の道徳基準や、ヒューマニズムの観点から物事を判断するのではなく、語られている内容が本当に聖書に合致しているのかどうかをよくよく自分で吟味する必要があります。

以下、かなり説明が長くなりましたが、一貫したテーマのため、記事を分割せずに掲載します。「続きを読む」からお読み下さい。

 


①キリストを罪人と同一視する
②御子を十字架につけた世の罪を覆い隠す
③十字架の受難を軽視する
④十字架を罪人に都合の良いグノーシスの実とみなす
⑤ こんなに尊い救いをないがしろにしてはならない!


①キリストを罪人と同一視する

さて、以下のサンダー・シングのたとえ話を吟味していただきたいと思います。

「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。悪者をその邪悪な状態から救わんと、自ら悪党の巣の中に入っていった善人の話がある。多くの人は、この神の人も仲間の一人に違いないと考え、ある重大事件が起こったときに、この事件に関わっているとの嫌疑を彼にかけた。こうして彼は逮捕され、死刑の宣告を受けたが、彼は喜んでこの判決を受けた。

悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、神の人が自分たちのために死んだのだという思いに駆られて、ついに多くの者が悪事から身を引くに至った。イエス・キリストも、そのようにして死なれたのである。キリストの力は今も生きている。罪人が主の奇しき愛の力に感化され、悔悟し、主に心を向けるとき、主は彼らの霊魂から悪を根こそぎにし、彼らに新しい命を与えてくださる。こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく。」(p.292)

これは生まれながらの人の耳には、大変、良さそうに聞こえる、東洋人好みの美しい教訓話のため、うっかりすると、そのまま通りすぎてしまうでしょう。どこに誤りがあるかお気づきになられたでしょうか? サンダー・シングがこのような美化されたたとえ話を用いて、巧みに神を人間(罪人)の側に引き寄せ、神を人間(罪人)に等しい者とみなそうとしているのがお分かりになるでしょうか? 

結論から述べるなら、これは神の聖を否定して、神を罪人に同形化し、神と生まれながらの罪人を同一視する偽りの教えです。そのことを順を追って説明していきましょう。

まず、冒頭の文章に、サンダー・シングのたとえ話が偽りであるとすぐに分かる決定的な言葉があるのに気づかれたでしょうか。「キリストは、われわれのために罪人となり罪人の死をお通りになった。」

真のクリスチャンは決してこのような表現を用いません。なぜなら、聖書のあらゆる箇所が、キリストには罪がなかったことを証しており、「キリストは、われわれのために罪人とな」られたというサンダー・シングの言説を否定しているからです。

「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなた方は知っています。キリストには何の罪もありません。」(Ⅰヨハネ3:5) 

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(Ⅰペテロ2:22) 

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロ3:18)

「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとって必要な方です。」(ヘブル7:26)


キリストは罪なくして十字架にかかられたのですから、彼は断じて罪人ではありません。注意して下さい、もしもサンダー・シングの言うことを受け入れて、キリストが「われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった」と考えるならば、私たちは救いを失います。聖く、一切の罪の汚れのない方が私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたからこそ、キリストは完全な贖いの供え物となられたのです。もしもキリストに罪を見いだすなら、贖いの完全性は失われ、私たちを神の御怒りから救ってくれる手段は何一つとしてありません。

「…あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖いだされたのは…、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18)

私たちが主イエス・キリストを何者であるととらえるかにより、私たちの救いそのものが決定されます。サンダー・シングの言説は、罪人にとってはまことに結構な美談に聞こえるかも知れませんが、神の独り子である主イエス・キリストの聖を否定して、御子を罪人の一人にまで貶めている点で、神に対する冒涜であり、信じた者に永遠の命を失わせる偽りの教えなのです。


②御子を十字架につけた世の罪を覆い隠す

さらに、サンダー・シングが上記のたとえ話の中で、御子を十字架につけた世の罪に全く触れていないことにお気づきになられたでしょうか? このたとえ話の中では、キリストを十字架につけたのは当の悪人たち自身であったという事実がすっかり覆い隠されています。サンダー・シングのたとえ話によれば、主イエスは、まるで偶然に悪党の巣窟のそばを通りかかっただけの第三者のようです。そして、キリストは、罪人を憐れむがゆえに、誰も強制しなかったのに、自ら愛のボランティアとして、すすんで有罪判決を受けたのだと言わんばかりです。

このようなたとえ話がどれほど聖書に違反しているかを理解するために、まず福音書において主イエスご自身の語られたたとえ話を確認することにしましょう。
 
ヨハネの福音書の冒頭の記述を見れば、キリストは決してサンダー・シングが述べているような「通りすがりの第三者」ではなかったことがすぐに分かります。御子は万物の創造者であり、万物に対する正当な支配権を持っておられる方です。「すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1:3)のです。サタンがこの世の君として君臨しているのは、不当な強奪(=神に対する反逆)によってその地位を奪ったに過ぎません。ですから、この世の正当な支配権はサタンにはなく、御子にあります。御子は万物の支配者として、来るべき世だけでなく、この世をも統べ治めるべき方です。

御子は地上に来られた時、本来、ご自分の王国であるはずの場所に来られました。主は「ご自分のくにに来られた」(ヨハネ1:11)のです。ですから、罪人たちはまことの王として彼をお迎えせねばなりませんでした。

ところが、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)のです。罪人たちは御子こそ、王の王であることを認めず、彼を王として迎えることを拒み、辱め、十字架にかけて殺しました。ここに世の決定的な罪があります。

このような前提を理解した上で、主イエスがご自分で語られたたとえ話を振り返りましょう。

「…イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。『ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。

ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。』 これを聞いた民衆は、『そんなことがあってはなりません。』と言った。

イエスは、彼らを見つめて言われた。『では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:9-18)


ぶどう園はこの世を指し、ぶどう園の主人とは天におられる御父です。ぶどう園の主人の一人息子とは、神の独り子なる主イエス・キリストです。悪い農夫らによって袋叩きにされ、辱められ、追い払われた僕たちとは、神が農夫らの罪を警告するために聖別して世に遣わした預言者たちのことです。農夫たちは、神に仕えるはずの民でありながら、神に背いたこの世の罪人らを指します。

農夫たちは、神に雇われてぶどう園の仕事を任されていた以上、当然のことながら、主人である神の命令に従い、その僕である預言者を敬い、息子である主イエス・キリストを丁重にお迎えし、その命令に従って、神にきちんと収穫を納めなければなりませんでした。ところが、農夫たちは主人に収穫を納めるどころか、自分たちのもうけのために、ぶどう園を横領しようと考えたのです。それは、罪人らがサタンに従って、神に背き、御子の正統な所有権・支配権を否定して、ぶどう園を強奪するために、御子を殺したことを指します。

聖書のこのたとえから、私たちは主イエス・キリストが決して、サンダー・シングの言うような、たまたま悪事のそばを通りすがった第三者ではなかったことをはっきりと理解するのです。罪人たちは、ぶどう園の正統な後継者である主イエスを殺すことで、彼の正当な権利を否定し、それを強奪したのですから、主イエスは直接、罪人たちによって被害を受けられた被害者であり、罪人たちは御子に対して直接、加害者の立場にあります。

ですから、断じて、主イエス・キリストの十字架は、サンダー・シングが述べているような、罪人に寄り添うための神の自主的な愛のボランティアではなかったことが分かります。御子は罪人らの起こしたあるまじき反逆によって不当に殺された被害者なのです。

罪人たちが、王の王であられる方を迎えた態度はどのようなものだったでしょうか? 主イエスの十字架上に書かれた「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という罪状書き(ヨハネ19:19)、それが主イエスが王の王であられることに対する、サタンと罪人たちの悪意に満ちた応答でした。何と皮肉なことでしょうか、罪人たちは、御子が自分たちの真の王であられることをさえ、彼の「罪状」として嘲笑ったのです。雇い人の身分に過ぎない者が、正統な後継者を罪に定め、殺したのです。これが反逆です。これが真理に対する世の応答でした。ですから、世が御子に対して直接犯した罪には、はかりしれない重さがあるのです。

