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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストの苦しみにあずかる(2)

しかし、私のプライドを粉々に打ち砕いたその旅は、私の人生にとってまさに必要なものでした。主は、極みまで打ち砕かれた私の心をご覧になって、よしとされ たのでした。表面的には、私の心が求めていた満足はあたかも得られなかったかのようでしたが、主を尋ね求めるために、私の魂が支払った痛みを、主はご存知 でした。そして、決定的な御言葉を、用意して下さり、家の主人の口を通して、聞かせて下さったのでした。

「私はキリストと共に十字架につけられて死んだ。この十字架によって、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んだ。もはや私が生きているのではない。キリストが私の内に生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20,6:14)

旅が終わった後で、私は聞いた通り、自宅でこの御言葉を声に出して宣言しました。その頃、私の人生は坂を転げ落ちるようにして、明らかに死 へと向かっていました。何が何でも、御言葉によりすがる以外に、解決はありませんでした。少し後になって、まさに絶体絶命と言う他ない危機に立たされた 時、私は突然にして、自分が十字架につけられて、この世に対して死んでいること、そして死んだ私に代わって、今やキリストが私の内に生きておられるという 事実が、自分の人生において実際となっていることを発見したのです。

それは誰からも教えられないのに、不意に、絶対的な、内なる確信としてやって来ました。私は自分の内に御霊が住んでおられることを突然、はっきりと知った のです。それまで、世から踏みにじられて、生きる力もなくなっていた私の人格が、新しくなってよみがえらされたのが分かりました。生まれてこの方、一度も 傷ついたことがないかのような、新しい心が与えられました。それまで私の心を絶えず(何十年間にも渡って)圧迫し、苛んで来た、この世の事物、この世の人 々からの影響がぴたりと止んだのです。いいえ、この世の影響力が止んだのではありません、この世は私に対して十字架につけられ、私も十字架で死んでしま い、私は墓の向こうに、神の命の中に隠されたので、この世は私に届かなくなったのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

この御言葉が成就し、焼き尽くされた灰の中から、新しい人が立ち上がりました。私のうちにはあるはずもなかった偉大な力が、私を新しく立ち上がらせまし た。それは霊なる神の命であり、キリストの、死をも打ち破った、偉大な復活の命でした。生まれて初めて、霊的な視界が私の前に開け、神の霊が私の霊を直 接、訪れたのが分かったのです。

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:20)と、 主イエスが言われたその日が、私にやって来たのです。なぜ分かったのかと聞かれても、御言葉が成就したという他、理由がありません。それは絶対的な確信で した。誰から教えられなくとも、私がキリストにおり、キリストが私の内におられることが分かるのです、一切の状況にとらわれない、圧倒的な喜びが心に溢れ ます。主を知るとはどういうことであるか、霊と真理を持って神を礼拝するとは、どういうことであるか、初めて知り、日々、我が霊の内から賛美が天に立ち上 るようでした。

御霊は、私が幼い頃から教会で聞いて来た御言葉を、今度こそ、死んだ文字ではなく、生きた事実として、私の心に思い出させました。そして主にあって、私が 人生を再開するために、何をすれば良いかも、教えてくれました。キリストの復活の命は、当時、疲労困憊して死ぬばかりであった私の肉体をも力づけ、生きる に必要な全ての力を供給してくれたのです(ローマ8:11)
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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