忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの中心性と至高性(1)

なぜ私たちは、キリストと共に絶えず十字架で死に渡されなければならないのでしょうか? 一体、なぜ私たちは常に死の領域にとどまらなければならないのでしょうか?  多くの人々は、私たちの自己はあまりに罪深いので、死ななければならないと言うでしょう。この見方は、正しくはありますが、一面に過ぎず、十字架の消極 面に過ぎません。もしもこの消極面だけに注目しすぎるならば、私たちは果てしのない自己分析と自己批判、(最後には自己破壊)という全く誤った方向性に逸 れていってしまうでしょう。

私たちが仮にどんなに良心によって自分の罪深さを認識したとしても、それでも、それは到底、神の見方には達しません。私たちの認識は、それ自体、不完全な ものであり、私たちの良心は、私たちを罪定めに導くだけであって、それに対する正しい解決を与えてくれるわけではありません(解決はキリストにしかないの です)。私たちは自己分析にふけり、再び、律法によって自分を裁き、罪意識でがんじがらめになるために、キリストを知ったのではありません。自分で自分の 罪深さを新たに発見しては、次々、それを取り除こうと自分で努力することは、御言葉が教える方法ではありません。

御言葉は、十字架にはこれよりも、もっと別の積極的な側面があることを提示しています。良心は私たちを罪定めし、私たちが十字架の死へともたらされる必要 を教えてくれる道標にはなります。しかし、それで終わりではありません。積極面において十字架は、罪を知らない、義なる方であられ、まことの命であられる キリストが、死んだ私たちに代わって、生きて下さることを、私たちの人生において、実際の経験として成就します。私たちがもしキリストと共に十字架で真に 死ぬのならば、その度合いに応じて、キリストが、まことの新しい命として、私たちの中から溢れ出し、私たちに代わって生きて下さいます。そのことがもっと 実際の経験となるよう、願い求めましょう。私たちには自分で自分を終わらせることはできません。ただ神が御言葉を私たちの内で成就して下さり、キリストが もっと、私たちの内で中心となり、至高の存在となって下さることを願い求めましょう。もしもこの積極面がないならば、十字架における自己の死は、単なる教 理、しかも自己破壊のための偽りの教理となって終わってしまうでしょう。

オースチンスパークスは以下の著書の中でこう言っています、「キリストは私たちの内側にいて、私たちの内に生きておられるだけではありません。これにはそれ以上の意味があるのです。すなわち、キリストは信者のいのちである、ということです。内なるキリストは信者のいのちそのものです彼は私たちのいのちとして中心でなければならず、至高でなければなりません。彼が中心であり至高である程度に応じて、彼は私たちのいのちとなられます。それ以上でも、それ以下でもありません。」

私たちは命なるキリストが全ての全てとなって下さることを目指しています。キリストは、すでに私たちの内側にお住まいになっておられますが、それでも、私 たちを全て支配するまでにはまだ至っていません。私たちが十分に彼により頼んでいないからです。これまでに、もう十分だと言うほどまでに、自分の内で、キ リストに生きていただき、彼に中心となっていただいたと、自信を持って言える人は、多分、ほとんどいないことでしょう。私たちはもっとそれを知るべきで す。それが神の御心だからです。全ての聖徒たちに御旨がなるように切に願い求めましょう。

キリストは、今まで私たちを生かして来たような、魂の命として私たちの内におられるのではなく、永遠の命としておられます。これは、私たちが生かされてき た天然の(動物的な)命とは全く異なる、神の霊なる神聖な命です。これは死と復活を得られた、永遠に滅びることのない、栄光化されたキリストの御霊です。 私たちの頭脳では、きっと、このことは理解できないでしょうし、誰も巧く説明もできないでしょう。しかし、このまことの命なるお方により頼み、この命なる お方に、私たちの中心となっていただき、そこから全ての必要性を引き出しつつ、キリストに私の人生を生きていただくことが、実際に可能であると御言葉は教 えてくれています。ですから信じましょう。

私はキリストと共に十字架につけられて、死んで王座から退位します。そして代わってキリストが王座につかれます。私たちが自分自身、自分の力、自分の知 識、自分の思い、自分の計画により頼むのではなく、キリストにより頼んで生きる、その度合いによって、キリストが私たちの命として内側で、さらに力強く支 配して下さるでしょう! 今、どんなに自分がひどい状態にあるように思われても、キリストから程遠くあるように思われても、私たちの弱さにこそ、神の強さ が現れる余地があることを信じましょう。罪の増し加わるところに、恵みも増し加わると御言葉は言っているのですから信じましょう。自分が癒されなければな らない病人であると自覚している者のために、キリストはまことの医者として来られたのです。

ですから信じましょう、神が必ず、私たちの願いに応じて、御言葉を成就して下さり、「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私 ではなく、キリストが私の内に生きておられます」という経験を私たちに与えて下さるのだと。神がキリストを私たちの存在の内で、真の主権者、全ての中心と ならせて下さることを信じましょう。どうか主よ、あなたが御心を私たちの上に成し遂げて下さり、キリストが私たちの内で中心となり、至高の存在となって下 さいますように。
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー