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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

宿営の外で焼かれるべきからだ

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

今、思い出すが、昨年、8月、私は信仰の小船に乗って、「ガリラヤ湖」を向こう岸まで渡ろうとしていた。その頃、私の人生はあらゆる点から見て、破綻して おり、ついに終幕へと向かっているようであった。ただ主を信じること以外に、どこにも希望がなかった。向こう岸に何が待っているのか、さっぱり分からな い。だが、私に残されたのは、命をかけて、信じること、たとえどんなにわずかな希望であろうと、主ご自身に出会うことを願って、渡って行くことだけであっ た。

その頃、私には心を打ち明けて会話できる人がいた。恐れずに、心を騒がせずに、主を信ぜよと、あなたの小船には主が確かに共に乗っておられるのだからと、 励ましてくれる人があった。今はもうそのように話せる人は身近にいない。だが、状況はあの時とほとんど変わらない。強風と、逆巻く波の中で、たとえ誰から の声がなくとも、私は主を信じる、それしかない。

特に現在、周りに何か大変な状況があるわけではない。だが、どうしてか分かるのだ。私には主の他に、この世には、どこにも行き場がないのだと。ある人々は 私を笑うだろう。クリスチャンは地上で豊かな人生を送ることが禁止されているわけではないのに、あなたは未だに貧しい人生脚本しか思い描けないために、損 ばかりしているのかと…。だが、笑われても構わない、この世の全ての富は、信仰に添えて与えられる付属品に過ぎず、今はただ、主だけを第一に求めなければ ならない。霊的飢餓はもうすぐそこまで迫っている。私たちが今、何よりも絶やしてはならないのは、主からいただく、聖なる油ではないか…。

今、人生が豊かであろうと、貧しかろうと、そんなことはどうでも良いから、もう一度、全てを脇に置いて、ただ神の聖なる御霊だけを求めたい。神の霊なる命 が、私という干からびた土壌に、慈雨のように降り注ぎ、枯れた骨のような私を、内側から立ち上がらせることを、まず第一に求めたい…。

「私は色んな組織や団体から排斥されて、ついに地上的な組織の中にはどこにも属する場所がなくなり、今は牢獄に入れられたように、社会から隔離されています」、と私が言うと、
「ああ、そりゃ、良かったじゃない。おめでとう!」との返事が受話器の向こうから返ってきた。<…>

「いかにイエスの十字架が軽いといえども、この状況では、苦しくて音をあげたくなる時があります。永久に私はこのままなのだろうか、そんなことには耐えら れない、何とかして名誉挽回したいし、人並みに楽しんで幸福な人生を生きていきたい、まともな職業や、まともな家庭や、車や、財産や、色々な誇るべきもの を持ちたいと思わずにいられないのです…。人からどんなに蔑まれ、どんなに貧しく、どんなに惨めな境遇にあったとしても、ただ黙って耐え続けるのが十字架 なのでしょうか?」と私。

「気持ちは分かりますよ、でも、そこで自分をごまかして、つまり、自己弁護しようとしてはいけません。サタンは私たちが肉なる自己にしがみつき肉を立てようとするのを待っているのです。

けれども、キリストにならう道とは、馬鹿にされ、誤解され、あざけられ、軽蔑される道なのです。私たちは肉体を持っているとはいえ、すでに肉に死んでいます。私たちの命はすでに死んで、キリストと共に神のうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。神のうちに隠されている、これはいわば、墓の向こうで生きるようなものなのですよ。」

「それじゃあ、私はすでにこの世とは別次元で生きているようなものだということですね。だから、この世からはたとえ死人のようにみなされていても仕方がないし、むしろそうあって普通なのだと」
「そうです、この世に対しては死んで、隠された命を生きているのです。自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」

 会話は、キリスト者はイエスとともに、十字架、死、復活、キリストと共に御座につくこと、それらを経験しなければならないという運びになった。私は自分の名誉回復をいまだに願ったりしている時点で、本当の意味では自己の死さえ完了していないのかも知れない。

 今後、馬鹿にされようと、蔑まれようと、浮浪者のようにみなされたとしても、自己を立てようとはもう思うまい、と決意を新たにした。私の名誉回復は、主が再臨されるときになされるのだから、それを信じれば良いではないか。

 また、私たちの戦いは血肉に対するものではない、だから、真の敵は人間ではないということが、歩みを進めるに従って、もっとはっきりと分かって来るだろう、との話であった。そうなれば、もはや肉なる人間に対する憎しみや恨み、怒りなども、持ちようがなくなってくるのだと。
 
 イエスが再臨されるのは、地上に神の花嫁たるエクレシアが整えられた時なのであり、そのエクレシアは今、着々と準備を整えている。私たちには今、見えて はいないかも知れないが、主は信じる者をすでに各地で起こされ、その居場所に関わらず、細胞同士を不思議な方法で結び合わせるように、キリストの身体を作 り上げようと、キリスト者を今まさにつなげようとなさっておられるのだ。

