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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

十字架の苦難を味わう

あなたは、神があなたに送られるすべての苦難を、耐え忍ばなければなりません。もし主に対するあなたの愛が純粋なら、あなたはタボル山で主を愛するのと同じように、カルバリでも主を愛するでしょう。確かに、あなたはタボルだけでなく、カルバリでも主を愛するべきです。なぜなら、主が大いなる愛を示されたのはカルバリにおいてだったからです。

自分を主にささげても、後で撤回する人々がいます。このような人々の真似をしてはいけません。彼らは主の寵愛を得るために自分をささげますが、十字架につけられる時、後退してしまいます。あるいは、少なくとも、被造物の慰めに向かってしまいます。

愛する人々よ、あなたは十字架の愛と完全な明け渡し以外に、慰めを見いだせないでしょう十字架を味わわない人は、神のことを味わいません(参照マタイによる福音書16章23節)。十字架を愛さずに神を愛することは不可能です。

十字架を味わう心は、最も苦いものでさえ甘いことを見いだします。聖書は告げます、「飢えている者には苦い物もみな甘い」(箴言27章7節)十字架に飢え乾くのに比例して、魂は神に飢え乾きます。神は私たちに十字架を与え、十字架は私たちに神を与えます


十字架の道を進む時、私たちは内的に前進します。これは確かなことです。明け渡しと十字架は、手を取りあって進みます

何かが苦難の形でやって来る時、あなたの心はそれを嫌がるでしょう。そうし たらただちに、そのことに関して自分を神に明け渡しなさい。自分を犠牲の供え物として神にささげなさい。そうするなら、十字架がやって来る時、それはさほ ど重くないでしょう。なぜなら、あなた自身が十字架を望んでいるからです。しかし、誤解しないでいただきたいのですが、これは十字架の重さを感じなくなることではありません

もし十字架を感じていないのなら、私たちは苦難を受けていないのです。痛みを感じることは、苦難の主要部分です。イエス・キリストは、最大の苦しみを耐え忍ぶことを選ばれました。弱さの中で十字架を負う時もあるでしょう。また、強さの中で十字架を負う時もあるでしょう。私たちにとって、どれも同じことです。なぜなら、私たちは神の御旨の中で十字架を負うからです。」

(ガイオン夫人著、短くて簡単な祈りの方法、第七章、苦難より)


 主よ、私は弱い者です。あなたが十字架を用意される時、私の魂はそれを喜び ません。私は十字架につまずき、よろめき、退却し、被造物の安易な慰めへと向かおうとします。私はいつも十字架からの逃げ場を探しています。人々はそんな 私の臆病さを笑い、非難するかも知れません。

 しかし、今、私の退路を塞いで下さい、主よ! 私にとって慰めとなるのは、主よ、私は不真実な者ですが、あなたは真実な方であられること、あなたは私に 対して、訓練を手加減されるようなことは、決してなさらないと信じられることです。あなたは私に与えられる十字架の重さを、私の臆病と怠慢に応じて、手加 減なさるようなことは、ありませんね、主よ! 

 主よ、あなたは完全なるお方であり、私にも完全を期待して、子としての私を最後まで訓練して下さいます。私を押しつぶさんとする苦難がやって来る時、ど うかあなたと共にゴルゴタへ向かえることを感謝できますように。私を十字架の道へ向かわせて下さい、私の反抗をかえりみないで下さい、そして、私の古き命 のもがきが尽きる時、あなたはその麗しい御手で私を抱え上げ、あなたの安息の甘さの中に入らせて下さると信じます。どうか私たちがあなたから喜びと楽しみ を受けるだけでなく、あなたの苦しみにあずかることを厭わず、十字架を通して、もっと深く神を知ることができますように。


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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