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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

十字架は全ての中心である(1)

旧約時代、祭壇では、全焼のいけにえが捧げられました。今日、祭壇とは、キリストの十字架です。私たちは、キリストのからだとして、神に捧げられる聖なる供 え物として、宿営の外で焼き尽くされ、無に帰されるべき存在です。このことは、私たちの生まれながらの古き命、肉体、そして自己が、キリストと共に、絶え ず十字架につけられ、霊的に完全に終わらされた、死の状態にとどまるべきであるという意味です。 

ただキリストの十字架だけが、本当に、私たちの古き命を終わらせることができます。私たちの努力ではそれは成し遂げられません。しかし、私たちは全焼のい けにえとして、神によって自分を終わらされることを、どれほど日々、拒んでいるでしょうか。神の聖なる火によって自己が焼きつくされ、灰にならなければな らないことを、私たちはどれほど認めたくないでしょうか。

死は呪いであり、刑罰でもあります。日本には火葬という風習があります。日々、声を聞き、この手で触れていた、愛らしい存在が、形も残さず、粉々の灰塵に 帰するのを、どうして私たちは認めることができるでしょうか。自分や、愛する対象に、そのようなことを、誰が望むでしょうか。私たちの生まれながらの命 は、死を目の前にして、悶絶、苦闘します。私たちの生まれながらの命は、どうしても死を受け入れられません。

しかしながら、それでも、キリストにあって、このような死こそ、私たちの生まれながらの命が、絶えず霊的に置かれるべき状態なのです。私たちは日々、キリ ストと共に死んでいるべきなのです。私たちはまだこの肉体の中にとどまっているとはいえ、私たちの肉体、魂を支配する古き命は、絶えず十字架の呪いの下に 渡されて、終わらされていなければならないのです。この意味がお分かりになりますでしょうか?

この祭壇(十字架)において、私たちが人生で価値があると思って、大切に抱えていた全ての宝が、呪いを受けて焼き尽くされます。美徳だと思っていた全ての 性質も、無となって焼き尽くされます。私たちはこの死の領域において、この世の全てから引き離されます。愛する家族も、友人も、もう私たちには手が届きま せん。私たちの愛も、才能も、全ての努力が、何の役にも立ちません。私たちの希望も、願いも、理想も、全てが終わらされて、灰になります。そこでは、私た ちがより頼んでいた全ての価値や、努力が、砕け散って、無となり、私たちは自分の全てを焼き尽くされて、この世に死んで、完全に無化されるのです。

私たちはそのようにして自分が、キリストと共に十字架の刑罰に服し、神によって終わらされるべき存在であると認めますか? これが、御言葉が示している、 私たちの生まれながらの命が常にとどまるべき状態なのです。キリストは死に至るまでも、御父に従順であられました。私たちは今日、キリストと共に死ぬこと に同意しますか? キリストと共に十字架の死の中を絶えず歩む人生に同意しますか?

もしも、キリストと共なる十字架の死が、私たちの人生において実際となるなら、その時、初めて、全焼の生贄となった私たちの灰の中から、新しい人が立ち上 がるでしょう。それは、これまでのように、天然の命に支配されていた私たちの古き人ではなく、キリストの復活の命にあってよみがえらされた新しい人です。 私たちの古き命が徹底的に死んだ時、初めて、私たちはキリストにあって、大胆に復活の命を生きるとは何であるかを知るでしょう。

私たちの古き命が絶えず十字架につけられているために、特別な出来事は、必ずしも、必要ありません。それは外的現象によって成し遂げられるのではなく、信 仰によって、御言葉に基づいて、成就するからです。私たちが自分で自分を十字架につけたり、自分で復活しようと努力するのは無駄です。私たちの努力そのも のが、十字架で終わらされなければなりません。

私たちはただ御言葉を信じます、御言葉に基づいて、自分がすでにキリストと共に十字架で死んだという事実を信じて受け入れ、今は、神の隠された命の中を生 きている事実を信じ、認め、宣言します。私たちはそれが自分の人生で実際の経験となることを神に願い求めます。その時、私たちの思惑や、知識や、理論を超 えて、それが私たちの人生において、本当に、知識ではなく、実際の経験となるでしょう。私たちは、本当に主の死に結合しただけでなく、主の復活の命の領域 にもたらされたことをはっきりと見出すでしょう。

今、キリストの十字架の死こそが、何にもまして、私たちの人生の中心に置かれなければなりません。この十字架の死を離れて、私たちには、神へのどんな奉仕 も、清い人生も、あり得ません。この十字架が、もしも私たちの人生の中心に置かれるならば、全ては正常となります。十字架は、私が終わらされ、キリストに あるものだけが残される場所です。私の栄光が死んで葬られ、ただ神だけに栄光が帰される場所です。十字架は、アダムにある古き命が死んで、キリストにある 新しい命だけが残される場所です。

どうか、この十字架が、私たちの人生の中心となりますように。どうか、キリストにある十字架の死が、私たちの人生において、日々、実際の経験となりますよ うに。私たちがへりくだって、自分が完全に絶望であることを主によって照らしていただき、神によって完全に自己を焼き尽くされ、キリストと共に完全に死ぬ ことを、日々、願い求め、受け入れ、それが実際となりますように。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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