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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の焼き尽くす炎――完全な明け渡し(1)

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く目に慕わしく賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)

「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:3)

「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしませんこのかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」(コロサイ2:18-19)

「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わがなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるよ うにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:10-16)

「あなたの神、主は焼き尽くす火ねたむ神だからである。」(申命記4:24)
「私たちの神は焼き尽くす火です。」(ヘブル12:29)

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(Ⅱコリント5:7)


今日、私たちの主要な関心は何に向けられているでしょうか。正直に言って、今日のキリスト者のほとんどの眼差しは、ちょうど善悪知識の木に惹きつけられた エバと同じように、見えるものに奪われてしまっているのではないでしょうか。神ではなく、自分の方へ向き、自分を楽しませてくれるもの、自分をより高めて くれそうなもの、自分をより正しくしてくれそうなもの、自分により満足を与えてくれそうな物事や活動に、ひっきりなしに奪われているのではないでしょう か。

私たちが、神を求めていると自分では思っているその動機さえ、はなはだ怪しいのではないでしょうか。私たちの魂と、肉体の感覚はいつも私たちを欺こうとし ます。私たちが神に心から仕え、神を賛美していると思っているその瞬間でさえ、私たちはただ五感の満足に身を委ね、自己の栄光を手に入れようとしているだ けのことが多いのではないでしょうか。私たちが主の花嫁たるエクレシアの建造に関わろうと願っている時でさえ、その動機がいつの間にか、自己を建て上げる ことにすり代わり、かえって主の目に忌まわしい建造物を建てていることに気づいていないことさえあるのです。

私たちは自己の内に潜む動機の忌まわしさを知りません。そもそも、私たちが神に恵みを求めて祈る動機は何でしょうか。それは神の手から祝福をもぎとり、主を置き去りにして、自分勝手な喜びに夢中になり、その後、神から独立して好き勝手に生きていくためではないでしょうか。

「お父さん、あなたが生きているうちに、ぼくに財産を分与して下さい。そうしたら、ぼくはお父さんをこれ以上、煩わせることなく、自分の計画に従って、立 派に成功して見せますから。お父さんの世話にならずに、ひとかどの人間になって、独立して、幸せに生きていきますから。見ててご覧なさい、きっとぼくは、 お父さんを超えてみせますよ。今に、ぼくはお父さんをあっと驚かせるような人物になって、お父さんがぼくを誇りに思わずにいられないようにしてみせます よ。」

哀れな放蕩息子。彼はただ父を過小評価しているだけでなく、自分の弱さも、愚かさも知らず、これから世で自分を待ち受けている危険を考えもしません。しか し、これが私たちの心の本音ではないでしょうか。私たちの心は神からの束縛を嫌うのです。神から良いものだけは受け取りたいのですが、苦しみや、懲らしめ は受け取りたくないのです。恵みは欲しいけれども、主ご自身は要らないと言うのです。私たちは、自分には後見人も、親も必要なく、自分はすでに成人である から、誰からも支配されたくないし、訓練される必要もないと思いたいのです。私たちは様々な信仰書を開き、それを読んで、分かった気になります。もう随 分、信仰が進歩したので、自分には御父から教えてもらう必要もなくなった。好みに合った教師や仲間もそばにいる。今や御父は必要なく、父の世話になるの は、窮屈で肩身が狭いから、自分の独立した住居を構えて、世間に出て行き、教師となって人を教え、尊敬を集めよう、そんな風にさえ思うのです。

神はそんな私たちの心の愚かさをご存知でいらっしゃいます。ですから、神は私たちに好きなようにやらせて、失敗させる他ないでしょう。私たちが神の手から 恵みを受け取った後、どう行動するのかは、極めて重要です。戸を閉めて、隠れたところにおられる神に恵みを感謝し、さらに御旨を求めるて祈るのでしょう か。それとも、扉を開けて、あわただしく外へ出て行き、会う人、会う人に、神が自分をどんなに高めてくれたかを得意げに吹聴し、人の注目を集めて過ごすの でしょうか。そうすれば、しばらくの栄光の後、私たちは再び、凋落し、破産して、全ての友人に裏切られ、一人ぼっちになった上で、うなだれて父の許へ帰る 羽目になるでしょう。「もう息子と呼ばれる資格はありません…」