ところが、サンダー・シングは罪人らがキリストに対して直接的な加害を行ない、それによって神に反逆したという事実には一切触れずに、キリストが自ら罪人たちを憐れむがゆえに、喜んで十字架に赴いたかのように述べるのです。こうして、サンダー・シングは十字架を神の自主的な愛のボランティアに変えてしまうことによって、世が彼を十字架につけた罪を帳消しにしようとし、もっと言うならば、十字架は神の自己責任であって罪人とは本来、無関係だと主張しようとしているのです。彼は御子の十字架が、罪人らによって引き起こされた殺人であるという事実を認めていません。

こうして、サンダー・シングは世が御子に対して直接行なった悪事を否定するだけでなく、さらに罪人らを弁護して、次のように書きます、「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、神の人が自分たちのために死んだのだという思いに駆られて、ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」と。

ここで、サンダー・シングがキリストを呼ぶに当たり、「神の人」という呼称を用いており、恐らくは意図的に、「御子」、「神の独り子」という呼び名を避けていることにも注意する必要があります。

確かに、罪人たちの多く、特に、主イエスを十字架につけるべく骨折った事件の首謀者たちは、御子が「潔白であること」を知っていたと言えるでしょう。しかし、それにも関わらず、彼らは主イエスを十字架につけたのです。

律法学者、パリサイ人たちは主イエスを幾度も罪に定めようとしましたが、その度ごとに失敗し、言質を取ることができなかったので、彼を殺すために意図的に陥れました。イスカリオテのユダも、御子に罪がないことを知っていながら、彼を売り渡しました。ピラトは主イエスの内に何の罪も見出せなかったにも関わらず、彼に十字架刑を宣告しました。ピラトが主を釈放しようとして民衆に呼びかけたとき、「彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」(ヨハネ19:15) 

これが世の反応でした。「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていた」、にも関わらず、主イエスを十字架につけて殺したのです。ですから、サンダー・シングの言説に反して、御子の潔白を知っていたがゆえに、世人の罪は、より一層、重いものとなったのだと言えましょう。

「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(ヨハネ15:25)

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)


ところが、サンダー・シングはこのような罪人らの罪の重さを全く覆い隠したままで、かえって罪人を弁護してこう述べています、「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、…ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」
と。

これは本当なのでしょうか? 聖書に照らし合わせるならば、これもまた甚だしい嘘であることが分かります。私たちは知っています、主の民のほとんどは、自分たちの手で十字架につけた方の死とよみがえりを目撃し、御子の死とよみがえりの事実を間近に告げ知らされたにも関わらず、御子が「自分たちのために死んだのだ」という事実を認めようとせず、悔い改めもせず、信じようともしなかったのです。そこで、福音は選ばれた主の民から取り上げられて、異邦人に宣べ伝えられました。

聖書は、主イエスを十字架につけることに関わっていた悪人たちが、「彼の死後、…ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」とは述べていません。むしろ、この民に対する神の宣告は次の通りです。

「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

『あなたがたは確かに聞きはするが、
決して悟らない。
確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は遠く、
目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟って立ち返り、
わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ13:14-15)



③キリストの十字架の受難を軽視する

さらに、サンダー・シングが主イエスが十字架で受けた苦しみを軽く見積もることによって、世の罪を大いに軽減し、御子の十字架をできるならば、神の自己責任に還元しようとしていることに気づかれたでしょうか? 彼は言います、「こうして彼は逮捕され、死刑の宣告を受けたが、彼は喜んでこの判決を受けた。」と。

聖書によれば、「彼は喜んでこの判決を受けた」などという事実は全くありませんでした。確かに、へブル書には次のような下りがあるにはあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

しかし、このような記述が聖書にあるからと言って、主イエスが喜んで十字架の死の判決を受け、そこには苦しみが伴わなかったと考えるのは間違っています。主イエスにとって十字架は最大の試練であり、受難でした。主イエスはゲッセマネの園で弟子たちに言われました、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:38)。さらに、御父にこう祈られたのです、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と。

これは十字架が御子の本意ではなかったことをはっきりと示しています。主は断じて、サンダー・シングの言うように、「喜んで(筆者注:つまり、自らすすんで)この判決を受けた」のではありません。主イエスは霊においては、それが神の御旨であることを知り、喜んでそれに従いたいと願っていましたが、人としてはその従順には大いなる苦しみが伴いました。もしも御子がいかなる苦しみや抵抗もなく喜んで自ら十字架の死に赴いたと主張するならば、私たちは、主イエスの完全な人性を過小評価していることになり、また、無実にも関わらず御子を十字架にかけた世の殺人の罪を弁護していることになります。

十字架はその当時、主人に背いた奴隷が受けるべき最も恥辱に満ちた刑罰でした。十字架において、主イエスの人としての尊厳のすべては剥ぎ取られ、彼は肉体的に最大限の苦痛を味わい、霊的にも、神との断絶という苦しみを味わわなければなりませんでした。一体、肉体のうちにあるどのような人が、無実にも関わらず、このような刑罰を自ら背負いたいと願うでしょうか? さらに、救われたクリスチャンの内の、誰が霊において神に捨てられることを願うでしょうか? 十字架は主イエスが受けなければならなかった苦しみの中でも、最大の杯だったのです。それは私たちの罪の贖いのためでした。繰り返しますが、それは罪人らが信仰によって罪なき御子に同形化することで、罪人らの罪が贖われるためであって、断じて、神が罪人らに同形化することで、自ら罪人となられるためではありませんでした。
 
御子は、ご自分の願いに反してでも、意志によって御父に従われ、十字架へ向かわれました。それは死に至るまで御父に従順であるためであり、ご自分を無にして、神のご計画に従うためでした。十字架を耐え忍ぶためには、御子はご自分を完全に否まねばなりませんでした。もしも私たちが御子が喜んで十字架につけられたのだと解釈するならば、私たちは、十字架において主イエスは完全にご自分を否まれたのではないと主張し、御子の死に至るまでの従順を軽視していることになります。十字架は主イエスにとって完全にご自分を無にすることが必要な場所でした。十字架において、御子はご自分の望みのすべてを放棄して、ご自分の願いによってではなく、意志によって、御父に従われたのです。

しかし、グノーシス主義の教えは、御子の十字架における苦しみを軽視し、十字架を罪人に対する神の刑罰としてとらえず、むしろ、十字架を罪人にとって喜ばしい、祝福に満ちた、甘い物語へと変えてしまいます。以前の記事でも触れましたが、グノーシス主義のある文献、『ペテロ黙示録』においては、キリストの十字架における苦しみは完全に否定されています。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ちつけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。<…>」(『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献他訳、白水社、p.168)

この教えは、主イエスは初めから肉体を霊的に超越していたために、喜び笑いながら十字架につけられたのだと主張します。このような荒唐無稽な教えは、キリストの神性だけを重んじて人性を軽んじている点で、キリストの完全な神性と人性を認めるカルケドン信条に反し、もちろんのこと、聖書の記述にも著しく違反していますが、このように十字架の苦しみを軽視する教えが、「…彼は喜んでこの判決を受けた」として、キリストの十字架における苦しみに一切触れようとしないサンダー・シングの主張に非常に通じるものがあるのはお分かりいただけるでしょうか?

聖書は言います、「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロ3:18)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」(エペソ2:14-16)


キリストが十字架で受けられた苦しみと死は、私たちの罪なる肉、旧創造が受けなければならない当然の刑罰でした。キリストの十字架は、全ての旧創造が神の御前に滅びに定められていることをはっきりと示しています。もしも私たちがグノーシス主義者のように、キリストが十字架において受けられた苦しみを割り引いて考えるならば、それは、罪人である私たち自身が神の御前に受けるべき刑罰をも、軽く見積もっていることになります。それは私たちが自分の罪を否定し、旧創造が受けなければならない刑罰を神の御前で軽く見積もろうとすることを意味します。

このように、キリストの十字架における苦しみを否定したり、軽く考えようとすることは、旧創造が神の御前に受けるべき滅びの刑罰そのものを軽減しようとすることにつながります。最終的には、それは十字架が全ての旧創造に対する神の刑罰であるという事実そのものを否定することを意味します。そうなれば、私たちを永遠の滅びから救う手立てはもう何も残されていません。

私たちは主イエスが十字架で受けられた苦しみを、自らの経験を通じて理解することはできませんが、信仰によってそれを信じます。すなわち、主イエスが身代わりに受けて下さった十字架を、生まれながらの自分自身に対する宣告・刑罰として受け取り、信仰によって、彼の死を自分自身の死とみなし、彼のよみがえりを自分自身のよみがえりとみなすことにより、キリストの死と復活に接木されて、御子の贖いによって、神の御怒りから救われて、神に受け入れられ、御霊に導かれる神の子供とされるのです。


④十字架を罪人に都合の良いグノーシスの実とみなす

グノーシス主義の全ての教えは、キリストの十字架を生まれながらの罪人に対する神の刑罰であるとはとらえません。それどころか、キリストの十字架を、罪人にとって何の脅威にもならない、恵みと祝福に満ちた、甘い砂糖菓子のような物語へと変えてしまいます。

エレーヌ・ペイゲルスはグノーシス主義の教えにおけるキリストの十字架の解釈が、正統な解釈からはおよそかけ離れたものであることを説明してこう述べます、「キリストの死は人間を過ちと罪から贖うための犠牲と解釈する正統派の諸資料とは反対に、このグノーシス派の福音は、内なる神的自己を発見する機会として十字架刑をとらえている」(同上、p.170)と。

グノーシス主義の教えとは、幾度も述べて来たように、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという神秘主義の教えです。その偽りの教えは、人の生まれながらの自己のうちに、何らかの聖なる要素(神的自己、神的火花)が宿っており、(サンダー・シングの表現によれば、それは「決して罪に傾かない聖なる火花」であるとされる)、人が自らの内に宿る神性に目覚め、本来的自己に回帰することによって(=自己の義によって)、神と同一になれる、と主張します。この転倒した教えにおいては、神の義によらなければ、人は誰も神に受け入れられないという事実は否定され、人が本来的自己に目覚めて、自己の内に宿っている神性(=自己の義)によって神に回帰することが救いであると唱えられます。そのために必要となる啓示が、「グノーシス」(知識)であるとされ、彼らは、「グノーシス」を得た者だけが永遠の命を得ると主張するのです。

ですから、グノーシス主義の多くの教えが、たとえキリストの十字架の事実を否定していなかったとしても、キリストの十字架の意味を歪曲し、すり変えることによって、キリストの十字架もまた、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという彼らの主張を裏付ける根拠にしてしまっているのは不思議ではありません。

グノーシス主義の多くの教えにおいて、十字架は、イエスの霊が肉体から解放されるために必要不可欠な手段であったとみなされています。すなわち、グノーシス主義の教えにおいては、十字架によって、キリストの霊は「肉体の牢獄」から解放されて、完全に本来的自己に回帰して(神と同一になり)、天界に戻ったと解釈されているため、キリストの十字架は罪人に対する神の刑罰であるどころか、肉体からの喜ばしい解放の手段とみなされるのです。

ヴァレンティノス派に属するグノーシス主義文献、『真理の福音書』は次のように述べています。

「……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ。……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は 自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」(同上)

ここでは、キリストは十字架の死を経て初めて、肉体から解放されて、永遠の命を身につけ、不滅をまとった、と主張されています。このような教えは、永遠の命が信仰によらなければ得ることができないという事実を否定して、肉体からの解放を永遠の命とみなすことにより、十字架を、永遠の命を得るための手段にすり変えてしまっています。さらには、キリストの神性と人性が分割できないとするカルケドン信条にも違反して、キリストの霊・魂・肉体を分割して、キリストの霊のみが神に結合したと主張して、キリストの完全な人性を否定しています。また、御子自身が「よみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)事実を否定して、御子の復活は、肉体の復活を伴う完全な復活であるという事実を否定しています。

さて、十字架が罪人に対する神の刑罰であったという事実を否定し、御子の贖いも否定しているこのグノーシス主義文献が、なぜ「彼のこの死が、多くの人々にとって命である」と主張するのでしょうか? グノーシス主義者の言う、キリストの死から得られる命とは何なのでしょうか? 同じく『真理の福音書』の次の文章の中に、私たちはその手がかりを得ます。

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」(同上、p.169)

この記述は、十字架を通してキリストご自身がグノーシス(知識)を与える甘美な実になったと述べています。ですから私たちは、この文献の主張したい結論は、このグノーシスの実を食べた者だけが、命を見いだすということであると分かります。「それは食べられることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。」

