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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ジョージ・ミュラーの神への明け渡し(1)

「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ五五・一)

あのハバククの福音の言葉とも言うべき「義人はその信仰によって生きる」という聖句を、はっきりと大きく書いてはっておき、ちょっと見てもすぐ目にはいるようにしておくとよい。

ジョージ・ミュラーが奇跡的な信仰の賜物によって一般の信者たちよりも高く上げられ、その信仰のゆえに、つまずきやすい信者が陥るような誘惑や弱さに追い つかれないようになったなどと考えてはならない。彼は絶え間なくサタンの攻撃を受け、他の人々と同様な罪をしばしば犯しては告白していた。

そればかりでなく、時には不信仰の罪を犯し、神から離れてしまったことを嘆き、その悲しみのために押しつぶされそうになったことも何度かある。事実彼は、自分の生まれつきの性質は普通の人よりも悪く、信者としても全く望みのないだめな人間だと思っていた。

このような心の貧しさ、罪に対する悲しみ、自分が全く無価値であることを意識して神により頼もうとする態度があったからこそなおさら神の恵みの御座に追いやられ、すべての慈悲、すべての力に富まれる見父のもとに走って行ったのではないだろうか彼は弱かったからこそ、大能の御手を持たれるかた、弱いところにこそその御力を完全に表わされるかたの力強い御腕によりすがったのである(第二コリント一二・一―〇)

 このように人間共通の弱さを持ちながら、あのように祈りの力をふるい、あのような信仰生活を送ることは不可能だと考える人は、神の恵み深さの記録であるこの機関誌を読み、彼がいかに罪過を意識して暗い陰の中を歩いたかを見るがよい。彼は豊かなあわれみに浴している最中、あるいは何かの問題について神に介入していただいている時にさえ、神に対して不信頼、不従順の心を起こすような誘惑に苦しみ、時にはその力に屈服して悲しまなければならなかったこともある

日曜日の夕食の時、冷え切った羊の脚部の肉を食べながら、その食事のことを内心不満に思っていることにはっとしたこともある。このような記事を読んでゆくうちに、私たちの接するこの人物は、私たちと同じ情の持ち主であるばかりか、むしろ自分自身が普通の人よりも悪に傾きやすい者であることを自覚し、それゆえ特別な守りの御手を必要としたということがわかってくるのである。

神にすべてをゆだねた新しい道を歩きはじめてまもなく、「このような方法で主にたよるのはむだなことだ」という考えをしばらくの間心にいだき、また「もう この道に深入りしすぎてしまったのではないか」と恐れていたことに気づき、その「罪深さ」を告白したこともある。確かにこの誘惑にはすぐに打ち勝ち、サタ ンをあわてさせたのであるが、この同じ火の矢はしばしば雨のように彼に向かって降りかかって来るので、そのたびに同じ信仰の盾で防がなければならなかっ た。

生涯の終わりに到るまで、彼は自分を信頼したり、ほんの一時的にせよ主にすがる手をゆるめたり、聖書を読み祈ることを怠ったりすると、すぐに罪に陥ってしまうのであった。罪の「古き人」は、いつになっても、ジョージ・ミュラーがひとりで戦う相手としては強すぎたそれゆえ彼は、「信頼の生活」の年数がたてばたつほど、自分を信頼することが少なくなっていった

彼は小さなありふれたことについても、あるいは特別な大きなことに関しても、まず神のみことばに照らして助言を求め、信じて祈りつつ主の導きを得てからでなければ、一歩も先へ進もうとはしなかった。この傾向は、機関誌のページを追ってゆくにしたがってますます顕著になってくる。どんな仕事でも、引き受ける前に必ず神のみこころを知る、それがはっきりするまではその実行を延期するというのが、彼の生涯のモットーであった。そうすることによってこそ魂が祝され、手のわざも栄えるからである。

主の弟子たちの多くは、大きな危機に直面する場合には臆せず神の助けを求めて行くが、小さなことの場合、神の助けや介入を受ける必要はな いと思って、私たちの頭の毛の数をも知り、その一本さえ御許しがなければ落とさせなさらないかたのところへ、その問題を持ってゆこうとはしない。しかしミュラーは、幸いにしてそのようなサタンのわなをのがれ、どんなに小さなことをも主のみもとに携えて行った。

アーサーT.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、海老沢良雄訳、いのちのことば社、pp.76-78
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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