私たちは、神を離れて何一つ永遠に残る働きをすることはできません。私たちの神は焼き尽くす火であり、私たちはこの地上においても、その火のテストを受け ることが度々あります。神は私たちの自己から出た奉仕の全てを焼き尽くされます。御霊ではなく、私たちの自己から出たものは、神の目に忌まわしい偶像と同 じです。神が喜んで受け入れるのは、キリストだけです。

私たちは自分の内で、キリストに属さないものを焼き尽くされる準備が出来ているでしょうか。神の栄光を妨げるものを全て神によって自分の内から取り除いて いただく覚悟があるでしょうか。何よりも、神が受け入れられる、へりくだって悔いた心が造られるために、神の懲らしめの御手の下に置かれることに同意する でしょうか。

たとえどんなに偉大な啓示を受けたとしても、どんなに大きな恵みを受けたとしても、もしも私たちが、かしらなるキリストにしっかりとつくことをせず、いた ずらに啓示を誇り、恵みを誇り、神ではなく自分に栄光を帰し、自分を誇るようになるならば、私たちの建造するものは、かの火の耐火テストに耐えることはで きません。その忌むべき建造物は、神の送られる焼き尽くす火によって、根こそぎ燃やし尽くされるでしょう。そうなる前から、人々は、私たちの働きが結ぶ実 を見て、その悪しき性質を見抜くでしょう。私たちはそれでも救われていることに変わりはありませんが、働きが全て燃え尽きて、火の中をくぐるようにして、 自分の命だけ助かった時に、人生を無駄に失ったこと、そして神から受けられたはずの褒美を失ったことに気づき、愕然とするのです。

私たちの人生の最高にして最善の目的は、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛」すること(マルコ12:30)、 隠れたところにおられる見えない神、主を知る知識を追い求め、それに満たされることです。これは死んだ文字を通して得られる知識を言うのではありません。 神を知るためには、私たちの心の全てを、まず神に捧げ、私たち自身を神に明け渡さねばなりません。私たちが見えるものから目を離し、自分の満足だけを求め て生きることをやめ、へりくだって悔い改めて、見えない神ご自身に一心に心を向けて、神に出会うことを切に尋ね求めねばなりません。神に出会わないなら ば、もはや生きている意味が全くないと感じるほどまでに、私たちの心がただ信仰によって、神だけに向けられなければなりません。そうして主を「知る」時、 あなたは初めて心からこう叫ぶでしょう。

「…私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)

キリスト者に与えられている最大の使命は、そのようにして生涯を尽くして、一心に、ただ神を愛し、神を知ろうと追い求めることです。一人ひとりが見えるも のから目を離し、見えない神に信仰によって望みを置き、霊の内において復活の主と堅く結合し、主との直接の交わりを得、その愛に浸されながら、御霊の導き に従って、復活の領域において、大胆に新しい命を生きていくことです。

しかし、聖なる神に訪れていただくために、まずは自分自身がキリストと共に十字架の死の領域にとどまることに私たちは同意するでしょうか。神が焼き尽くす 火を送って、私たちの自己を焼き尽くされることに同意するでしょうか。この先、神が私たちの信仰を厳しい方法で試され、私たちの心の不純物をろ過され、金 のようになるまで、私たちの信仰を洗練されることに同意するでしょうか。私たちの魂はこのような試練を喜ばないでしょう。しかし、どうか、私たちがこれ以 上、朽ちるものを建て上げて、地上での人生を失うことがないよう、神から得られる永遠の褒美を失うことがないよう、どうか主が私たちの上に御旨を成して下 さり、キリストと共なる十字架の死を私たちの内で実際として下さいますように。
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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