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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の焼き尽くす炎――完全な明け渡し(2)

すべての肉なるものよ、主の御前に静まれ」(ゼカリヤ書2章13節)。

主が現れる時、すべてのものは静まらなければなりません。主は、さらに大いなる自己放棄に私たちを召しておられます。何も恐れる必要はありません。なぜなら、主が格別に私たちを顧みて下さるからです。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49章15節)

おお、なんと慰めに満ちた御言葉でしょう! この御言葉を読んだ後で、いったい誰が、自分を神の導きにまったく明け渡すことを恐れるのでしょうか?<…>


聖書によると、「人は神を見て、なお生きている」ことはできません(出エジプト記33章20節)。人々は、多く祈ることや、活発に黙想することを目標にしています。<…>しかし、どんなに多く祈り、どんなに活発に黙想しても、神を見ること――神と結合されること――はできません。人から出たもの、人の行いから出たものは、たとえそれがどんなに気高く、崇高だったとしても、最初にすべて滅ぼされなければなりません

聖ヨハネは、このことと関連して、「天に静けさがあった」(黙示録8章1節)と言っています。ここで言っている「天」とは、魂の土台、中心を表します。神の威光が現れる時、その中のすべてのものは静まらなければなりません。自己の努力は滅ぼされなければなりませんそれどころか、自己の存在さえも滅ぼされなければなりませんなぜなら、自己だけが神に対立するからです

自己中心性は、あらゆる邪悪な性質の源であり、人のあらゆる邪悪な行いの源です。利己的でなくなればなくなるほど、魂はますます純粋になります。自己中心性は、魂と神との間に差異を生じさせます。しかし、利己的でなくなることによって、魂が純粋さと純潔さを獲得するとき、魂は利己的に生きていた頃の過ちから離れます


神の純粋さと被造物の不純さ、神の単純さと人の複雑さは、まったく対立しますこのように対立しているものを一つにするには、被造物の努力以上のものが必要です全能者の効果的な働きだけが、これを成し遂げることができます。二つのものが一つになるには、その前に、両者の間に何らかの関係、何らかの類似点がなければなりません。たとえば、汚い泥と純粋な金を一つにすることはできません。

それでは、神はどうされるのでしょう? 神は地上に火を送って、不純な活動を滅ぼされますこの火の力に抵抗できるものはありません火はすべてのものを焼き尽くしますこの火は神の知恵です神の知恵は、被造物の中にある不純物をすべて滅ぼしますそれは、被造物を神聖な合一にふさわしい者とするためです

合一にとって致命的な、この不純物とは何でしょう? それは、自己中心性活動です。第一に、自己中心性は合一を妨げます。なぜなら、自己中心性はあらゆる汚れの源泉だからですこの汚れを清純さと一つにすることはできません。太陽の光が泥に降り注いでも、それは決して泥と一つにはなりません。

第二に、活動は合一を妨げます。なぜなら、神は無限の静けさの中におられるからです神と結合されるには、魂は神の静けさにあずからなければなりません。活動と静けさは対照的です。活動は同化を妨げます。


ですから、意志を静まらせない限り、魂は決して神聖な合一に達することができません安息と、最初に創造された時の純粋さの中に回復されない限り、魂は決して神と一つになることはできません

精錬業者が金属を溶鉱炉の中で精錬するように、神は魂を火によって精錬されます金を精錬することができるのは火だけですこの火は少しずつ、地的で異質なものを焼き尽くします火は金をすべての不純物から分離します。不純物は、火の力によって溶かされ、分解されなければなりません。このとき、金はあらゆる不純で異質な粒子から分離されます。金の中から不純物の痕跡がなくなり、もはやこれ以上精錬することができなくなるまで、金は何度も溶鉱炉の中に投げ込まれなければなりません

ガイオン夫人著、短くて簡単な祈りの方法、
第21章第24章より抜粋
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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