「あなたはキリストを産んだマリアと同じ重大な使命を今日、担っているのですよ。あなたの腹から生ける水が川々となって流れ出る、これはあなたからキリス トが生み出されるのと同じです。キリストはあなたのうちにおられるのですが、あなたを通して、キリストの命が川のように流れ出て、他の人たちを潤すように なるのです。

 日々、自分の十字架を背負うとは、楽しいことばかりではありませんから、チャレンジです。自分にはできないとの恐れが生じるでしょう。けれども、キリストが責任を持って成して下さるのですから、従うことは可能だと信じるべきなのです。あなたが言うべきはこうです、『御心のままになりますように』」


 昨年8月、追い詰められた状況の中で、このように心を興奮させる、遠大な神のご計画について、受話器越しに話を聞きながら、私は、弟子たちを含めて、人 々がイエスを地上で王に担ぎ上げて、何かしらの偉大な共同体を目指そうとしたように、この地上に、この先、見えないキリストを頭とする、見える兄弟姉妹の 豊かな共同体としてのエクレシアが、キリストの純化された花嫁として、姿を現すのだろうと期待していた。私の思いを超えた何事かが、この先、地上で起こる に違いない、何としてもその共同体の一員として身を投じたいという思いであった。

 だが、私の期待はあたかも微塵に砕け散ったようであった。永遠に断ち切れることがないと思った芳しい交わりでさえ、主は絶ち切れることをお許しになっ た。その他の面でも、私は再び、ほとんど空手で振り出しに戻っている。「エクレシアに何が起こったのですか?」と、悲痛な問いを投げかけた人もいた。だ が、これは全て、目に見える世界での出来事に過ぎない。主の永遠のご計画が変わるということがあるだろうか? 今、主のご計画は、当時、私たちが考えたよ りも、もっと隠されたものであっただけのような気がしてならない。

 私たちがエクレシアと言う時、それは、あれやこれやの地上的共同体や、あれやこれやの人のことを指すのではなく、(これは地上で兄弟姉妹が主の御名に よって集まることを否定しているのではない)、そうではなくて、神の教会は、あくまで私たちの思いを超えた、この地上にある一切を越えた、霊的な共同体で あり、その完成は、まだ先の時代のことなのではないかと、私は思う。

 このことに注意が必要である。私たちは今、目に見える、不完全な世界に身を置きながら、片時も、目に見えるものや、自分たち自身を建て上げようとする願 望に陥ってはならないのだ。つまり、この地上に、見える都を築き上げようとする願望に陥ってはならないのだ。主は確かに、見える形の祝福をも、時にかなっ て、私たちの生活に与えて下さるだろうし、見える兄弟姉妹との交わりをも、祝福を持って迎えて下さるだろうが、それでも、私たちの注意は、断じて、見える ものそれ自体に注がれるべきではない。

 私たちが目指すべきは、来たらんとする、見えない都である。だから、この地上にあって、私たちがおぼろげながらに見ているエクレシアは、来たるべきもの の影に過ぎない。もしもそのことを忘れ、私たちが地上で自分たちの存在を通じて、「何者か」になろうとし、何か「純化されたもの」、何か「完成されたも の」を築き上げようとし、その建造によって天にまで手を伸ばそうとするならば、その誘惑に応じた私たちが受けなければならない代償は、すでに書いた通り、 まことに厳しいものとなるだろう。

 私たちキリスト者は、神の祭壇に捧げられた、生きた聖なる供え物である。だが、この地上にあって、まだ贖われない罪なる肉体を持っている私たちは、身体 においては、宿営の外で裂かれ、焼かれるべき、キリストのからだなのである。私たちは確かに、主イエスの裂かれた肉体を通って、霊においては、(大祭司な る主イエスによって、全ての肉と魂の付属物を切り離された上で、ただ霊だけが)、至聖所において神と交わる特権を与えられているが、この地上の存在として の罪なる肉体にあっては、むしろ門の外にいるべき存在であり、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外で焼かれることが使命なのである。

 だから、エクレシアがこの地上にあって、今、幕屋で仕えている私たちに栄光をもたらすことは断じてないし、それはあってはならない。私たちの務めは、自 分自身が栄光を受けることではなく、むしろ、地上に置かれたキリストのからだとして、神に捧げられた生きた供え物として、無に帰することである。霊におい ては、私たちは神との交わりの光栄を得、大いなる平安や、来たるべき時代の前味を幾分か味わうことができたとしても、この地上の幕屋にあっては、キリスト が苦しみを受けられたのと同じように、門の外で焼かれるべきであり、その苦しみとへりくだりが、来たるべき時代の私たちの栄光となるのである。

「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」(ヘブル13:12-14)

どうか私たちが自分の手でエクレシアを建て上げ、自分の手でキリストの来臨を引き寄せ、自分の手で天にまで届こうと願うことがありませんように。私たちではなく、ただキリストだけが栄光をお受けになりますように。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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