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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの中心性と至高性(2)

オースチンスパークス著、キリストの中心性と至高性、第二章より引用

「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが 私の内に生きておられます。そして私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子の信仰の中で生きま す」(ガラテヤ人への手紙2章20節) <…>

今、すべての義の問題に関して御父を完全に満足させているこのキリストが信者の内におられます。ですから、キリストの中にある信者は彼の中ですべての義を有しており、神は満足しておられます。信者自身は前より義しいわけではありません。義なる方が内側におられるのです。神は私たちをご覧になるのではなく、私たちの内におられる御子をご覧になります。今、キリストは内に生きておられます。

パウロは次のようなことを言っています、「今、私が生きているのは、律法にすがることによってではなく、キリストにすがることによってです。私がキリストにすがるのは信仰によってです」 「今、肉体の中で生きているそのいのちを、神の御子の信仰の中で生きます」 「私は信仰によって彼にすがり、そして生きます」

もはや罪定めはなく、それゆえ死もありません。ここに義があり、義があるところに罪定めはないからです彼の中に罪はありません。彼の中には罪がないので、死と裁きには何の力もありませんし、何の関係もありません。彼はここにおられます。彼は不朽不滅のいのちの力の中で生きている方です「私は信仰の中で彼にすがることによって生きます」。どうやってでしょう?訴える者が来て私を戸口で訴え、罪定めと死の下にもたらそうとする時、「キリストは私の義です」と言うことによってです。

訴える者が火矢で攻撃し、「あなたは父を怒らせています」と言う時(故意に罪にふけったり、わざと御父を怒らせるようなことはしていないのに、敵が「主の不興を買っている」という感覚を私に与えて、私を死の中に落ち込ませようとする時)、私は言います、「私のために御父を満足させて下さるキリストが私の内におられます。御父は彼をとても喜んでおられます。彼は私の内におられます」信仰によって彼にすがり、彼につながるなら、私は死ぬかわりに生き、罪定めの下に来るかわりに勝利します。この意味で、内なるキリストはいのちであり、このいのちを私たちは生きます。

私たちが勝利の生活を送るのは、罪に対して戦うことによってではありませんし、自分自身に基づいて訴える者に答えようとすることによってでもありませんキリストを示し、信仰によって内なるキリストにすがることによってです。キリストは私たち自身の心の内側で神の満足です。これ以上あなたは何を望むのでしょう? 

信仰は神の満足である彼に絶えずすがります「私はキリストと共に十字架につけられました」――それではどうして私を捜すのでしょう? 「もはや私が生きているのではなく」――それではどうして私を試み、訴えるのでしょう? 「死んだ人は罪から解放されています」「しかし、キリストが私の内に生きておられます」

彼に罪を科すこと、罪を彼の責任にすることがあなたにできるなら、私には何の希望もありません。しかし、彼が御父に対して御父が私に要求する一切のもので ある限り、そして、彼が私のために御父に対してどのような方であるかを信じる信仰の鎖を私が絶えず堅く保つ限り、私は生きます。死なずに生きます。彼は私 のいのちです。この意味で、彼は私のいのちになります。これは、キリストを私たちを生かし続ける内なる活力と見なす以上のことであることがわかるでしょう。

こうしたすべてのことには偉大な背景があります。キリストのパースンが御父に対して持つ意味と、キリストが御父を満足させるために十字架上で行った働き を、これはすべて集約しています。そして、それは私たちに与えられて、私たちの内なる分となります。次に信仰がこれと結びつき、これを握り続け、私たちは 生きます。「そして私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子の信仰の中で生きます」

これは膨大な神の御言葉を簡潔にまとめたものですが、熟慮すべきことだと感じます。これは主イエスを私たちのいのちとして中心性と至高性の地位に戻すことを含んでいます。彼がそのような地位にある時だけ、私たちは生きます。私たちはキリストによって生きます。この意味で、キリストは私たちのいのちそのものです。ああ! 訴える者にキリストをもって答えなさい

「義の胸当て」という句は、この真理を述べる隠喩的方法、例証的方法にほかなりません。義の胸当てはキリストです。彼は義なる方であり、私たちに至る義とされました。良かれ悪しかれ、私たち自身で敵に当たろうとしても役に立ちません毎回キリストをもって敵に当たり、キリストをもって敵に答えなければなりません

もし御父が高い要求をされるなら、彼ご自身が御子の中に必要なものを備えて下さっています。そして、彼は私たちに言われます、「私があなたたちに求めているのは、両手を私の御子で満たすことだけです。両手を彼の完全さで満たしなさい。これが私を満足させます」

キリストは信者のいのちとして、信者の内で中心であり至高です。私はあななたちにさらに多く主イエスを得させましょう。これらの言葉の強調点は、神の御思いの中で彼がどのような方かということです。これを単なる教理としてではなく、生き生きと把握する時、これを心の中で把握する時、私たちは勝利の何たるかを知り、勝利の生活を知り、満ち満ちた豊かさの何たるかを知るでしょう

愛する人たち、私は確信していますが、主イエスご自身で満たされれば満たされるほど、私たちはますます勝ち誇った、勝利の、打ち勝った神の子供となります他の何ものも、キリストに置き換わることはできません

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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