つまり、そのグノーシスの実とは、それを食べたからと言って、人が「決して死」んだりせず(創世記3:4)(=「それは食べられることによって破滅を与える…のではない」)、むしろ、その実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」には「いかにも好まし」い(創世記3:6)ものであり(=「それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えた」)、そのグノーシスを見いだした人間は、「目が開け、…神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)(=「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」)、決して破滅しないどころか、「永遠の命を身につけ」、「滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとう」すなわち、神と自己とが同一になるというのです。

全てのグノーシス主義の教えは、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという結論に帰着します。ですから、「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」という上記の文献の言葉も、当然のことながら、神と人とが同一であるということを意味しています。それを分かりやすく言いかえるならば、「(十字架において)キリストは罪人を自らのなかに見いだし、罪人はキリストを自らの内に見いだした」となるでしょう。

つまり、このグノーシス主義文献が言おうとしているのは、十字架においてキリストは自らを罪人に同形化し、神と罪人とが一体となった、そこで今やキリストは自らの内に罪人を見いだし、罪人は自らの内にキリストを見いだし、罪人は自己の内に神を発見するので、彼はもはや罪人ではなく、神に似た聖なる者とされる、ということなのです。

このようなものは断じて悔い改めではありませんし、新生とも関係ありません。生まれながらの人間(=罪人)が、御子の完全な贖いを認めず、自らの罪を認めて悔い改めることもせず、信仰にもよらずして、ただ生まれながらの自己の内に神性を見いだし、自己の義により頼むことによって、自らをキリストに同形化し、ありのままの罪ある姿で、自分を神に等しい聖なる者とみなすという、このような聖書に反する言語道断な主張が偽りであることは、火を見るよりも明らかです。しかし、このようなグノーシス主義におけるキリストの十字架の歪められた解釈が、サンダー・シングの記述とそっくりであることに私たちは気づかないではいられないのです。

上記の文脈をすべて踏まえた上で、もう一度、サンダー・シングの言葉を確認しましょう、「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった」

サンダー・シングが、グノーシス主義者と同じように、十字架においてキリストがご自分を罪人に同形化された(キリストが罪人となられた)と主張しようとしていることがお分かりになるでしょうか? 

このことは、サンダー・シングが事実上のグノーシス主義者であることをはっきりと物語っています。彼はキリストの十字架を、神と罪人とが本来的に同一であると主張するための根拠にしようとしているのです。

ですから、私たちはこのような文脈の中で、サンダー・シングのたとえ話の最後の主張、「こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく」というフレーズを理解せねばなりません。

「罪人が主の奇しき愛の力に感化され、悔悟し、主に心を向けるとき、主は彼らの霊魂から悪を根こそぎにし、彼らに新しい命を与えてくださる。こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく。」と彼は書いていますが、人が御子を十字架につけた罪を認めず、自分自身が罪人である事実を認めもしないのに、そこに真実な悔い改めがあるはずもなく、そのような偽りの「悔悟」は、「彼らの霊魂から悪を根こそぎに」する力を持ちません。彼の言う「主の奇しき愛の力の感化」とは、キリストが十字架において罪人に等しくなられたという偽りを指しており、このような感化は罪人をより慢心させ、生まれながらの自己を肥大化させることはあっても、決して、罪人を罪から分離し、キリストの聖いまことの永遠の命によって新たに生かすことはありません。

サンダー・シングの主張を分かりやすい言葉で言い換えるならば、大体、次のようになるでしょう。「罪人は、自らの内に生まれながらにして宿っている『決して罪に傾かない聖なる火花』を発見することにより、自己の内に神性を見いだす。人が神との断絶を克服するために必要なのは、己が罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じることではなく、むしろ、自らの内に生まれながらに宿っている神性に目覚めることである。罪の悔い改めや、キリストの十字架の死に自分を同形化することではなく、人が本来的に神に等しい者であると見いだすことこそ、人が神に回帰するために必要な手段である。キリストの十字架もまた、人が自らの内に神を見いだすための知識(グノーシス)である。すなわち、キリストは人となられることにより、罪人と同じさまで生まれ、さらにキリストは十字架において罪人にご自分を同形化され、神が罪人に等しくなられたのだ。それゆえ、神と罪人とは今や一体となった。この虚偽を発見し、この偽りを信じ、神の義を捨てて、存在するはずもない自己の義を選び取ることにより、罪人は自らの内に神を見いだし、ありのまま罪人のままで聖化され、神に似た新しい人類となっていく…。」

