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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの苦しみにあずかる(3)

こ の経験は、神の聖なる御霊が私の上に下るためには、まず私自身が、キリストと共に十字架に死に渡され、全焼の生贄として、焼き尽くされていなければならな かったことを示しています。キリストを信じた時から、聖霊は私の内に住んで下さっていたのだと思いますが、それだけでは、私には、罪なる生活に打ち勝つ力 もなければ、この世の圧迫に打ち勝つ力もなく、神を信じて、神に祈り、神により頼んで生きる力もなかったのです。何よりも、神を全てに勝るリアリティとし て知ることができませんでした。

そこで、私には根本的に、聖霊のさらなる力づけが必要でした。しかし、聖なる御霊は、私のおごり高ぶって、汚れた肉の上には、注がれることができません。 ですから、聖霊の力づけ(聖霊のバプテスマ、油塗り)を求める人は誰でも、それを受ける前に、キリストの十字架の死が、その人の内で実際となって、その人 自身が十字架で死に渡されて、完全に終わらされている必要があることを知らなければなりません。しかし、それは何と私たちの魂にとって、重く苦い経験で しょうか!

兄弟姉妹は、私がキリストの十字架を本当の意味で知るために、なくてはならない助けを与えてくれましたが、その兄弟姉妹との交わりでさえ、私の心を打ち砕 く材料となりました。私は人前で、恥じずに済む、独立した一人前の人間として、彼らの前に姿を現すことができませんでした。傷ついた心に、優しい慰めと励 ましを受けることもできませんでした。私が人を喜ばせて、人に奉仕してあげる側に立つこともできませんでした。むしろ、私は、まるでいじけきった浮浪者 が、通行人から仕方なしにお恵みを受け取って生きるように、寝たきりの老人が、他人の介護によってようやく命をつなぐように、自分の意に反して、他人の憐 れみによりすがらねば、最低限の願いも、かなえられない状態に置かれました。そのことによって、人が無力な状態で、他人の親切を受け取るためには、どれほ どのへりくだりが必要であるか、多少なりとも、思い知ったのです。

今、主の憐れみによって、恐ろしい危機を脱した私は、このへりくだりを忘れてしまっているに違いありません。もう一度、あのように魂を打ち砕かれること に、私は同意できるでしょうか? しかし、いずれにせよ、神の聖霊の力づけを受けるために、私にはそこまでの屈辱、苦しみ、貧しさ、孤独、孤立無援、絶体 絶命、無力を通らされる必要があったのです。そして、私が十字架において、キリストと共に死に渡される必要性は、当時も今も、少しも変わらないのです。他 人の豊かさの前に、私は徹底的に貧しくなり、他人が私に施して豊かになるために、私は地上で無にされて、私の願いは最後まで終わらされなければなりませ ん。私は絶体絶命になり、自分の命ではなく、ただ神の命によって生きるために、神の懐に全てを捨てて逃げ込むことが必要なのです。主はこのような無力とへ りくだりを、喜んでくださいます。

パウロは言います、「…主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)

今、キリストの偉大な復活の命の御力にあずかるために、私たちに必要なのは、強さではなく、弱さです。自分で何でも成し遂げられる力強い自立ではなく、神 に頼らなければ何一つできない、子供のような無力と、依存です。力と豊かさに溢れる人間になるよりも、無力と貧しさとへりくだりに溢れる人間になることが 必要なのです。 幸福で満ち足りた生活を神に感謝するよりも、むしろ、塵と灰の中で悔い改める、貧しく、砕かれた心が必要なのです。私たちは覚えておかな ければなりません、もしも心からキリストに従いたいと願うなら、キリストが持っておられたのと同じ、徹底的な無力と貧しさを、地上で私たちも、必ず、持た なければならないのだと。それは私たちの無力と貧しさが、神の力と豊かさで覆われるためであり、全ての栄光が、私たちの生まれながらの力にではなく、ただ 神だけに帰されるためです。

主イエスは地上における生涯の間、何と貧しく、人々に依存しておられたことでしょう。何と人々からの奉仕をへりくだってお受けになられたでしょう。主は地 上で何一つ所有することなく、人々を天における富で富ませるために、むしろ自分はすすんで貧しくなられました。ついに主は、墓さえも、他人からの借り物の 墓に入られたのです。C.H.スポルジョンは、「イエスの墓」の中でこう述べています。

「ご自分の持ち家を1つも有しておらず、他の人々の住まいでお休みになったお方、――何の食卓も持たず、ご 自分の弟子たちのもてなしによって生活しておられたお方、――説教するために小舟を借り、この広大な世界に無一物であられたお方は、他人のお情けで墓に入 らざるをえなかったのである。おお! 貧しい人は勇気を持つべきではないだろうか? 彼らは隣人の負担で葬られることを恐れている。だが、もし彼らの貧困 が避けがたいものだとしたら、何ゆえに赤面することがあろうか? イエス・キリストご自身が他人の墓に埋葬されたというのに。ああ! 私にヨセフの墓が あったとしたら、イエスを中に葬るべき墓を持っていたとしたら、どんなによいかと思う。…」

私たちの前には常に二つの道が置かれています。一方は、地上で喜び楽しみ、自分の魂を満足させるために、己の魂の命を手放さない道です。自分のために気に 入った家を建て、愛する家族や友人を集めて、財産を蓄えて、それらを自分の手に握り締めたまま、自分の魂にこう命じる道です、「たましいよ。<…>さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)。  もう一つは、キリストの弱さと貧しさと苦しみに進んであずかる道です。主のために、地上の宝を手放し、死に至るまでも、自分の魂の命を十字架で注ぎ出 し、主の御前で、徹底的に焼き尽くされて、無力に、貧しくなり、世においてはキリストと共に葬られることによって、主からの永遠の報いと、来るべき時代の 栄光を勝ち取る道です。

どうか、今日、私たちがキリストの弱さ、キリストの苦しみ、キリストのへりくだりの道を選びますように。その時、私たちが天で受ける報いと喜びと慰めは大きいのです。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 」(Ⅰペテロ4:13 新共同訳)

「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(Ⅱコリント1:6)
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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