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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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赦すことの幸福

今、「この世の霊」は、「健全さ」を標的として食いつくすべく活動しているように見えます。

それは見かけはさまざまな活動の形をとっていますが、根底では一つであります。それはちょうど、かつてさまざまな国で、その日を過ごすのも困難な貧しい階級に属する一般大衆が、パンを求めて行進し、その行進が勢いあまって、裕福な人々の家屋への打ち壊しとなり、王宮を破壊したり、地主の屋敷や蔵を打ち壊し て、穀物を奪ったり、住人を傷つけたのとよく似た現象であり、同じような心理がその背後で働いています。

生活の糧を奪われ、困窮状態に追い込まれた人たちが、その鬱憤をどこに向けるべきか分からないまま持て余し、何かのきっかけに、それが事件となって爆発するのです。

人を赦せない思いは、人がそれを神によって処理してもらおうと望まないならば、時が経つごとに膨らんで行き、泥沼化した争いへと発展していきます。必ずしも、それは敵とみなした人間だけに向けられず、無関係な人に対する憎しみとなって爆発することもあります。

人を赦せない思いは、膨らんで行くと、その他の色々な悪意と手を結びます。他人の幸福を妬んだり、他人の築き上げた財産を強奪したい誘惑に駆られたり、不当に人の信用を失わせようとする悪意などにつながっていきます。

歴史を見ると、誰をも愛することができず、誰をも信じることのできなくなった人間不信、疑心暗鬼が、その根底に横たわっていた運動が数々、挙げられます。 悪意と不法に基づいた運動は、表向きは、常に、弱者救済をその美名に掲げてきましたが、実際に、弱者を救済したことはありませんし、目的としていた幸福社会を打ち立てることも決してありませんでした。

しかし、各時代で、明らかに人類に何の益ももたらさないそのような破壊活動が、革命的な運動にまでに高められ、猛威を振るった時があります。それは社会が不安定化し、次なる社会の形態が見えなくなった時に、頻繁に起こって来た現象なのです。しかも、それらは新しい時代を代表する正義の担い手であるかのように装って登場してきました。ここに、人間の知恵の限界があると言えるでしょう。

しかし、ハレルヤ! 人間の知恵が行き詰まりに達するような時代には、その分だけ、神の知恵に満ちた啓示を求める心が、人の中に起きます。今日、インターネット上でも、どれほど多くのクリスチャンが、真に聖霊の内住を経験し始めて、心からの賛美の歌を神に捧げていることでしょう。御霊の平安を内にしっかりと経験しているクリスチャンが多いことに、私は驚かされるのです。

このような不安定な時代だからこそ、真摯に神を求め、キリストの御霊の内住を経験として知り、それを力とし、命として、聖潔に生きることを願うクリスチャ ンが増えているのではないでしょうか。そうして、神に祝福され、平安を心にいただき、心に欠け目のない成長を遂げる信徒たちが、未だかつてないほどに現れ て来ていることを私は感じます。

クリスチャンといえども、問題に巻き込まれないという保証はありません。ですから、私たちは、あらゆる問題を打ち破る力を持っておられる神のうちに隠された命を生きるということを、今から実際にし ていくことによって、来るべき試練の日に備える必要があると思います。

クリスチャンの避難所となり、砦となって下さるのは、神です。神こそが、私たちの命 を悪しき者から救い出し、清く保つことができるお方であること、それは、特に悪しき日が到来せずとも、誰にでも、今から経験可能です。

同時に、目を覚まして、偽クリスチャンをも警戒する必要があります。なぜなら、このような時代にこそ、偽クリスチャンがその本領を発揮すると言っても過言 ではないからです。ですから、誰が内住のキリストを内にいただく人であり、誰が御霊を持たない人であるか、上からの知恵によって、予め、識別できるよう願 い求めることは重要です。

その第一の手がかりは、「実」を見て判断することにあるでしょう。怒りや憎しみや暴力をその原動力とし、破壊的な実が結ばれているような活動には、神の命は全く見出せません。

神はすべてのクリスチャンのために死なれました。
神はすべてのクリスチャンを清めて、御手の器とすることを願っておられます。
ですから、たとえ兄弟姉妹から痛手を受けることがあっても、私たちは彼らに力を持って、敵対して立ち上がってはなりません。
今こそ、兄弟を赦す心を得られるよう、神に願い求めましょう。
互いに赦し合うことができる心を神に祈り求めましょう。

互いの欠点だけを延々と取りざたしては、自分を人と区別し、自らの義を誇るのをやめて、クリスチャンとは、キリストをかしらとする一つの御身体であり、お互いによって補われなければ、存在しえない関係にあることをもう一度、しっかりと確認しましょう。

キリストは、自分の力では決して一つになれない人々を一つにすることがおできになります。
私たちの内から、あらゆる怒りと憎しみを除去し、新しい心を与えて下さることが、神にはできるのです。主に栄光あれ。





コメント

無題

私は嫌がらせや悪口を言われると頭に血が上ってしまいます。聖書のみ言葉は思い出しても
こんな悪口を吐くような人間のために祝福なんて祈れないし、このムカつきをどこにやれば収まるのかと心が嘆き悲しんでいます。
【2011/01/26 15:15】 NAME[NONAME] WEBLINK[] EDIT[〼]

Re:無題

この問題については、時が来ていなかったので、お返事差し上げられなかったのですが、今日(1/31)記事と合わせて、一つ上のコメントにも類似した返事を書きましたのでご参照ください。

私もあなたと同じ全ての思いの数々を経験しながら生きてきました。その中で、悲しくやるせない思いのすべてを主の御前に率直に申し上げるようにしてきました。今でも、多くの理不尽があり、解決を主に委ねるべき問題は色々とあります。

ダビデがどれほど率直に主の御前で敵を訴えているか、詩篇を見て下さい。私たちは無理をして自分の心の状態を「正しそうに」見せかけようとした り、自分の未熟さを人前で隠したり、主の御前で偽る必要はありません。血肉によって問題に立ち向かうのは愚かなことではありますが、一番悪いことは、主の 御前で私たちが自分の心を偽ったまま、きれいごとという偽善で武装して進み出ることなのです。

だから、苦しいときは苦しいと、悲しいときは悲しいと、怒っているときは怒っていると、赦すことができないと、どうしてもやり返してしまうと、敵 の破滅を願うと、主に対してだけは、正直に申し上げてよいのです。いや、そうせねばならないのです。赦せないものを、赦したかのように、必死で自分を偽っ たり、私には怒りもなければ、敵意も、憎しみもないと、きれいごとで自分をごまかす必要はないのです。その心の状態を対処できるのは(もっと言うならば、 十字架で対処する本当の責任を負っている方は)、私たちではなく、主だからです。私たちの責任とは、主の前に癒されなければならない病人・罪人として、惨 めで盲目で裸な自分をありのまま差し出すことです。

ところで、不当に苦しめられたとき、公正な裁きを求めて主に叫ぶことは、クリスチャンに与えられた当然の権利です。みなし子、やもめの保護者であられる主は、貧しき者の訴えを弁護して下さいます。主は私たちの心の弱さに同情できない方ではありません。

しかし、そのようにして、悩みの最中で(人に対してではなく)ただ主に向かって、私たちが率直に呼ばわったなら、私たちはその事件をそれ以上、自分の正義感で握りしめることなく、次第に、事件を手放す必要があります。

これを私たちが理解するには、時間がかかります。問題を主に訴えたなら、その後は主の領域なのです。裁判所に訴えを提出したなら、あとは裁判官が 審理して判決を下すのを待つべきなのです。私たちは早く解決して欲しいと裁判官に懇願することはできます。私たちの弁護者はキリスト・イエスであり、主は 必ず事件を公正に裁かれ、血潮の中に隠れる者が罪に定められることはありません。御言葉に敵対する者は必ず滅びます。主に身を避ける者にとって勝利は確定 しているのです。

しかし、私たちは訴えを主に送った後、落ち着いて、信頼して主により頼み、御言葉の成就を待たなければなりません。主は私たちに信仰によって忍耐を学ばせるために解決を待たせることがあります。これは難しい学課です。

忍耐することに慣れていない私たちは、その間、苦しむでしょう。しばらくのうち、血肉による解決を目指そうとする気持ちは消えないでしょう。しか し、御言葉に立つならば、ある時にふと、私たちは主が本当にその問題を私たちの心から過ぎ去らせ、私たちの手から事件を取り上げて、御手の中に移して下 さったことを知るのです。それ以降は、苦しめられても、罵られても、そのことはもはや私たちの心に触れなくなります。自分の愚かさ、過去の失敗でさえ、私 たちを脅かさなくなります。私たちは主の血潮という過越の中で、自分が安全に守られているのを知り、全てのことを成就して下さるのは主であることを知っ て、安息するのです。

その時になって初めて、敵対する者を祝福するとはどのような意味であるか分かるようになります。敵を祝福するとは、神に敵対する者と妥協して和平 を結ぶことを意味しているのではありません。よく誤解されているように、敵対する者にへつらって歩み寄り、その全ての歪んだ訴えを受け入れて、自分を捨て て無条件降伏することを意味しているのではありません。私たちは神に従い、サタンには毅然と立ち向かう必要があるのです、この態度を捨ててはいけません (しかし、このことはまた追って説明します。)

その頃には、私たちを不利に陥れようと責めてくる霊的な敵に対して、揺るぎなく堂々と血潮を宣言して立ち向かうことができるようになるでしょう。 こうして、吼えたたけるししのような霊的な敵の叫びがやまなくとも、私たちの安息はそれによって揺るがされない、堅固なものになっていきます。

しかし、こうなるためには、時間がかかります、苦しみの中で主を見上げ、試されても忍耐し続ける信仰が必要になります。いつかこのことについては 続きを書くことになると思います。主は必ず私たちの心を不自然でなく、無理のない形で取り扱って下さり、私たち自身が理解できる形で、御業をなして下さい ます。だから、自分で復讐してはいけません。御言葉に立って、主を待ち望みましょう。

「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)
【2011/01/31 15:33】
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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