こんなものは、考えるだに恐ろしい偽りの「新人類」の誕生です。サンダー・シングを含め、全てのグノーシス主義者が主張しようとしているのは、罪人がありのままで神になれるという教えなのです。このようなものが、サタンから来た偽りに他ならず、彼らの主張する永遠の命とは、キリストのまことのよみがえりの命のむなしい模造品に過ぎず、彼らの言う「新しい人類」が、決して、聖書の言う新創造でありえないことは明白なのです。


⑤ こんなに尊い救いをないがしろにしてはならない!

以上のことから、サンダー・シングの文章がいかに美しく、もっともらしく、道徳的に聞こえたとしても、それを信じたクリスチャンに完全に救いを失わせてしまうものであるということは明確にお分かりいただけたのではないかと思います。また、十字架において神が罪人に示された愛や憐みの深さをしきりに強調しながら、ますます心頑なになって罪深い自分に自己安堵し、堂々と開き直って罪の内を歩むようになる「クリスチャン」(?)が出現する理由もお分かりいただけたものと思います。

そのようなことが起きる背景には必ず、十字架の歪められた解釈があります。これらの偽りの教えの主要目的は、御子の贖いの完全性を否定して、永遠の命に至る道を閉ざし、聖なる神の御子を罪人の一人に数えて世の判決に同調し、世の罪を帳消しにして神を罪に定めて冒涜し、あろうことか、罪ある人間を罪あるままで神に等しい存在にまで祭り上げ、生まれながらの人間を神として栄光化し、神と人との地位を逆転させることにあります。

これは反逆の教えです。このような教えを信じた人々は、永遠の命を失い、来るべき世での栄光を失うだけでなく、今生の人生においても、死の道を歩むことになります。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。」(ローマ8:13)

神はエデンの園で、善悪の知識の木の実を取って食べれば、人は死ぬと警告されました。にも関わらず、蛇は人を巧みに騙して、その実を食べても、人は「決して死」なず、むしろ、「神のようにな」れると誘惑したのです。しかし、サタンの提案はことごとく偽りでした。同様に、罪人の耳に心地よく響くサンダー・シングの美しいたとえ話も、同じように、初めから終わりまで偽りであることを私たちは見て来ました。

今日に至るまで、私たちは常に二者択一を迫られています。セルフを拒んで、まことの命の木であるキリストを選ぶのか、それともセルフを肥大化させて人を死に至らしめる善悪知識の木を選ぶのか。神の義により頼むのか、自己の義により頼むのか。見えるものにより頼み、目に見える地上に神の国を築き上げようとして、この世に座を占めるのか、それとも、見えるものによらず、信仰によって見えない天のふるさとを目指し、この世においては寄留者として歩むのか。十字架においてアダムの命に死に、キリストのよみがえりの命によって生かされるのか、それとも生まれながらの自分を惜しんで十字架の死を拒み、アダムの命のままで、自分を栄光化し、神にまで至ろうとするのか。

「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(エレミヤ21:8)

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)

聖書には、異端というものの本質が何であるか、はっきりと書かれています。それは私たちを買い取ってくださった主イエス・キリストの完全な贖いを否定して、私たちが永遠の命に至る道を閉ざし、人を滅亡に至らせることがその目的なのです。どんなに美しい物語で覆われていたとしても、そこにあるのはすべて作り事に過ぎません。この偽りを教える教師たちの目的は、それを信じた人々を自分の栄光の手段として食い物にし、破滅の道連れにすることにあります。

「…あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

ですから、私たちは、神を人間にとって理解しやすい存在へと変えるために、神の聖を否定し、神を罪に定めて罪人の一人にまで引き下ろし、その一方で、生まれながらの罪人を神として高く掲げるような偽りの教えをきっぱり拒否すべきです。そのような教えを信じるならば、私たちの行く手にはただ死があるのみ、焼き尽くす火である神の燃え盛る滅びの刑罰が待っているのみです。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」(ヘブル12:25)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができるでしょう。」(ヘブル2:1-3)

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでも、モーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:26-29)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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