忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

私ではなくキリスト

職場の同僚の家に招待されて、お食事と歓談にあずかって来ました。心のこもったもてなしを受け、時間を気にせず、和やかで、心安らぐひと時を過ごしました。
「少しでも力になれたら…」、そう言って、目の前で、派遣会社の知り合いに電話をかけている彼女を見ながら、その奉仕は、私にではなく、キリストに捧げられているのだ、と心の中で思いました。

無職であるがゆえに、こうして、人の親切を受けることができるのも、幸いなことです。その親切が、実を結ばないと分かっていたとしてもです。

「同じ釜の飯を食った」大切な仲間。共に過酷な試験を耐え抜いて、正規に配属となった同僚。私がその職場をすでに去ったのだとは、未だに信じられない思いです。

今でも、親しかった人々を思い出さない日は、一日もないのです。彼らを置き去りにしたことで、心が痛まない日はないのです。私はどれほど彼らを愛しているでしょう。私の魂は彼らと一緒にいたいと願うのです。

しかし、それにも関わらず、後悔はありません。今、魂にからみつく全ての愛情と未練を捨てて、何一つよりすがるものを持たずに、愛する人々も、兄弟姉妹 も、私の心が執着する何もかもを手放して、ただ裸一貫で、私は主の御前に立ちます。そうして全てを主に預け、天の御国の銀行に、私の全財産と、私の心その ものを預けきったことで、不思議な満足を覚えるのです。

もうここには、人からの評判も、届きません。私を野次る声も、私を引きとめようとする声も、届きません。私は主の懐の中に、まっしぐらに飛び込んで行きま した。焼き尽くす炎であられる方の中に飛び込んだ以上、私は燃え尽きるでしょう。ですが、私にできることは、これだけでした。神は私を十字架で終わらせた 上で、神ご自身の命の中に隠して下さいます。ですから、この先は、主が責任を取られると、正直に言います。

かつて私は孤独に弱い人間でした。しかし、孤独を避け、可能な限り、人から慰めを受け、人に励まされて生きようとする、その私の心の弱さが、死と復活を経られたキリストとの生き生きした結合にとどまるに当たり、致命傷をもたらしたのです。

ですが、今は違います。我が内におられるキリストを、私は最高の頼みとしています。どんな状況であれ、どんな人間であれ、キリストと私との間に挟まること を、許したくありません。キリストを差し置いて、一体、何を優先するのでしょう。頼みとするものが、なくなった今だからこそ、より一層、全てを差し置い て、ただ内なるキリストにより頼んで生きたいのです。私たちの自己から出た思いつきではなく、私たちの命なるキリストの内から、日々の全ての必要を、引き 出して生きる秘訣を学びたいのです。

こんなのは阿呆のたわごとだと、努力と責任を放棄した人生に過ぎないと、言う人もあるでしょう。かまいません。私には、もはや孤独も怖くありません。どこ へ行こうと、主が共におられる以上、一人になることは絶対にないからです。今、私がこの手に握り締めているものは、もうありません、主よ、「私のもの」 は、もうありません! 私はキリストと共に十字架で死にました! どうかあなたが、ただあなたの御力によって、私の人生において、日々、十字架の死を実際 として下さいますように。これから先、死んだ私に代わって、キリストが私を生きられますように。どうか私を、キリストの死と命との結合の中に、永久にとど まらせて下さい。そして、私ではなく、キリストが栄光をお受けになりますように!

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ず、キリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:4-5)

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39) 


 

PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー